文字数 5,165文字

 ――1971年8月――

 家の近くにあった児童公園ではじめて切子(きりこ)を見かけたとき、彼女はまだ僕の妹ではなかった。二年後に妹になることもまったく予期していなかった。それは彼女も同じだったと思う。将来兄となる僕が、自分の姿を背後から盗み見ているなんて想像もしていなかっただろう。

 彼女は公園の隅にあるひょうたん型をした砂場に、たったひとりでしゃがみこんでいた。肩巾よりも大きな麦わら帽子をかぶり、ベージュのワンピースのすそをかかえ込むようにして坐っていた。
「あいつ、砂場からでてきたんだよ、きっと」
 その年の春、同じ小学校に入学したヒロシがおびえた声で言った。
「あの話は赤ん坊だよ」僕は女の子から目をそらさずに言い返した。「あんなに大きな子どもじゃない」
「だから砂場の中で育ったんだって!」
 そう抗議しながらヒロシが僕の服を強く引っぱったので、危うく二人そろって後ろに倒れそうになった。
「やめろって!」
「わからないのか? あいつ、砂場の中で大きくなったんだよ。そうに決まってる。絶対だよ。だって、もうずっと動かないし、あいつが公園に入ってきたところ見た? ねえ、見た?」
「シッ!」僕はふり向いて彼をにらんだ。「静かにしろって!」
 確かに、まだ生まれて間もない赤ん坊が母親の手によって砂場に生き埋めにされたという話は、僕が通っていた小学校では

に噂されていた。もちろん事件になったものではなかったし、じっさいどこの砂場なのかもわからなかったけれど、僕のクラスでは〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊〉の噂で大騒ぎになった。話を聞いただけで泣きだす女の子もいた。
 だけど、当時の僕たちはまだ小学一年生になったばかりだったので、上級生のように〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊の姿〉という凄惨な絵が回ってくることもなく、その噂はそれほど長くはもたなかった。自然消滅するまでに一週間もかからなかったぐらいだ。

 ヒロシはその噂の赤ん坊と、こつ然と現われた女の子を重ねあわせて怯えていたのだ。彼は五年生になる兄によって〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊の姿〉の絵を見せられていたので、僕よりもその噂を強烈に記憶していたのだと思う。
 彼は後になって興奮しながらその絵を再現してくれたけれど、彼が描く赤ん坊の表情がどちらかというとキョトンとしていて、すぐにでも砂場から出てきそうなぐらい元気そうに見えたので、恐くもなんともなかった。この辺りが腐ってたんだって、と真顔で説明されても、顔の左半分を鉛筆で黒く塗りつぶしただけだったこともあって、彼の描く赤ん坊には

が欠けていた。
 そのために僕が記憶する噂の赤ん坊は、弾けそうなぐらいとても元気で、愛くるしいものに変化していた。
「近くに行ってみよう」と僕がヒロシに向かって提案すると、彼はあわてて首をふった。
「砂の中に引っ張りこまれるって」
「まさか」
「絶対だよ。ズズズッて」彼は僕の腕をひっぱった。
「そんなことないって」
「どうしてわかる? どうしてそんなことお前にわかる?」
 僕は彼の手をほどき、女の子から見えないように背後から回って、高さの違う鉄棒の中でいちばん低い鉄棒につかまった。そこが彼女にいちばん近いのだ。
 ヒロシはまだ元の場所(簡単なアスレチックができるようになっているコンクリート製の山のすそ)にいて、今度はそこからじっと

観察していた。すでに謎の女の子よりも、これから引きずり込まれるに決まっている僕に興味が移ったみたいだった。

 そこまで来ても、大きな麦わら帽子のせいで、女の子の顔はまったく見えなかった。砂についてしまうぐらい長い髪と、ピカピカに磨き込まれた黒い靴と、眩しいぐらいに白い靴下は見えたけれど、見かけたことのある子なのかどうかまではまったくわからなかった。
 僕は大きな音をたててせき払いをしてみた。でも、彼女は顔を上げなかった。代わりに僕の横で逆上がりに挑戦していた男の子が、不思議そうな顔をして僕を見ていた。あわてて僕はヒロシを呼んだ。自分でも驚くぐらい大きな声で、手招きもした。
 だけどヒロシはなにも聞こえない

