文字数 8,235文字

 〈人形の館〉はレンガ造りの古い洋館で、建物の中央にはクルマが二台停められるぐらい大きなひさしがついた玄関があり、その玄関をはさんで、二階の屋根まで届きそうなシュロの木が左右に三本ずつ、建物の前に植えられていた。
 玄関のひさしには、昼間なのに満月のような丸い電灯がぼんやりとついていて、そこから階段を三段上がったところに、観音開きの大きな木製のドアがあった。いまはきっちりと閉じられていたけれど、右側の扉に掛かっていた白いプラスチックプレートに青いペンキで〈開館〉と書かれていて、その下に開館時間〈午前十時から午後五時まで〉、入場料金〈大人 二百円、学生 百円、中学生以下 無料〉と黒いペンキで控えめに書かれていた。
「近くに来てもやっぱり陰気なところだね」僕は傘をたたみながら切子を見た。「においまで陰気だよ」
 切子は傘についた雨のしずくをはらい落としながら、犬みたいにクンクンとにおいをかいだ。
「そう? だったら、建物の中はもっと陰気が充満してるわ」
「キミはそう思わないんだ」
「そういうとらえ方をしたことはないわね」
 切子はていねいに傘のホックまでしっかり止めてから、入口の外に置かれたスチール製の傘立てにコンっと立てた。
「深呼吸してみて――」
 僕はいわれた通り大きく深呼吸した。
「もう一度」と、切子も僕にあわせて深呼吸した。
 そうしていると身体の隅まで〝陰気〟が、じっくりと沁みこんでくるような気がした。
「覚悟はいい?」と笑いながら切子。僕が肯くのを確認してから〈人形の館〉の重そうな扉を開いた。
 ギギギっとお化け屋敷の扉みたいな音がするのかと思ったけれど、音はなにもしなかった。重そうな扉だったけど、すべるようにすうっと開いた。
 切子が扉を押さえたまま、先に入るように僕に促す。
 〈人形の館〉の内部は、雨模様の外よりもずっと暗かった。正面に大きな階段があり、そこの踊り場につけられた窓からはいる光も頼りなげだった。
 壁面は長い年月を感じさせる黄ばんだ漆喰の壁で、腰から下は重いツヤを放っているチーク材になっていた。それらは〈人形の館〉に重厚な印象を造りだし、熟成された空気を醸しだしていた。
 左側に個人医院の受付みたいな小さな窓があり、そこにはクリーム色のシャツを着た小太りのおばさんがひとり坐っていて、僕たちが入ってきても十四インチのテレビからすこしも目を離さなかった。大きな音のまま、胸の前で腕を組んで、怒ったようにじっとテレビの画面をにらんでいた。
 それでも僕たちが受付の前に立つと、小窓から太った腕がにゅっと出てきた。
「学生二枚お願いします」マリーブルー色した生徒手帳を見せながら、慣れているように切子が言った。
 あわてて僕も生徒手帳をだすと、おばさんの手が引っ込み、親指と人さし指で二枚の券をもってふたたび出てくると、小指でクイックイッと入館料を請求した。
 僕はそのイモ虫みたいな小指を見ながら、その手の中にふたり分の入館料をいれた。でも、切子がその中から自分の分だけ抜き取って僕に返し、サイフから自分の分の入館料を取り出しておばさんの手の中に入れた。
「でどころは同じよ」切子が僕の耳元で笑った。とてもいい匂いがした。寒い冬の朝の匂いだ。その匂いをどこから持ってくるのかわからなかったけれど、切子が近くに寄るといつもその匂いがした。

