文字数 3,124文字

 僕が十七歳になったその夏も、やはり〈人形の森〉の芝生広場には人影がなかった。まるい広場に沿って並べられた六脚のベンチにも、誰も坐っていなかった。
 七月はじめの梅雨のあい間のとてもよく晴れた日で、僕は八年前に切子がいたベンチに坐って彼女を待っていた。まだ昨日の雨が乾ききっていない芝生が、朝日に照らされた海面みたいにキラキラと輝いていた。
 相変わらず彼女がこのベンチに坐って、黙々とケヤキを見上げている行為を継続していることは知っていた。毎日かどうかまではわからなかったけれど、僕は何日でもここで彼女を待つ覚悟だった。機は熟したのだ。
 ふしぎにも、芝生広場の中心にある大きなケヤキには、七月だというのに葉が一枚もついていなかった。大空いっぱいに広がった枝はそのままだったので、マントを盗まれた死神みたいに、かつての威厳までもがすっかり抜け落ちてしまったような感じだった。
 目を閉じてみると、切子がこの場所に求めているものがわかるような気がした。
 街の中心にあっても、ここだけポッカリと穴が空いてしまっているような静寂、子どもの柔らかい手で肌をなでられているように感じる心地よい木洩れ日の温もり、森のさまざまな匂いを含んでいる涼風、そして大海原に浮かんでいるようなどこよりもゆったりとした時の流れ――。

 どれほど時間が経ったのかわからなかったけれど、しばらくして誰かがベンチに近づいてくるのがわかった。その気配は僕の目の前で止まり――日影になった手が、消毒液を塗ったみたいにひんやりとした――、それからしばらく動かなくなった。
 深呼吸すると咳きこんでしまいそうな強い芝生の匂いと、公園のまわりを走る自動車のエンジン音のこもった音以外、なにも感じなくなった。風すらもそのときは止んでいて、まわりの木々も息を殺してこの光景をじっと見守っているような気がした。
 僕は気配に気づかれないように、頭をたれた姿勢のまましばらく待った。そして慎重に、ゆっくりと時間をかけてうす目をあけてみた。
 うつむき加減だったために、顔を動かさずに目だけで気配をみるのは骨の折れることだったけれど、それでもピカピカに磨きこまれた黒いスクールシューズと、きちんと二つに折られた真っ白のソックスだけは見えた。
 情報としては充分だ。
 それだけでわかるぐらい、そのスクールシューズは特徴のある形をしていた。
 先がとんがっていて全体がカヌーみたいに細く、かかとは芝生に埋もれてしまうぐらい低い。ほとんどの高校では校則違反になるような形だったけれど、その形にはそれぞれもっともらしい解釈がつけられていた。

 とんがった先は、〈俗世からの拒絶〉。
 カヌーみたいに細いのは、〈ぜい肉は悪〉。
 かかとが低いのは、〈母なる大地への(いつく)しみ〉。

 『聖マリー女学園』。
 切子が選んだミッション系の女子高だ。
 このあたりでは校則が厳しいことが有名で、制服の乱れを二度注意されるとすぐに二週間の停学処分にされる、そんな

なのに、親の評判はとてもよかった。そこの生徒じゃない親の評判も上々だった。
 他校の女子生徒からは〈クツ下の折り方まで規制する無菌の培養学校〉としてバカにされていたけれど、男子生徒にはよくモテた。だからいい、という男子も多くて、大抵の男子生徒は、〈クツ下の折り方まで指導する無垢な女性の養成学校〉と解釈していた。

 聖マリー女学園では、ヒザもヒジもひと目にさらすものではないとされていたので、フレアースカートは坐ってもヒザが隠れるぐらい長く、真夏でもシャツは長そでに決められていた。
 フレアースカートは春の空を切りとったような鮮やかな空色で、その色には〈貞淑(ていしゅく)〉という意味があり、マリーブルーという名前までついていた。もちろん、その色も他校の女子生徒からは、あまりにも明るい空色だったために〈軽薄〉と呼ばれて軽蔑される対象となり、男子生徒はその色を見ただけで闘牛みたいに挑んでしまいたくなる目標となっていた。

