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文字数 4,111文字
それから一週間ほど経ったある日、僕の部屋のドアの下から、半分に折られた白い紙がスッと差しこまれてきた。そのときはじめてスリッパが床をする小さな足音が聞こえて、切子の部屋のドアが遠慮がちにカチンと閉まる音が聞こえた。
紙には『明日の四時、〈人形の森〉で待ってます』と書いてあった。極細の黒いペンで、まん中にきっちりと書かれていた。
翌日、約束の時間よりも三十分も前に〈人形の森〉に行ってみると、すでに切子はいつものベンチに坐って待っていた。
その日も〈人形の森〉には誰もいなかった。風もない日だったので、まるで誰もいないコンサート会場みたいにしらじらとしていた。
彼女がベンチのまん中に坐っていたので、今度は僕が右端のペンキが剥がれて腐った部分に坐った。
「どういう風の吹きまわしって訊きたいんでしょ」
僕はすぐに吹いた。
「なんだよ、それ――」
「なに?」
「なにって、〝どういう風の吹きまわし〟って、はじめて
そのセリフを聞くのは初めてだった。いつもは僕に向かっても〈すみません〉だったり、〈ごめんなさい〉だった。
「人と話すのって、あんまり慣れてないから――」
切子はそう言って僕に目を向けた。
「もちろん、アナタともね。――わかってるでしょ?」
「知ってる」僕ははっきりと肯いた。
それは事実だったと思う。小学校、中学校を通して彼女がだれかと楽しそうに話しこんでいるのを見たことがなかったし、高校生になってからも、友だちとどこかへ遊びに行くなんて聞いたことがなかった。あい変わらずいつも本を読んでいるか、勉強していた。
でも人気はあった。中学一年生の後半から彼女は上級生からも遠巻きに観察されるほど、美しい存在になっていた。僕から見て切子よりきれいだと思える女の子も何人かいたけれど、彼女みたいに勉強ができて、それに
唯一体育だけは、切子が苦手とする科目だった。どんな種目でも、あまりうまくなかった。でもスポーツができない女の子は減点の対象にならないみたいで、かえってその方が女の子らしくていい、という男子が多かったぐらいだ。
一度、中学二年の春に、バスケット部のキャプテンで、勉強もできる人気者の上級生と噂になったことがあった。切子は何をいわれても、あのほほ笑みを顔に浮かべたまま肯定も否定もしなかったけれど、その噂が偽りだったのを僕は知っていた。噂の最中にその上級生から電話がかかってきた時にこっそりと聞いていたのだ。
電話を切子にとりついだ母さんはウキウキしていた。それを受けとった切子ははじめから浮かない顔をしていた。話はじめるともっと沈鬱な表情になった。けっして学校では見せない顔だ。
切子は受話器にむかって「いえ・・・・、ごめんなさい・・・・」としか応えなかった。それ以外は沈黙をとおしていた。
相手が受話器を置いてどこかへ行ってしまったような長い沈黙がしばらくつづいた。それを見た母さんも切子みたいに表情を固くして、なにもいわずに台所へ戻っていった。
それから半月もしないうちに上級生はべつの女の子と噂になった。今度は本当みたいだった。
「どうして誰ともまともに話をしようとしないのか、それも不思議だったんだ」
僕は切子を見ながら言った。
「それも含めて、これから話すね。もう、ぜんぶ話す。なにもかもスッキリとね。どうして話す気になったかは後にして、まずなにか私に訊きたいことってない?」
「そりゃいっぱいあるけど・・・・」と応えながら僕は考えていた。謎がいっぱいあるのはわかっていたけれど、どれから切り出せばいいのかを迷っていた。
「いまはあまり私に関係ない質問の方がいいんだけど・・・・」と切子はケヤキに目を向けながら言った。