 〈人形の館〉は、正面の大きな階段を中心にして左右に廊下があり、天井から吊り下げられた蛍光灯が、ため息のでるような暗い光を放っていた。
 一階の右側には欧州各地の人形が展示された部屋が四室あり、左側はアフリカ・エジプト・中近東が同じく四室、そして二階が日本という構成になっていた。
「どこか見たいと思う場所はある?」切子が声をひそめて訊いてきた。
「人形を?」
「もちろん。ここにはそれしかないんだもん」
「変わった人形があればみたいね」
 切子がきゅっと肩をすくめた。
「価値があった人形は、戦争で焼けてしまったらしいの」
 そのときおばさんがテレビのボリュームをもっと大きくした。おかげで受付から離れた場所でも、息子が母親を殺害した事件を興奮気味にレポートしている女性レポーターの声が聞こえてきた。
「私は二階へ行きたいんだけど・・・・」切子はチラッとおばさんを見て声をひそめた。「ここよりはゆっくりできると思うし」
「だろうね」僕も声をひそめながら答えた。「ここよりゆっくりできない場所なんて『毎日屋』ぐらいだよ」
 切子は僕を少しにらんでから、ひとりでサッサと二階へと向かったが、その時とても大きな音をたてて階段が軋んだので、僕はあわてておばさんを見てみた。でも、テレビのボリュームが上げられることはなかった。かえって少し下げた。そういう音は気にならないみたいだった。
「あのおばさん以外、ここには誰もいないんだね」と二階へ上がったところで待っていた切子にそう訊いてみた。
「だからいいのよ。――人が集まるとろくなことがないわ」
「たとえば?」
「蛍光灯の数が増える」切子が天井をゆび差した。
 僕は天井を見上げながら肯いた。
「壁を白く塗りかえる」と、今度は壁を差した。「あと、床も張り替えるかもしれないし、そうなるともう全面的に改築ってことになっちゃいそうだし――。人が集まるとろくなことにならないものよ」
「僕だったら、まず最初に券売機を設置するね」
 切子がすぐに首を左右にふった。
「ここはこのままでいいの。ここも、〈人形の森〉も、ずっと今のままで――」
 それが実現しないのが、すでに彼女にはわかっているみたいな言い方だった。

 二階には日本各地の人形が展示されていた。階段をあがって右側が東日本、左側が西日本に分かれていた。
「見たい地域は・・・・」と切子は僕の顔をのぞきこみ、「ないわよね」と笑いながら西日本側へとさっさと向かい、そのまま廊下を突き当たって左側の〈九州・沖縄地方〉と書かれた部屋へ入っていった。
 そこは〈毎日屋〉と同じぐらいの広さで、要するにダンプカー一台分の広さで、部屋へ入って正面と右側に木枠の窓があり、どちらにもペルシャ絨毯のように細かい織りで重そうなカーテンが左右に束ねられていた。
 左側の壁面にそって置かれたガラスケースの棚にさまざまな人形が展示されていたが、〈九州・沖縄地方〉に限定されているにしろ、たいした展示数ではなかった。
 棚の高さも僕の背丈ぐらいしかなく、ざっと見ただけでも二十点あるかどうかで、それも和服の女性人形、木彫りの七福神、焼き物の人形、陶器製のシーサー雌雄セットなど、どこでも見かけそうなものばかりだった。それに、それぞれの人形に下にタイトルが書かれていたけれど、和服の女性人形にしても〈博多人形ー思慕〉と書かれているだけで、細かい解説もなにもなかったので、とくに興味がわくこともなかった。
 切子は部屋の中央に置かれた二人掛けのソファに腰かけて、ティッシュペーパーで靴についた雨のしずくをていねいに拭っていた。
 切子の隣に坐ると、僕のテニスシューズをみてほほ笑み、なにも言わずにゴムの部分だけをチョイチョイと拭ってくれた。それを終えると、汚れたティッシュペーパーをきれいに折りたたんで鞄の中にしまい込んだ。あらかじめ〈汚れたティッシュペーパーをいれる場所〉というのが決められているみたいな、手際のいいしまい方だった。
「ちょっと暑いわね」パチンッとカバンの留めがねをかけながら切子が言った。
「へんなにおいもする」
「そう?」切子は僕を見た。「どんなにおい?」
「象をふいた雑巾を蒸したにおい」
 切子はなにも言わずに正面を向いた。
「やっぱりこの場所が好きじゃないのね」
「嫌いでもないけど、好きにはなれないかな。悪いけど・・・・」
「だからいいのよ」と切子。「万人受けしても、ろくなことにはならないわ」
「あくまでも、ここをキミの個人的なものにしておきたいんだ」
「そうじゃなくて、いつまでも変わらないで欲しいって願ってるだけよ。そう難しいことじゃないと思うんだけど・・・・」
 そういいながら彼女は、坐った目線のちょうど正面に飾られていた三段重ねの赤いガラス製のお重に目を向けていた。
 近くに行ってタイトルを見てみると、『薩摩切子 蓋付三段重』と書いてあり、その下に210φ×210Hとサイズが表記されていた。
「わたしの名前は、その器からつけられたの」
「薩摩切子?」
「そう――。わたしの

