カタツムリ 【動物】

文字数 4,253文字

 大粒の雨が滝のように降り注ぎ、鮮やかな緑色の葉はその濃さを増した。枝に付く一枚一枚からは蓄積された雨粒が鹿威しのように一定の間隔をあけて地面へと落ちる。そんな雨水が低速で進むツムリの貝殻へと注がれると、それは凸凹の模様を辿って、彼の粘着質な身体に流れてきた。冷やかな水に、ジメジメとした湿気の多い空気。今日はなんていいデート日和なのだろうか。ツムリは角を伸ばしながら思った。
 彼女に会ったのは暖かくなりはじめ、まだ多くのカタツムリが長い眠りから目覚めていない頃だった。ツムリは比較的に目覚めが早く、他が活動を始めるよりも少し早く行動をしていた。早起きは三文の徳。誰が言ったかは分からないがいい言葉だとツムリは思っており、次の年はしっかりと早起きをしようと、凍えるような寒さが来る前に考えていたのだ。暖かい土から出たくないという気持ちはあったが、実に、土から這い出てみると心地がよかった。木漏れ日が葉の隙間から指しており、野鳥たちの春を報告する囀りが森に響いた。寝ている間に葉は乾いた茶色いものから瑞々しい緑色に生え変わっており、それはまだ誰にも口をつけられてはいなかった。
 長い眠りの中で失った体力を補給しようと、森を探索している時だった。白濁色の貝殻を背負い、身体は水が形を保ったように透明なカタツムリだった。全身をゆっくりと捻りながら、角は左右になびかせるように動かしている。彼女を一目見た時、貝殻が干からびてしまうのではないかと思ったほどだ。程よいヌメリを持つ皮膚も徐々に水分を失っていき、早起きをして与えられた徳の一つを実感できた。
 ツムリは食べかけていた葉を一旦置いていき、貝殻を必死に揺らして、彼女の元へと進んでいった。彼女はツムリが近づいていくのを感じ、スラッとした長い首を曲げて、振り返った。彼女は円らな瞳でツムリを見つめ、不思議そうな表情をした。
「何か、御用かしら」
 ツムリは自分から声をかけようと思っていたので、先に彼女から声をかけてきたことに驚いた。しかも、追いかけるのに夢中で何と言おうかは考えていなかった。
「あ、その他のカタツムリを探していたら、あなたが目に入って追いかけてしまったんです。早く起きたのはいいけど、誰も周りにいなくて不安だったので」ツムリは明るい口調で言った。
 すると彼女は意外にも大きな笑顔を見せた。
「そうなんですか? 奇遇ですね、私も他のカタたちよりも早く起きてしまって、不安だったんです。あなたが今年初めてお会いしたカタかもしれません」
 優しい口調の彼女からは何処と無く上品な雰囲気が醸し出されていた。立ち振る舞いも、進み方も、いい育ちをしてきたのだと思わせられた。
 少し話をすると、彼女の名前がツムツムということが分かった。冬眠後、身も心も冷えが残っている時に、こうして出会い、話すことは春を感じさせた。ジョークも交えながら話していくうちに、二人の仲は深まった。
 そこでツムリは角をピンと張り、ツムツムにきいた。
「今度どっかにランチでも行きませんか? 去年行ったすごい美味しいとこ知ってるんだけど」
 ツムツムは少し迷ったが、優しく微笑んで首を縦に振った。
 それから時は経ち、日本は梅雨の季節に入った。二、三日雨が続き、一日晴れる。そしてまた雨が降るという繰り返し。カタツムリにとっては最高の季節だった。多くのカタたちは外へと遊びに行き、貝殻を濡らした。カタツムリの多くのデートはこの期間に行われていた。冬眠の間会えなかったカップルや、新しく出会ったカタたちは一斉にどこかへと出かけていた。だからこそ、ツムリも梅雨の真ん中である六月上旬に約束をした。
 案の定、天気は望んだものとなった。噂だと、これから三日間はずっと雨が降り続けるということだったので、その日に雨が上がることはないはずだった。
 ツムリが目指したのは新土という所だった。新土はカタツムリの間では最近人気の町で、程よく濡れた土と新鮮な葉っぱが生い茂ることで有名だった。そのため、多くのお店が立ち並び、遊びに行く場所で新土を選べば間違いはなかった。それに、お互いに分かりやすい場所でもあった。またカタツムリの多くは方向音痴であり、場所が曖昧な場合には、どっちかが迷い、一日中会えないという話も珍しくはなかった。そんな悲劇を避けるためにも、ツムリは新土のお店を選んだ。
 新土へは大体二時間ほど進まなくてはいけなかった。休憩なしで行くとすれば三十分ほど短縮も出来るのだが、そんなリスクを犯してまで時間を短縮する必要はなかった。早めに準備して、早めに出発すればいいだけなのだ。
 ツムリは家を出る前に、しっかりと貝殻を雨で洗い、水分を十分に補給した。艶のある肌はどのカタツムリにもモテるのに必須の要素だった。デートの時には入念に支度をする、それが男に出来るマナーだと父に習ったことを、その日ツムリは実践していた。
 拠点にしている場所から出て三十分が経った頃だろうか。雨はより激しくなり、上空には白い靄が出来ていた。それは湿度が最高に高い状態をカタツムリに伝えるようなもので、それを見られた日には幸運になれると言い伝えでも言われている。
 ツムリは角を大きく広げ、今日のデートがうまく行くようにと頼んだ。