いまは、切子がいきなりタメ口になっているのが一番の謎だったけれど、それを指摘すると元の切子に戻ってしまうのも嫌だったので、僕は少し考えてから、目の前のケヤキのことを訊いてみた。ふしぎに思っていることでもあり、無難な疑問だとも思った。
どうして夏になっても一枚も葉がついていないのか、と僕は訊いてみた。
「それはね、
「昔はちゃんとみごとな葉もつけてたんだけど、アナタも見たでしょ? 私たちが兄妹になって、まだそう日が経ってないときに――」
僕がケヤキを見上げたままなにも応えないでいると、切子はおかしそうに笑いながら再びケヤキを見上げた。まだ慣れてない笑い方だった。
「異変に気づいたのは五年前で、毎年その頃になると、ちっちゃな薄緑色の芽がプツプツって出てくるんだけど、その年もはじめはちゃんとでてきたんだ。でも、日が経つうちにそれが大きくもならずにそのまま茶色くなっていって、最初は気のせいかなって思ったんだけど、夏が近づくにつれてそれがそうじゃないっていうことがわかってきたの。その年にちゃんと葉になったのは三分の二ぐらいで、それが次の年になるともっとなくなってしまって――。まるで少しずつ首にかけたロープを絞めていくような、そんな感じ。そうやって本当にしずかに死んでしまったの」
彼女にそういわれると、ケヤキはいかにも苦しそうで、骨ばった腕を空にむけてみずからの死を{嘆}(なげ)いているように見えた。
「詳しいことはわからないけど、だれもそれを疑問に思わないし、私以外興味をもつ人もいないのよねー」
「それじゃ、死にたくもなるね」
「私もそう思う」切子は口元だけを動かして笑った。慈愛をこめた笑顔で、今度は自然だった。
〈人形の森〉の入口の方角から、細い飛行機雲がすうっと伸びてきて、そのまま鋭利な刃物で空を傷つけていくように進んでいく。ときおり雲の先端がウインクするようにキラキラと光り、その先端に置き去りにされたうしろの雲は、しばらくうじうじ悩んだ末に、釈然としないままぼんやりと空ににじんでいった。
「私はね、よくここで父さんに遊んでもらってたの。――アナタが知りたがってた、私の父さんのことよ」
僕は切子を見て、黙って肯いた。
「いま思うと、記憶にあるのはほんの三年間ぐらいのことなんだけど、私はその三年間の記憶で、この十年間もちこたえてきたような気がするの。――嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とか、そんな時に、このベンチに坐って、あのケヤキを見上げているだけで落ち着いてくるの。こういうのっておかしいかな?」
僕はケヤキを見上げながら、ゆっくりと首をふった。そして切子になにかうまい言葉を返そうと思ったけれど、なにも思いつかなかった。
『そんなことないよ』じゃ当たり前すぎてバカみたいだし、『ぜんぜんおかしくない!』って言えるほど、彼女のことを理解しているわけでもないのだ。
それよりも、嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とかに彼女がこの場所へきて、心を落ち着かせようとしていたということが頭から離れなかった。
確かに家では、ひどく落ち込んだ彼女の姿なんて一度も見たことがなかったのだ。
一緒に遊んでくれた父親との思い出がつまったこの場所で、火照った身体をクールダウンさせていくように、彼女はこのベンチに坐って、じっとケヤキを見上げつづけてきたんだなと思った。
僕は切子を見て、もう一度首をふった。
「なに?」
「いや・・・・。ちっとも変じゃない」と、結局僕が普通のことばを返しても、切子は「アリガト」とこれまで見たことがないぐらいチャーミングな笑顔でニッコリと笑った。
「じゃ、他にどう?」と切子が言った。「なんでもいいから、他に訊きたいことってない?」
彼女はなんだかちょっと焦っていた。
「なんでも訊いて。私はアナタを選んだんだから」
「選んだ?」僕は驚いて切子を見た。「僕を?」