が、まだ小さい頃に、その薩摩切子に出会って、すっごく感動したんだって」
 父さんというのは死んだ彼女の父親のことで、僕の父さんの場合は『お』がついて

父さんになった。その差に気づいたのは最近のことだ。
「私が産まれるずっと前の話なんだけどね――」
 切子はそう前置きしてから、この〈人形の館〉のこと、そして彼女の父さんの幼い頃の話しをしてくれた。

 ◇

 いまの〈人形の館〉は、明治から太正にかけて貿易で財を成した資産家の

で、本邸はあの芝生広場のケヤキが植わっている場所にあった。
 当時からその本邸が〈人形の館〉として有名だったが、一般に公開されていたわけではなかったので、〝おびただしい数の人形が飾られている

〟というウワサを聞くだけで、だれもその実態は知らなかった。
「髪が伸びる人形があるってよ!」と切子の父さんの友人A。
「なかにはミイラもあるって兄ちゃんが言ってた!」と友人B。
 まだ小学校の低学年だった切子の父さんたちは、そんなウワサだけで心底怯えていた。
 切子の父さんは〝おびただしい数の人形〟の光景を思い浮かべるだけで恐怖でしかなかったし、髪が伸びる人形やミイラとなると、もう想像したくもなかった。
 そんなとき、同学年で双子のマサルくんとサトルくんが、あの〈人形の館〉の住人だということがわかった。切子の父さんとはどちらともクラスが違ったので、どんな経緯でそうなったのかは不明だったが、友人Aがどちらかに交渉して〈人形の館〉を見学させてくれることになった。友人Bも切子の父さんもOKだった。正直なところ、切子の父さんはまったく行きたくなかったが、なかば強引に連れて行かれたそうだ。
 本邸である〈

人形の館〉への門は、いまの〈人形の森〉の入口にあった。
 それは鉄製の重そうな門で、本当に重いらしく、マサルくんかサトルくんが門の横にあったベルを押してから切子の父さんたちの方を向いてニッコリと笑った。その横でマサルくんかサトルくんが同じようにニッコリと笑っていた。
 マサルくんとサトルくんは本当にそっくりだった。小学校では制服は決まってなかったけれど、ふたりとも白いシャツに紺色の半ズボンに紺色の二本のラインが入った白い靴下という、まったく同じ格好をしていたのでよけいにわからなかった。
「どうしたの?」と友人A。
「待ってるんだ」とたぶんマサルくん。
「ヨシカワさんが、この重い門をあけてくれるんだ」とたぶんサトルくん。
 そうしていると、当時から砂利がしかれていた坂を、見事な白髪をしたヨシカワさんが、落ち着いた足取りで降りてきた。
「友だちを連れてきたんだ」とたぶんマサルくんが、ヨシカワさんが門の前まで来るのを待ってから言った。
 ヨシカワさんは門を開けてから一歩身を引きながら「いらっしゃいませ」とよく通る声で、切子の父さんたちにていねいに頭を下げた。
 マサルくんとサトルくんについて坂を上がっていくと、小学校のように大きな屋敷があり、正面にあった重厚そうな扉をまたヨシカワさんが開けてくれた。
 ウワサの人形は、玄関を入ってすぐ正面に置かれていた大きな棚にすでに飾られていた。
 切子の父さんたちは、想像していたよりも遥かに多い人形の量に圧倒されてしまい、三人ともしばらく呆然と人形の壁を見上げているだけだったという。
 それからマサルくんとサトルくんが、ダイニング、リビング、寝室など、とにかく人形が飾られているところはどこでも案内してくれた。トイレにも連れて行ってくれたそうだ。
 人形の収集には決まりはないようで、とにかく人形ならなんでも、飾ることができる場所であればどこでもすき間なく飾られていたので、人形の視線だけでもめまいがしそうだった。
 そんな人形を見回しながら、髪が伸びる人形ってないの? と恐るおそる友人Aが聞くと、マサルくんとサトルくんが同時に吹き出した。
「そんなのあるわけないじゃん!」とそれもふたり揃って否定した。
「ミイラは?」と友人Bが聞くと、「ないない」とそれもふたり揃っていた。手の振り方まで一緒だった。切子の父さんは心底ホッとしたそうだ。
 そんな膨大な人形コレクションの中で、切子の父さんがいちばん強烈に印象に残ったのは、リビングの飾り台に置かれていた三十センチぐらいのアフリカの木彫像で、女性なのに髪飾りもなく頭が禿げていて、乳房がロケットのようにとんがっており、お腹もお尻もビックリするぐらい突きでているという、とても