をしていた。僕を見ているのだけれど、他人の顔をしていた。関わりあうことを避けているのは明らかだった。
 女の子もすこしも反応を示さなかった。完全に僕を無視していた。僕だけでなく、彼女は世界のすべてを無視しているみたいだった。
 結局、僕の大きな声は、男の子に逆上がりを再開させるだけの効果しかなかった。

 よく見ると、女の子の足元に高さ五センチぐらいの砂山ができていた。
 目的はわからなかったけれど、指先でつまんだ砂を顔の前にもってきてしばらく祈ってから山の頂上に加える、という作業をくり返しおこなっていた。大切にしていたカナリアを埋めた後に、安らかな眠りを心の中で祈りながら砂を盛っていく、そんな光景だった。
 その山を、砂場にいた赤ん坊がいきなり踏みつけて潰した。まだ一歳半ぐらいの、ちょっとブカブカの赤い帽子をかぶった赤ん坊で、次にオモチャのスコップで女の子の頭の上から砂をぶっかけた。とたんに麦わら帽子が右に傾き、肩に砂がおちて右半身砂まみれになった。だけど、それでも女の子はすこしも動かなかった。
 それまでママ友との話に夢中になっていた赤ん坊の母親が、あわてて女の子にかけ寄って謝っても、女の子はうつむいたままじっとしていた。顔を上げもしなかった。赤ん坊の母親が、砂がそれ以上身体にかからないように注意しながらそっと麦わら帽子を取り、砂を払いのけ、謝りながら彼女の頭にもどして首にゴムをかけた。それでも動かなかった。両手で足を抱えこんだ格好のまま、固まってしまったようにじっとしていた。
 残念ながら、赤ん坊の母親の身体に隠れてしまって、帽子を取ったときの女の子の顔は見えなかったが、その光景を見ていたらしい六年生の早川さんが(僕たちを集めて小学校まで引率してくれていた女の子)、意識して行儀よく歩きながら女の子のところまで来ると、赤ん坊の母親とことばを交わし、後をひき受け、女の子の肩に手をかけて顔をのぞき込みながらなにか言ってるみたいだったけれど、僕のところまではなにも聞こえてこなかった。そこで早川さんは反応を示さない女の子の前で途方に暮れたり、また顔をのぞきこんだりをくり返していた。
 そのときになって、二人のまわりにぽつぽつと人が集まりだした。公園には十五人ぐらいの子が遊んでいたけれど、そのほとんどが集まってきた。走ってくる子もいた。みんな気にしていたのだ。
 その集まってきた子どもたちのせいで、女の子の姿がまったく見えなくなってしまったので、仕方なくしゃがみ込んでみると、何本かの足の間から、さっきと同じようにうつむいて小さく丸まっている女の子の姿が見えた。彼女はその姿勢のまま、また砂の山をつくるのを再開していた。
「顔を上げろぉー」だれか男の子が、ふざけてはやし立てるのが聞こえた。
「なにも集まることないじゃない!」早川さんがみんなにむかって大きな声で抗議した。でも少しも効果はなかった。
「顔見せろぉー」と違う男の子の声がした。
「あっちへ行きなさいよ!」
「なんだ亀子、えっらそうに!」
 彼女はおせっかいやきで、何にでもすぐに首をつっこむので、上級生の間では〈亀子〉と呼ばれていた。
「そうだそうだ、亀子こそあっち行けよ!」
「なによ!」
 僕だって女の子にむかって亀子はひどいと思う。じっさい早川さんも本気で怒り、そのなかのひとりに突っかかっていった。
 そこではじめて女の子が顔を上げた。陽に焼けた顔のなかで、目だけがやけに大きく見えた。鼻の頭と頬に皮がめくれた跡があり、その後もよく陽に焼けて赤くなっていた。いつもうつ向いているのか、唯一首のまん中あたりがツキノワグマみたいに白くなっていた。
 突っかかっていった早川さんの姿を目で追っていた彼女は、またうつむく時に僕を見た。そして止まった。僕は心臓が止まった。彼女の大きな目に、人の背後に隠れて、それも並んだ足の間からこっそりのぞき見している僕のぶざまな姿が映り込んでいるような気がした。
 彼女はすぐにうつむき、それっきり顔をあげることはなかった。なにを言っても、なにが起こっても、ふたたび顔が上げられそうになかった。
 やがて、集まってきた時と同じように、波が引くように人が散っていった。興味をもつのも早いけれど、失うのもまた早いのだ。
 女の子はまたひとりになった。そのことにホッとしているように見えた。そして黙々と山づくりを再開していた。