 だが、そんな時だった。遠くから一定のリズムで柔らかくなった地面が踏まれる音が聞こえる。雨が強く地面を叩く音の中に無作為に入ってくる音の正体は人間だった。三人の男たちが懐中電灯を片手に歩いている。三人の男のうち、青いレインコートを着た二人は中年で、黄色いレインコートを着た人は他の二人に比べると若い。全員が銀縁の眼鏡をかけており、何かを話している。ツムリは人間の言葉は全く分からなかったが、彼らが道に迷っているわけではなさそうだった。
 すると、黄色いレインコートの男がツムリの目の前で止まった。そして、屈み込み、ツムリに懐中電灯を直接当てた。太陽のような眩しい光が当たるのだが、温かみは一切感じられない。変な光から逃げようとツムリは急いで進んだ。
 この森は木々に守られ、人間以外の生物が多く住む場所だった。そのため、人間はあまり寄り付かなく、ここにいれば安全だとカタツムリの間では有名な話だった。だから、人間というのはこれまで何度か見たことはあったが、自分から近付こうとはしななかった。
 男は懐中電灯を照らしたまま、先を歩く二人を手招きして呼び寄せた。二人はすぐさま近寄ってきて、同じように屈んだ。三人の男は何かを熱心に話していた。真面目に話す時もあれば、笑い声も静かな森に響いた。
 恐怖の中、ツムリは一生懸命身体を捻らせて、前に進んだ。男たちの方には振り向かず、一心に新土へと向かった。
 男たちはしばらくすると、ツムリに光を当てるのを止めて立ち上がり、またどこかへ歩いて行った。全員の歩幅はとてつもなく大きく、カタツムリが数分かけて進む距離を一歩で進んだ。
 ツムリは息を荒げながら、遠くの場所にいるというカタツムリの話を思い出していた。この森の外側には土は少なく、硬く栄養も何もないような岩が永遠と続いているという。そこには数え切れないほどの人間がいて、あたり一面歩いているらしい。また、そこは夏になると太陽に直接触ったかのように熱せられ、潜り込める土を見つけられないと、数時間も経たないうちに干からびてしまうのだ。そんな危険が沢山潜む場所にも必死に生きようとするカタたちがいるのだという。彼らは勇敢で、その環境下で長く生きられたものは神にも等しいのだとか。
 人間と直接触れ合った今、ツムリはその人間の世界に住むカタたちがどれだけ偉大なのだろうかと思った。ただ逃げるしか出来なかったツムリは、デートの前に少し自信を失った。
 途中で葉をつまみ食いしたり、水を飲んだりしながら進んでいると、ツムリは四分の一程度のところまで辿り着いていた。新土まであと少し。ツムリは休むことなく進み続けた。だが、そこからは治安が悪くなることでも有名だった。アリや蜘蛛など、カタツムリが天敵とする生物たちが待ち構えていることが多い場所だった。
 出会いませんように。
 そう天に願った時だった。地面に落ちていた木の枝の端から黒い鎧を身に纏ったアリが姿を現した。雨に濡れ、鎧は綺麗な艶が出ていた。だが、顔は恐ろしく、触覚は常に獲物を探しているようにゆらゆらと動いている。アリの凶暴な顎に食いちぎられて死んでしまう、カタツムリの中でも一二を争うほどの嫌な死に方だった。
 今日は運がついていない。白い靄の噂は信じられないな……。
 静かにツムリはそこを去ろうとした。ゆっくりと地面を這っていき、その場から離れようとした。
 だが、アリの鋭い観察眼を出し抜くのは不可能に等しかった。
 アリに見つかった時は何もするな。最後に何をしたかったかだけを考えろ。アリに襲われたというカタツムリがツムリに教えてくれたことだった。
 アリはツムリを見るなり、勢いよく襲ってきた。長く、がっしりとしたがいつの間にかにツムリの体に巻きついてきていた。アリは顎を大きく開き、首へとかぶりついた。
 首元にアリの鋭い牙が突き刺さる。
 まずい。死んでしまう。
 あの子に会いにいかなくては。
 今まで会ってきたカタたちの中で、本気で一目惚れをしたあの子の元に行かなくては。
 そう強く思った瞬間、首元に感じていた嫌な感触が緩くなった。ツムリが振り返り、アリを見ていると、すぐにどこかへ行ってしまった。
 どういうことなのだろう。あの世へと一歩踏み入れていたツムリは不思議に思った。
「もうなんで一緒に行こうって言ってくれなかったんですか」
 聞き覚えのある声が木の上から聞こえてくる。それは新土で会う予定だったツムツムだった。ツムツムは笑顔で、ゆっくりと木の幹を辿って降りてきていた。その横を大きな雨粒が通り過ぎ、ツムリの貝殻に落ちてくる。
 ツムリは水の上に波紋が広がるように、閃いた。
 ツムツムは偶然会ったツムリがアリに狙われているところを、木の上に登って、葉の上に溜まっていた水を一気に落としてアリを撃退させたのだ。
「どう、助かったでしょ?」ツムツムは上品に言った。
 ツムリは「ありがとう」としか言えなかった。だが、それと同時に勇敢な彼女の一面はより魅力的に見えた。上品そうなのに強いところもある。
 ツムリはそんな彼女に惚れ直し、この後のディナーを思うと角が左右に大きく揺れた。
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