「そうよ。アナタに決めたの」切子は明るく言った。いつもとは違う種類の明るさで、電圧を無理に上げているみたいだった。
「だから、今日アナタをここへ誘ったの」
「そう。――でも、どうして急に?」
「急なの。わけあって急いでるの。いまは言えないけど、すぐにわかるわ。なにもかも、この夏ですべてを終わりにしようと思ってるの」
「終わりに?」
「それもじきにわかるわ。でも、いまはなにも聞かないで。簡単に話せることじゃないし、簡単に聞いてほしくもないの。すべてはちゃんと段取りをつけてからね」
なんのことかさっぱりわからなかったけれど、僕は肯いた。
「じゃ、はじめの儀式よ」
切子はそういって僕の口にキスをした。おやすみのキスみたいに簡単なものだったけれど、僕はそれだけでも本当にビックリした。
「兄妹といっても血が繋がっているわけじゃないんだし――」切子はサラリと言ってのけた。
「でなきゃ、先に進まないもの。予定としてはちょっと早かったんだけど、ウジウジ立ち止まってる場合じゃないわ。あなたにとっては急かもしれないけど、私はずっと考えてたの」
「ずっと?」僕はベンチに坐り直して切子を見た。「ずっと・・・・」
「かん違いしないで――」切子は笑いながらあわてて手をふって否定した。
「ずっと、あなたのことを考えてたわけじゃないのよ。いまはうまく言えないけど、あまり深く考えないで。いい? わかった?」
「わかった」
「少なくとも、この〈人形の森〉の中では、わたしたちは
僕はあいまいに肯いた。
じっさいそれからも、家に帰ると切子はいままでのように〈すみません〉や〈ごめんなさい〉の彼女に戻り、優秀で控えめな妹を演じきっていた。不思議にそれは〈人形の森〉を出た瞬間からそうだった。
僕としては八年前に彼女を妹として受け入れるよりも困難なことだったけれど、そのようにして僕と切子の謎に満ちた夏がはじまった。
紙には『明日の四時、〈人形の森〉で待ってます』と書いてあった。極細の黒いペンで、まん中にきっちりと書かれていた。
翌日、約束の時間よりも三十分も前に〈人形の森〉に行ってみると、すでに切子はいつものベンチに坐って待っていた。
その日も〈人形の森〉には誰もいなかった。風もない日だったので、まるで誰もいないコンサート会場みたいにしらじらとしていた。
彼女がベンチのまん中に坐っていたので、今度は僕が右端のペンキが剥がれて腐った部分に坐った。
「どういう風の吹きまわしって訊きたいんでしょ」
僕はすぐに吹いた。
「なんだよ、それ――」
「なに?」
「なにって、〝どういう風の吹きまわし〟って、はじめて
ナマ
で聞いたよ。なんだよ、吹きまわし
って――。最近のドラマでも聞いたことない」と僕が笑うと、切子も笑いながら「それは、ゴメン」とすぐに謝ってきた。そのセリフを聞くのは初めてだった。いつもは僕に向かっても〈すみません〉だったり、〈ごめんなさい〉だった。
「人と話すのって、あんまり慣れてないから――」
切子はそう言って僕に目を向けた。
「もちろん、アナタともね。――わかってるでしょ?」
「知ってる」僕ははっきりと肯いた。
それは事実だったと思う。小学校、中学校を通して彼女がだれかと楽しそうに話しこんでいるのを見たことがなかったし、高校生になってからも、友だちとどこかへ遊びに行くなんて聞いたことがなかった。あい変わらずいつも本を読んでいるか、勉強していた。
でも人気はあった。中学一年生の後半から彼女は上級生からも遠巻きに観察されるほど、美しい存在になっていた。僕から見て切子よりきれいだと思える女の子も何人かいたけれど、彼女みたいに勉強ができて、それに
ほほ笑むこともできる
女の子は少なかった。ほとんどの子はどれかが欠落していた。二つとも欠落している子ももちろんいた。唯一体育だけは、切子が苦手とする科目だった。どんな種目でも、あまりうまくなかった。でもスポーツができない女の子は減点の対象にならないみたいで、かえってその方が女の子らしくていい、という男子が多かったぐらいだ。
