迷路の中の私たち【ヒューマンドラマ】

文字数 3,876文字

 講義は数百人が座ることのできる広い教室で行われる。正確な数字は人が多すぎて定かではないが、講義を受ける学生のカラフルで個性的な頭が、人間ではなく風船のように見えるほどだ。『恋愛心理学』という名の講義を受講するほとんどの学生は心理学の「し」の字も知らず、単純にこの授業が楽単―楽に単位を取れる講義の呼称―であり、恋愛という他の堅苦しい授業にはない甘い匂いに惹かれた人たちであった。この講義を受ければ異性を手玉に取る方法を学び、大学生活中にパートナーを見つけ、充実した日々を送れるのではないかと淡い期待を抱いており、その証拠にこの教室ではあらゆる香水が空中で混じり合い、私の鼻を突く。
 私と梨花と優香の三人はその日、講義が始まる十分前に教室へと入った。三限の講義だからか弁当を近くの店で買い、教室で食べるグループが多く、大半の席はすでに埋まってしまっていた。男性グループの野太い笑い声と女性グループのひそやかだが甲高い声が響いている。他の声に負けないよう、彼ら彼女らの声の大きさは膨らんでいく。そこに既視感を感じると思っていたが、それが小学校で感じていた授業前の雰囲気だと気づいたのはつい先週のことだ。梨花は鬱蒼とした雰囲気の中をかき分けるように見渡し、目標を見つけると、はにかんでから手を小さく胸の前で振り、私と優香の前を歩いて行った。
 緩い傾斜の階段を上がっていき、黒板からはどんどん離れていく。先には梨花と優香が仲良くしている二人の男がいた。梨花が二人にお願いしていたのか、前には三人分の席が空けられている。片耳にピアスを付けた長身の男で、基本的にモノトーンの服を着ているのが健斗であり、オーバーサイズでゆったりとした服を着ているが、アクセサリーが何個も指についるのが龍司だった。それぞれ違うファッションなのに、二人ともセンターパートという同じ髪型をしており、それが可笑しく思える。そんな二人と梨花と優香は前の学期に講義で一緒になり、意気投合したという。そこに私のような、梨花と優香の二人と今学期に違う授業で知り合った人間が入り込んでいいのかと思うが、誘ってくれているのだから無理に断ることもできない。第一、私にはこの講義の中で他に友人がいない。色欲にまみれるこの空間で孤立ことは避けたかった。
「今日も遅れてくるかと思った」
 おつかれー、と私たちが空席に入り込んでいくと、健斗が優香を見て、からかうように言った。そんな健斗に梨花が「ちゃんと今日は時間見て来ましたー」と嬉しげに反抗をみせた。目を見て言われた優香は特に反応しない。
「あ、そのピアスかっこいいね。センスいい」
 梨花は畳み掛けるように健斗を褒める。一昨日買ったのだと満更でもない表情をしたが、視線はちらちらと優香へ移る。健斗は無意識のつもりだが、私も優香も、もちろん梨花もその忙しい目線には気づいている。だからなのか梨花はそのピアスをどこで買ったのかだったり、何故それを選んだのかを必死にきいている。
 こういう相手の懐へと華麗に入り込んでいける梨花に私は尊敬混じりの妬みを感じていた。たとえピアスを褒めているとしても、カッコいいという言葉を使うのは相手に私が気があるのではないかと勘違いされそうで口には出来ない。その相手が片想い中の人であれば尚更言葉には出来ない。カッコいいなんて言って、相手が私のことを気持ち悪いと思ったりしたらどうしよう、この言葉一つで関係性が崩れてしまってはどうしようと考えると、カッコいいと思う心情は濁して、ぼかされていく。そして口から発せられる頃にはカッコいいとは果てしないほど遠い表現になっていて、時には自分の気持ちとは正反対に伝わることすらある。梨花は私が「カッコいい」に対してこんなにも悩んでいるのに、その段階をスキップして素直に自分の気持ちを相手に伝えている。恥ずかしがることもなく、目を逸らすこともなく、友人のようにごく自然に。そんな彼女は恋愛だけではなく、人生全般で上手くいくのではないかと思う。社会へ出ても、表裏のない褒め言葉がすらりと出てくる彼女はきっと周りから好かれ、瞬きをしている間に仲良くなり、慕われる。口下手で、変なところで率直な意見を言ってしまう私とは違う種族の人間のように見える。
 くだらない思想に浸っている間に会話がピアスからアクセサリー、アクセサリーからファッションの話へと滞りなく話題が変わっていく。主に梨花と健斗が喋り、龍司と優香が一言二言口を挟み、私は聞き役に回る。話に強引に入っていく必要はない。話題を振られた時に少し話して、質問で返すことが私なりのセオリーであった。
「優香も何か雰囲気変わったよね。髪切った?」
 ぼそっと口にしたのは龍司だった。声を張ることもなく、何かのついでのように。