「変なマネしないでください」とつぜん切子が言った。やわらかい声だったけれど、言い方がエンピツ削りにつっ込んだみたいにとんがっていた。
「どういうつもりなんですか?」
 彼女はベンチの右端に坐った。ギギっとベンチが軋んだ。
 ペンキが剥がれて腐った部分だ、と僕は思った。
 見ると、彼女はつんと胸を張って堂々と坐っていた。とてもペンキが剥がれて腐った部分に坐っているようには見えなかった。
「アナタが望んでることはわかってます」
 切子はコンクリートみたいに冷たい目で僕を見ていた。はじめてみる顔の種類だったし、彼女が僕に向かって怒るのもはじめて見た。でも、切子の部屋で、ジャスミンの鉢を見て絶句していた母さんを睨んでいた時よりはまだマシだった。
「いろいろと嗅ぎまわってるんですってね」
「だれに聞いたの?」
「だれに、なんて問題じゃないです!」ピシャリ、と切子が言った。それまでにないキツイ言い方で、まるで僕の姉さんになったみたいだった。
「なにを知りたいのか、そっちの方がずっと問題です。いまさら私の父さんのこと調べてどうするんですか?」
「キミの父さんのことだけを調べてるんじゃない」僕は切子を見ながら慎重に言った。「キミのことも調べてるんだ」
「私のことを? どうしてですか?」
「謎だから」
 切子は自分を落ち着かせるように、大きく深呼吸をした。
「私だってアナタのことは謎です。ほとんどなんにも知らないです。だからって、アナタのことを探ったりしないじゃないですか」
「婆ちゃんだね、キミに話したの」
「そんなことどうでもいいんですって!」彼女は本気でイラ立っているみたいだった。
「どうして、そうやって私のことを知りたがるんですか? 世の中ふしぎなことっていっぱいあるじゃないですか。いちいち知りたがってたらキリがないです。そう思わないのですか?」
「そう思う」僕はすぐに同意した。「でも、知りたいんだ」
「勝手です!」とまたピシャリ。「いまさらなにが知りたいんですか? 母さんにまで訊いたりして。正気ですか? お父さんにも訊いたんですか?」
「訊いた」
 切子はイラ立たしげに身体を動かして、ベンチに坐った位置を調節した。それにあわせてベンチもギッギッと鳴った。
 彼女は聖マリー女学園に入学した頃から、手ぶくろをはめるようになっていた。よくタクシーの運転手がはめてるような薄い布製の白い手ぶくろで、彼女はそれを下着みたいに何枚も持っていて、いつ見てもおろしたてみたいに清潔にしていた。
 理由はいつものようにだれにも話さなかったけれど、いまは制服が汚れないようにその白い手ぶくろをはめた手をおしりの下に敷いていた。
「お願いですから、そっとしといてください」
 切子はケヤキを見上げたまま、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「もう、ここには、来ないでください。お願いですから――」
 切子がそういうと、まわりの森が拍手するようにザアーっと騒ぎだした。まるで彼女が逆転満塁ホームランを打ったみたいに、森全体が歓声をあげているようだった。
 それから彼女はずっとケヤキを見上げていた。葉がすっかり抜け落ちてしまった裸のケヤキだ。それをじっと見上げているだけで、もう僕を見ようともしなかった。いくら大きな目でも、僕のことはまったく目に入らないみたいだった。
「ひとつだけ訊いていいかな」僕はひかえ目に切りだしてみた。
 切子はなにも応えなかった。じっとケヤキを見上げたままだった。
 八年間この日を待ちつづけ、ようやくほんの少しだけ開けたと思っていた謎のドアが、じつはまったく開いていなかったことを僕は思い知った。
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