一度、中学二年の春に、バスケット部のキャプテンで、勉強もできる人気者の上級生と噂になったことがあった。切子は何をいわれても、あのほほ笑みを顔に浮かべたまま肯定も否定もしなかったけれど、その噂が偽りだったのを僕は知っていた。噂の最中にその上級生から電話がかかってきた時にこっそりと聞いていたのだ。
電話を切子にとりついだ母さんはウキウキしていた。それを受けとった切子ははじめから浮かない顔をしていた。話はじめるともっと沈鬱な表情になった。けっして学校では見せない顔だ。
切子は受話器にむかって「いえ・・・・、ごめんなさい・・・・」としか応えなかった。それ以外は沈黙をとおしていた。
相手が受話器を置いてどこかへ行ってしまったような長い沈黙がしばらくつづいた。それを見た母さんも切子みたいに表情を固くして、なにもいわずに台所へ戻っていった。
それから半月もしないうちに上級生はべつの女の子と噂になった。今度は本当みたいだった。
「どうして誰ともまともに話をしようとしないのか、それも不思議だったんだ」
僕は切子を見ながら言った。
「それも含めて、これから話すね。もう、ぜんぶ話す。なにもかもスッキリとね。どうして話す気になったかは後にして、まずなにか私に訊きたいことってない?」
「そりゃいっぱいあるけど・・・・」と応えながら僕は考えていた。謎がいっぱいあるのはわかっていたけれど、どれから切り出せばいいのかを迷っていた。
「いまはあまり私に関係ない質問の方がいいんだけど・・・・」と切子はケヤキに目を向けながら言った。
いまは、切子がいきなりタメ口になっているのが一番の謎だったけれど、それを指摘すると元の切子に戻ってしまうのも嫌だったので、僕は少し考えてから、目の前のケヤキのことを訊いてみた。ふしぎに思っていることでもあり、無難な疑問だとも思った。
どうして夏になっても一枚も葉がついていないのか、と僕は訊いてみた。
「それはね、
彼は
もう死んじゃったの」切子はケヤキを見上げながらとても残念そうに言った。「昔はちゃんとみごとな葉もつけてたんだけど、アナタも見たでしょ? 私たちが兄妹になって、まだそう日が経ってないときに――」
僕がケヤキを見上げたままなにも応えないでいると、切子はおかしそうに笑いながら再びケヤキを見上げた。まだ慣れてない笑い方だった。
「異変に気づいたのは五年前で、毎年その頃になると、ちっちゃな薄緑色の芽がプツプツって出てくるんだけど、その年もはじめはちゃんとでてきたんだ。でも、日が経つうちにそれが大きくもならずにそのまま茶色くなっていって、最初は気のせいかなって思ったんだけど、夏が近づくにつれてそれがそうじゃないっていうことがわかってきたの。その年にちゃんと葉になったのは三分の二ぐらいで、それが次の年になるともっとなくなってしまって――。まるで少しずつ首にかけたロープを絞めていくような、そんな感じ。そうやって本当にしずかに死んでしまったの」
彼女にそういわれると、ケヤキはいかにも苦しそうで、骨ばった腕を空にむけてみずからの死を{嘆}(なげ)いているように見えた。
「詳しいことはわからないけど、だれもそれを疑問に思わないし、私以外興味をもつ人もいないのよねー」
「それじゃ、死にたくもなるね」
「私もそう思う」切子は口元だけを動かして笑った。慈愛をこめた笑顔で、今度は自然だった。
〈人形の森〉の入口の方角から、細い飛行機雲がすうっと伸びてきて、そのまま鋭利な刃物で空を傷つけていくように進んでいく。ときおり雲の先端がウインクするようにキラキラと光り、その先端に置き去りにされたうしろの雲は、しばらくうじうじ悩んだ末に、釈然としないままぼんやりと空ににじんでいった。