とは思えないつくりの人形だった。
「スゴく気味悪いよね、それ」とたぶんマサルくんが顔をしかめながら言った。
「安産のお守りなんだって」とサトルくん。
 そのわりには荒く手彫されたその表情は、これからの出産を心から憂いて、暗く沈んでいるようにしか見えなかった。見ているだけで、よけいに不安になってくるのでは、と切子の父さんは思ったそうだ。
 悪いことに、家へ帰ってきてからもしばらくその人形の幻影に悩まされる日々が続き、自分はアフリカの呪いにかかってしまったのでは? と本気で心配したが、日が経つにつれて、その人形の恐怖が薄れてくると、今度は〝赤いガラス製のうつわ〟のことが頭から離れなくなってしまっていることに気づいた。
 それまでにもずっと頭の中に残っていたが、アフリカ人形の恐怖があまりにも大きくて見えなくなっていたのだ。その時は名前すら忘れていたが、

ばかり集められていたこともあり、それが人形ばかりのコレクションの中で異彩を放っていたのは確かだった。
 それは主人の寝室に飾られていた。そこには人形が一体もなく、壁面に置かれた飾り棚に、薩摩切子だけが飾られていた。
 大皿、大鉢、小付鉢、花器、フタつき壺、脚つきフタ物、脚つき杯、猪口、丸い三段重など、形や用途はさまざまだが、すべて赤い色の薩摩切子だけが飾られていた。
「これはね、サツマのキリコっていうんだ」と言いながらマサルくんが飾り棚の照明をつけると、薩摩切子に光が当たって、宝石のようにキラキラと輝いて見えた。その時の印象があまりにも強烈だったので、いつまでも切子の父さんの記憶に残っていたのだ。
「幕末のたった七年間しか生産されなかったんだって」とサトルくん。
「だから収集がムッチャ難しいって父さんが言ってた」とマサルくん。
 切子の父さんたちは「ふうん」としか返事ができなかった。その時は人形だけでも食傷気味だったし、それにガラスの器なんて人形以上に興味がなかったのだ。
 しかし、時間が経ってみると、それにアフリカ人形の恐怖が薄れてくると、あの照明があてられた薩摩切子のことが気になって仕方なかった。それが宝石のように綺麗だったからなのか、数年で生産されなくなったという希少性からなのかはわからなかったけれど、とにかくもう一度薩摩切子が見たいという思いは、切子の父さんの中で日増しに強くなっていった。
 しかし、残念なことに、それをマサルくんかサトルくんにお願いする前に、あの本邸は大規模な焼夷弾大空襲で焼けてしまい、膨大な人形コレクションと共になくなってしまったのだ。マサルくんとサトルくんは運良く難を逃れていたが、薩摩切子は本邸と同時に失われてしまっていた。
 それから戦後ずいぶんと経ってから、奇跡的に残った別邸と土地、そしてそこに残っていた人形をすべて市へ寄贈という形で〈人形の森〉と〈人形の館〉が生まれたのだそうだ。