「ふつうの女の子だったよ」僕はコンクリート製の山に戻ってヒロシに報告した。
「ふつう?」
「見たこともない女の子だったけどね」
「どこか黒ずんでなかった?」
 僕は首をふった。
「日焼けはしてたけどね」
「――臭くなかった? 猫の死骸みたいな、ひどい臭いしなかった?」
「ぜんぜん」
「耳からうじ虫がでてくるとか・・・・」
「そんなことないって。自分で見てくれば?」
 彼は腕組みをして考え込んでいだ。そこまで聞いてもまだ自分の考えを捨て切れずにいるようだった。
 そのとき周囲の空気がわずかに緊張するのが感じられた。
 見知らぬ大人が入ってくると、よくその緊張が起こった。
 自分のテリトリーに痛いほど敏感な年ごろが集まったその公園ではめずらしいことではなかったけれど、見ると、僕の父さんが、知らない女の人と一緒に公園へはいってくるところだった。
 知らない女の人は切子の母さんで、二年後には僕にとっても母さんになる人だ。
 父さんは切子の母さんのすこし後を歩き、休日なのに父さんはダークグレーのスーツを着てシャキッとしていたけれど、切子の母さんは紺色のサマーセーターに水色のフレアースカートというラフな格好で、まるで父さんの方が訪ねてきたお客さんみたいだった。
 僕は息を呑んでその光景をじっと見守っていた。ヒロシは、男が僕の父さんだとは知らなかったので、何もいわずに静観していた。
 女の子の背後から母さんが声をかけると、あれほど動かなかった女の子がすぐにふり向いた。顔が喜んでいた。でも僕の父さんを見ると、すぐに険しい顔になった。当然ながら、父さんはそのことにとても困惑しているようにみえた。
 父さんは切子の前で脚をきちんとあわせて立ち止まり、深く、ゆっくりと頭を下げた。沈痛な雰囲気で、公園内の空気が止まってしまったようだった。父さんは深々と頭を下げたまま、こんどは父さんがその格好で静止していた。
 そんな父さんに切子の母さんが声をかけた。今度も僕にはなにも聞こえなかったけれど、女の子がじっと父さんをにらんでいるのが見えた。父さんは顔を上げて女の子を見た。そこですこし驚いたように一瞬とまり、もう一度もっと深く頭をさげた。僕はひどく混乱していた。
 周囲の子が――好奇心のかたまりみたいな集団が、その光景をどのように見ていたのか、僕にはまったく記憶になかった。ただ、強烈なアブラゼミの鳴き声の中で、見たこともない女の子に頭を下げつづける父さんの姿だけを鮮明に記憶していた。
 当時の僕にとっては、誰よりも強くて、正義で、偉大だった父さんのその姿は衝撃的だった。
 それは僕の頭の中に

みたいになってきつくこびりつき、無理に剥がそうとすると脳の粘膜まで剥がれてしまいそうなぐらい強い記憶だった。
 不意に女の子が父さんに向かって砂を投げつけた。
「あっ!」と僕の後でヒロシが小さく叫んだ。僕は声も出ずにその光景を凝視していた。頭がふらふらした。僕が強烈なパンチをくらったみたいな気がした。
 もう一度投げようとした手を、切子の母さんがあわてて止めていた。そして父さんにむかってなんども謝っていたけれど、父さんは頭を左右に振るだけで顔を上げなかった。両方の耳がまっ赤になっていた。
 やがて母さんが切子を立たせ、彼女の小さな肩に手をおいて帰ろうとしたとき、一緒に歩きだした父さんを母さんが止めた。
 父さんはその場でふたたび頭を深々と下げて、そのふたりを見送った。ふたりの姿が見えなくなっても、しばらく頭を下げつづけていた。そして僕の姿を探すこともなく、肩をがっくりと落としたまま、足を引きずるようにして帰っていった。
「やっぱり、砂場の赤ん坊じゃなかったね」
 ヒロシがホッとした声で言ったが、僕はなにも応えずに、いま見た光景を思い返していた。
 女の子の日焼けした顔、大きな瞳、砂の小山、険しい顔、頭を下げつづける父さん、父さんに砂を投げつける切子――。
 そういった光景をなんども思い返していた。停まる階の表示に関係なく上下するエレベーターみたいに、なんども何度もくり返し思い返していた。
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