「私はね、よくここで父さんに遊んでもらってたの。――アナタが知りたがってた、私の父さんのことよ」
僕は切子を見て、黙って肯いた。
「いま思うと、記憶にあるのはほんの三年間ぐらいのことなんだけど、私はその三年間の記憶で、この十年間もちこたえてきたような気がするの。――嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とか、そんな時に、このベンチに坐って、あのケヤキを見上げているだけで落ち着いてくるの。こういうのっておかしいかな?」
僕はケヤキを見上げながら、ゆっくりと首をふった。そして切子になにかうまい言葉を返そうと思ったけれど、なにも思いつかなかった。
『そんなことないよ』じゃ当たり前すぎてバカみたいだし、『ぜんぜんおかしくない!』って言えるほど、彼女のことを理解しているわけでもないのだ。
それよりも、嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とかに彼女がこの場所へきて、心を落ち着かせようとしていたということが頭から離れなかった。
確かに家では、ひどく落ち込んだ彼女の姿なんて一度も見たことがなかったのだ。
一緒に遊んでくれた父親との思い出がつまったこの場所で、火照った身体をクールダウンさせていくように、彼女はこのベンチに坐って、じっとケヤキを見上げつづけてきたんだなと思った。
僕は切子を見て、もう一度首をふった。
「なに?」
「いや・・・・。ちっとも変じゃない」と、結局僕が普通のことばを返しても、切子は「アリガト」とこれまで見たことがないぐらいチャーミングな笑顔でニッコリと笑った。
「じゃ、他にどう?」と切子が言った。「なんでもいいから、他に訊きたいことってない?」
彼女はなんだかちょっと焦っていた。
「なんでも訊いて。私はアナタを選んだんだから」
「選んだ?」僕は驚いて切子を見た。「僕を?」
「そうよ。アナタに決めたの」切子は明るく言った。いつもとは違う種類の明るさで、電圧を無理に上げているみたいだった。
「だから、今日アナタをここへ誘ったの」
「そう。――でも、どうして急に?」
「急なの。わけあって急いでるの。いまは言えないけど、すぐにわかるわ。なにもかも、この夏ですべてを終わりにしようと思ってるの」
「終わりに?」
「それもじきにわかるわ。でも、いまはなにも聞かないで。簡単に話せることじゃないし、簡単に聞いてほしくもないの。すべてはちゃんと段取りをつけてからね」
なんのことかさっぱりわからなかったけれど、僕は肯いた。
「じゃ、はじめの儀式よ」
切子はそういって僕の口にキスをした。おやすみのキスみたいに簡単なものだったけれど、僕はそれだけでも本当にビックリした。
「兄妹といっても血が繋がっているわけじゃないんだし――」切子はサラリと言ってのけた。
「でなきゃ、先に進まないもの。予定としてはちょっと早かったんだけど、ウジウジ立ち止まってる場合じゃないわ。あなたにとっては急かもしれないけど、私はずっと考えてたの」
「ずっと?」僕はベンチに坐り直して切子を見た。「ずっと・・・・」
「かん違いしないで――」切子は笑いながらあわてて手をふって否定した。
「ずっと、あなたのことを考えてたわけじゃないのよ。いまはうまく言えないけど、あまり深く考えないで。いい? わかった?」
「わかった」
「少なくとも、この〈人形の森〉の中では、わたしたちは
恋人同士
になる必要があるの。わかってもらえるかなぁ・・・・」僕はあいまいに肯いた。
じっさいそれからも、家に帰ると切子はいままでのように〈すみません〉や〈ごめんなさい〉の彼女に戻り、優秀で控えめな妹を演じきっていた。不思議にそれは〈人形の森〉を出た瞬間からそうだった。
僕としては八年前に彼女を妹として受け入れるよりも困難なことだったけれど、そのようにして僕と切子の謎に満ちた夏がはじまった。