「切ってはないけど、毛先をちょっと外にハネさせたんだよね」と優香はボブショートの潤った髪を触れた。
「あー、外ハネか。似合ってるよ」
 龍司が微笑むと、優香も俯き気味に微笑む。
「二人は気づいてたの?」と健斗が私と梨花に。
「そりゃあ、もちろん」私たちは息が合ったように言った。
 健斗は何も言わずに驚いた表情をみせた。完全なる男脳。残念なイケメン。余計なコメントをしなければ意中の人とも付き合えるのだろうが、どうもこの抜けている感じが私には合わない。
「梨花は短くしたりとかしないの」龍司はきいた。
「んー、私はロングが好きだから。ほら、私ってショート似合わないし」
「そんなことないと思うけど」
「えー、じゃあショートにしちゃおうかなあ」
 健斗とは対照的に龍司は一言に重みをのせるタイプだった。相手の望むような言葉をタイミングよく出してくれる男性。無口なせいで二人になったら何を話すのかと興味が湧くけど、私もサシで話すのは得意ではないから実際に二人きりで話すことは考えられない。
「俺はロングの方がタイプだけどなー」コーヒーを啜りながら、健斗は言う。
「知ってる」梨花はそう言って笑った。
「それこそ優香はロングも似合いそうだよな。黒髪で伸ばせばクールビューティって感じになりそう」
「昔は優香にもロングの時あったんだよ」
「そうなん? 写真――」
「いいって。一年の時のことだし、メイクも上手くなかったから見せたくない」
 優香が斬り捨てるように断る。口角は上がっているが、眼は笑っているようには見えない。それなのに健斗は「まじかあ。見たかったな」と能天気に言っていた。
 前方から話し声がざわつきへと変わっていく。黒板のある方向へと身体の向きを戻すと、教授が教壇で書類を整えていた。もう六十を超えているように見える教授は優しいオーラが溢れ出ており、実家のような安心感が伝わってくる。今では白髪で髪も薄れ、腕は細く、顔は皺だらけだが、昔はそうとうモテていたのだろう。きっとこの教室で受講しているどの男性よりも濃度の濃い恋愛をしてきたに違いない。
 教授がマイクを握り、こんにちはと挨拶をすると、講義がゆったりと始まる。もう若々しく騒がしい話し声は響いていない。
 教授は淡々と心理学に基づいて恋愛を語っていく。まるでそこに正解があるように、きっぱりと恋愛に潜む魔物の正体を教えてくれる。こうして客観的に恋愛を解剖していくと、簡単に思え、不思議と自分に自信が湧いてくる。もしかしたら、この教室を出る時に他の男の子に声をかけ、カフェに誘い、連絡先を交換できるかもしれない。
 でも、ふと現実を振り返ると、先生が話している途中で手を挙げようかと迷ってしまう。「もし、このやり方が通用しない人を好きになってしまったらどうすればいいのでしょうか?」と面倒臭い質問をしたくなる。この世には素直になって、好意的に話しかけても結ばれない人がいることを私は知っているから。人間はとことん複雑なのだ。九十分の講義を合計十五回では語りきれないほどに混み合っている。自分が追われる立場になるとマタドールのように避けていく人もいれば、自分に無関心な人を無性に追っかけたくなる人もいる。好きな人の気を引くために、誰か他の人をまず褒める人もいる。ただ純粋に、素直になって「好き」だと伝え、「はい、ありがとう。僕も好きです」となる確率の方が低いのだ。「好き」と言えば「いや、まだ僕、私のことを知らないでしょ」となり、「もう連絡を取らない」と決心すれば「なぜ連絡をしてくれないのだろう」と余計に気にかかる。もともと嫌っていた人同士が久しぶりに再開して、一夜を共にするなんて話も聞く。考えれば考えるほど変な方向に行ってしまうのが恋愛であり、それを知っていながらも考えることをやめられないのが恋愛なんだと思う。好きな人がいないのにこんな風に考え込んでいる私は、きっとその時が訪れたら行動に起こすことすら出来ないのだろう。
 頭の中でぐるぐると考えている間に講義は終わっていた。周りの学生は解放されたかのように授業前よりも大きな声で話している。私の友人たちも同じだった。
「どっかカフェで課題していかない?」と梨花。
「いいね。てか、本当に課題すんのかよ」と健斗。
「健斗と違って、私たちは真面目だから」と優香。
 龍司はあっさりと否定される健斗を見て笑っている。
「早苗も行くよね?」梨花が私に聞いた。
「もちろん!」私は元気に答える。
 それは私の恋愛のため。今は出来るだけ多くの恋愛を間近で見ておきたいと思ったから。いつか私の前に好きな人ができた時に、迷わずどんな行動が最適かを選べるように。自己中な私を許してほしい。
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