 ◇

「薩摩切子って知ってた?」と切子。
「知らない」僕は薩摩切子に目を向けたまま首をふった。「なんにも知らない」
「でしょうね」と切子が笑う。
 僕は立ち上がって、薩摩切子にぐっと顔を近づけてみた。やはりそれは新品のような光沢はなく、時代を感じさせる、曇った古いガラスの器だった。
「透明なガラスの上に、色のついたガラスをかぶせて、その表面を削って模様をつけていくの」
「ふうん」と僕はもっと近づいてうつわを見てみた。
「薩摩切子のいいところはね――」と切子。「かぶせる色のガラスが厚いから、削り具合によって〝ぼかし状態〟になることにあるんだって」
 確かに、紅色ガラスを削った場所によってシャープにカットされたり、ぼんやりとカットされている部分があった。
「それと、その美しい紅色――。藍、緑、黄色、紫とかはできても、透明な紅色はどこもつくることができなかったの。当時はね。それを幕末のたった七年間ぐらいのあいだに造りあげて、それからぷっつりとなくなってしまったの」
「ぷっつりと?」
「そう。鮮やかでしょ。この薩摩切子を強力に推し進めた島津{斉彬}(なりあきら)氏が急死してしまったら、たちまち縮小されたんだって。もしそのまま存続していたら世界のガラス史が変わっていたかもしれないって言われてるぐらい、当時でも完成度の高いものだって評価されてるの」
 僕は改めて薩摩切子をじっくり見てみた。
「本邸にもっとたくさんあった薩摩切子が見たかったなー」と切子が感慨深げに言った。
「それも紅ガラスばっかりなんて、壮観だったろうね」と僕もすぐに同意した。
「いまでも本邸にあった人形や、薩摩切子が全部残ってたら、もっと立派な博物館になってたでしょうね」
「残ってたら、〈人形の館〉もなかったよ」僕はふり向いて肩をすくめてみせた。「ずっと、個人のものだよ」
「それもそうね」と、彼女も肩をすくめてニッコリと笑った。
 僕は切子の隣に坐り、膝の上に置かれていた右手をそっとにぎってみた。
 そうして改めて触ってみると、彼女の手は想像していたよりも柔らかく、つるつるしていた。すこし力をいれると、切子が僕の手の上に冷たい左手をそっと重ねてきた。そしてひとつ小さな、ゴルフボールぐらいのため息をついた。
「わたしのこと好き?」切子は真面目に訊いてきた。
 僕が黙っていると、切子はもう一度おなじセリフを、おなじ調子で訊いてきた。
「難しい質問だね」そう僕が応えても、彼女は承知しなかった。またおなじことを訊いてきた。
「まだよくわからない」僕は正直に応えた。
「たぶん――」切子はすこし間をおいてからゆっくりと言った。「ずっとわからないでしょうね、お互いに――」
 僕は切子の肩をひき寄せてキスをした。切子は目を開けたままだった。唇を強くおしつけても、眼は閉じられなかった。僕の顔が邪魔になって薩摩切子が見えなくなっていても、赤く輝くうつわを見ているような目をぼんやりと開けていた。
 僕がもっと強く唇をおしつけてみると、こんどは切子が僕の頭をおさえて唇をおしつけてきた。その時には彼女もきつく目を閉じていて、まぶたが小さく震えているのがみえた。ほおもぴくぴくと動いた。切子は噛みつきそうなぐらいに激しく、僕に唇をおしつけてきた。切子は泣いていた。泣くことに(あらが)うようにどれだけ強く僕を求めてみても、どうにもならないようだった。

 やがて涙がまぶたに溜り、それが頬を伝う頃になってからゆっくりと力を抜き、僕からそっと離れ、それまで一度も見せたことのない涙をぬぐおうともせずに薩摩切子をぼんやり眺めていた。
 あたりは静寂に満ちていた。人形の冷淡な視線を感じるだけに、その静寂はより深く、濃いものになっていた。
「――ごめんなさい」切子は薩摩切子をじっと見つめながら(あえ)ぐように言った。彼女の目には血のように赤い薩摩切子がちいさく映っていた。
「もうすこし考えさせて――」ようやくそこで僕に目を向けた。薩摩切子を見ていなくても、赤い眼をしていた。
「やっぱり、もうすこし時間が欲しいの」
 大きな蝿がガラス窓にこんっと当ってから、レースのカーテンに止まった。雨はいまもガラス窓にいくつかの線をつくって流れ落ちていた。雨音はしなかった。おばさんのテレビの音もここまでは聞こえてこなかった。
 しばらくして、もう帰りましょう、といって切子はゆっくり立ち上がった。
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