完璧【ヒューマンドラマ】

文字数 2,981文字

 一段空けた先に一人の青年が携帯を眺めながら立っている。気怠そうに手すりにもたれている後ろ姿は一見具合が悪そうに思えるが、実際には必死に現実逃避をしているだけなのだろう。次の授業のことを考えたくないから、世界に溢れる情報の海に自らの意識を投げ入れているのだ。きっと彼の目はこの世に未練を残した死人の目よりも生気がない。そんな彼の後ろに立つ僕は、彼の頭をしばきたいと思っていた。いや、しばきたいというよりかはしばいてみたい。叩くというよりも、しばくを意識する。真上からではなく、擦るように。彼に気付かれないようにゆっくりと詰め寄り、腕を目一杯伸ばし、頭から三十度ほど上から勢いよく。きっとバコンというような鈍い音ではなく、パシンと響き渡るような音がするだろう。彼の前にも、僕の後ろにも人はいない。彼と僕の二人だけの事件が勃発する。
 叩かれた彼はどのように反応するだろうか。頭を抑え、何も言わずに驚いた表情で僕の顔を確認するだろうか。それとも「いってえーな」と苛ついた声を漏らしながら、睨みつけるように振り返るだろうか。もしかすると、気付かないかもしれない。携帯に吸い取られた意識は自分の本体が攻撃を受けたことを感じず、ネットの中で泳ぎ続けるかもしれない。
 そっと手を伸ばす。頭には届かない距離でどのようにこの手を振り下ろそうかと頭の中でシミュレーションする。行動に移した時にしくじらないように、リハーサルを徹底的に行う。
 よし、やってみよう。
 手を下ろし、一段登ると、彼の広い背中で視界が埋め尽くされるようだった。
 彼は僕が真後ろにきたことに気が付いていない。まだまだ携帯に夢中だ。今だったら、しばける。
 生唾を飲み、腕を上げようとしたが無理だった。僕の人生がこの些細な過ちで大きく狂ってしまうということを僕の頭はしっかりと理解し、身体を制御した。何も関係性のない赤の他人に暴力を振るうなんて、常識的におかしいことなのだ。衝動に任せ、そんなことをすれば大ごとになり、僕が他人の頭をしばいたという噂はたちまち大学中に広がる。人の口には決して鍵をかけることができず、噂はその話題性が途切れるまで永遠に生き続ける。特に僕のように、皆に優しいと言われるような人が事件を起こしてしまえば、話題性は高まり、僕が彼と付き合っている女の子を好きだったとか、真実とはかけ離れた情報が流れ始める。もうあと一年半で卒業で、すでに内定ももらっているのだから、そんな面倒は避けなければいけない。
 三階に着くと、青年は現実へと帰ってきたかのように携帯をポケットにしまい、前を向いて歩き始める。僕の講義室は四階だから、ここでお別れ。衝動に駆られずに済んで安心する自分と、どこか悔やむ気持ちが混ざり合った。
 四○六は四階の中央に位置する教室で、他の教室の二、三倍の生徒数が講義を受けることができる。すでに後方の席は携帯ゲームに勤しむ学生に陣取られ、中央から前方の席しか空いていない。だがまあ、都合がいい。せっかく四十分かけて学校に来ているのだ。講義を聞かなければ学校に来る意味はないのだから。こう言うと後方に座るような連中は必死に訴えるだろう。「友達に会いに来てるんだ」と。たしかにそれも理由の一つとなるだろうが、友達には講義後にご飯でも行けばいい。文系大学生、特に俺たちの学部は宿題が山ほど出されるわけじゃないんだから、講義後はいくらでも時間がある。わざわざ講義中にゲームをしたり、ボーッとする意味はやはりないのだ。きっと彼ら彼女らもそれを分かっている。では、なぜそんな無意味な事をやるのだろう。怠惰か、講義がつまらないからか、勉強が嫌いなのか、それとも刺激が足りないからか。中間テストだったり、学期末だったり、そういった時期に彼らは焦り出して、一致団結したかのように情報収集を始める。レポートの内容はどうしたとか、どういう風に書いたらいいとか、何文字書いたら単位がもらえるとか、そんなくだらないこと。そんな事に焦燥感を覚え、単位を受け取った瞬間に快楽を得る。一種のギャンブルを大学内で行っているのではないか。彼らはそのことに気付いていないだろうが……。
 いつも通り、授業が進む。先週の復習(ほとんどが老年講師の近況報告)が十分ほど行われ、今週の内容へと移っていく。後ろの学生のコソコソ声がノイズ音のように聞こえる。老年講師はそんな彼らの存在に気付いていないように講義を進める。スーツには皺がなく、サイズもぴったり。それなのに堅苦しい雰囲気はなく、物腰が柔らかい印象を感じる。きっと大きな失敗を起こすことなく生きてきたんだろうな。小中高、そして大学と成績は常に上位で、教壇の上に立つ先生の話を聞き、学会にも積極的に参加する。騙し合いや足の引っ張り合いなんかも無縁で、きっとどんな犯罪も犯したことがないのだろう。
 僕がいきなり前に行き、裸になってみたりしたら、老年講師は何をするだろう。裸で突っ立っている僕を叱責するだろうか。いや、しないな。叱責するというよりも、僕の気が狂ったのではないかと心配してくれるだろう。そんな先生だ。
 まあ、そんな事を妄想するだけで、実際にはしない。
「じゃあ、前の方からこの問題についてどう思うか、前のホワイトボードに書いていってください」
 老年講師は周りを見渡してから、僕の妄想に耽った目を見た。
 僕は席を立ち、少し緊張しながら歩いていく。
 ホワイトボードに自分の意見を書くことに緊張しているのではない。ちょっとした好奇心が身体を硬くした。ボードに一言書き記す。振り返ると、生徒たちが列を作っていた。後方まで列が伸びているせいか、後方の席の学生は立たずにこっちを見ている。ああ、まずい。頭で思い描いていた妄想が現実になりつつある。まずいと思いながらも、心の端の方から高揚感が広がってくる。社会が作り出したマナーだったり、ルールだったり、法律だったりを破ることに。ずっといい子ちゃんを続けてきた人生を破壊することに胸が高鳴る。
 シャツの裾から手を入れ、ベルトに触れる。
 ズボンと一緒にパンツを下げれば一瞬で破壊できるのだ!
 列に並ぶ数人の学生が僕を見た。後方の連中とも目線が重なる。
 教室中ががやがやしている。きっと僕のことで皆話しているわけではない。が、皆んなの話し声の全てが僕に向けられたものだと錯覚する。
 やるぞ!
 破壊してやる!
 両腕に力を入れた瞬間だった。僕の肩に力強い手がのし掛かった。
「席に着いていいんだよ」
 老年講師は僕の顔を覗き込むように見ながら、諭すように言った。
「ああ、はい。すいません」
 僕はできるだけ自然に振る舞い、駆け足で自分の席へと腰を下ろした。
 列に並ぶ学生は誰も僕の方を見ない。ただホワイトボードを眺め、自分の意見が先に書かれないことを願っているようだった。
 よかった。僕はそう思った自分に驚いた。
 安堵と刺激。僕は人生を破壊しようとすることで得ようとしている。安定した人生を賭け金に、刺激を感じようとしていた。
 危ない。とても危険だ。
 それでもこの衝動を僕に止められるか分からない。
 もしかすると、将来僕はとんでもない事をしでかすのではないだろうか。
 自分の人生だけではなく、他人の人生を崩壊させてしまうような刺激を追い求めて……。
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