カーテンの影【ヒューマンドラマ】

文字数 2,067文字

 私は彼のことを全く理解できていなかったのかもしれない。口では大丈夫と言っていたが、本当は胸の中に鉛のような重いものを常に抱えていたのだ。それに耐えきれなくなって、彼は今、私の目の前に横たわっている。
 進藤真波が恋人である横田大輔を彼女らが同棲しているマンションの一室の浴槽で見つけたのは、彼女が仕事を終えて帰ってきた時のことだ。玄関を開け、いつも通り、ただいま、と言っても返事はなかった。大輔はいつも真波よりも帰宅するのが早く、普通なら家にいるはずなのに、玄関から細い廊下を通して見えるリビングにも、電気が点いてはいない。
 まだ帰ってないのか。真波は靴を脱ぎながら思った。大輔が仕事仲間とお酒を飲みに行くことは少なからずあったからだ。
 しかし、リビングへと向かう途中に漠然とだが彼女を不安が襲った。鼓動が激しくなり、前に進む歩幅が少しずつ短くなる。なぜか胸騒ぎがした。玄関に大輔の仕事用の黒い革靴がきちんと並べられていたからだ。また、いつもは出かける際には連絡をくれていたのだが、その連絡も携帯には届いていない。
 大輔は帰ってきた。それなのに部屋中が真っ暗。寝る時も電気をすべて消すことはない大輔だ。すべての電気を消して、過ごしているとは考えられなかった。
 何かがおかしい。
 真波の予感は的中した。どの部屋も電気は点いていなかったのに、お風呂場だけ電気が点けられていた。
「大輔? いるの?」と真波が声をかけても返事がない。
 真波は脱衣場と風呂場を隔てる半透明の扉を開けようとしたが、何かに押さえつけられているようで動かない。何回も力強く扉を引っ張ると、扉がガシャン、と大きな音を立てて開いた。その瞬間、風呂場からは白い煙が一斉に出てきた。
 風呂場は霧が覆っているように白く霞んでいた。アロマの甘い匂いと、彼が好きだったタバコの臭いが鼻を刺激した。
 浴槽には水は張られていない。空っぽの浴槽にはスーツを着ている大輔が、赤ん坊のように眠っていた。大輔の臀部には、タバコの箱が落ちており、その中から数本こぼれ落ちている。それを握っていたであろう手は開いており、力が入っていない。
 洗い場にはどこから買ってきたのか分からない七輪が、ぽつんと置いてある。風呂場に一つ付いている窓の縁にはガムテープが貼られており、空気が出ないようになっていた。後ろを振り返ってみると、扉の縁にもガムテープが張られている。
 練炭を使った自殺だ。
 真波は刑事ドラマで見た場面にそっくりな場面を見て、愕然とした。
 言葉が出ず、ただ力が抜け、崩れ落ちるように膝が地面へと着いた。
 なぜ彼が自殺しなければいけなかったのか。何が彼をそこまで追い込んでいたのか。真波には思い当たるものがあった。
 それは彼の職場だ。二十三歳になる彼は、初めて入った会社を辞め、転職した。前の会社では上司との仲があまり良くなかったらしい。しかし、転職先でも同じであった。あまり有名ではない大学を卒業しているせいか、上司は常に大輔に対し難癖をつけた。あんな大学を出ているからこんな仕事もできないのだと言われる日々だった。ここ最近になり、それはエスカレートしていった。絶対に一日では終わらない業務を無理やり押し付け、出来なければ大輔を侮辱した。その侮辱は彼に対するものだけではなく、彼の家族までもが対象になった。しかし、大輔は真波にこのことを相談はしなかった。心配をかけたくなかったのかもしれない。真波も普段疲れているのだから、と此の期に及んでもなお、誰かのことを思っていたのかもしれない。だが、日に日に彼の窶れていく姿に真波は気が付いていた。
「最近大丈夫? ひどく疲れているみたいだけど」
 真波が聞いても、大輔はくしゃっとした笑顔で頷くだけだった。
 頷くだけで、彼に生気がないのは明白だった。だが、大丈夫と言い続ける彼に甘えていたのかもしれない。
 真波は零れ落ちる涙の一粒一粒に後悔の念を込めた。戻らぬ過去に手を伸ばし、決して変えられないという事実を恨んだ。
 真波が理解していたと勘違いしていた彼の心はカーテンのような軽薄で、強固な壁に守られていたような気がした。時に彼は本当の心を見せた。付き合いたての頃のような輝く笑顔を見せ、真波はそれに胸を踊らせた。しかし、それは瞬く間にカーテンの向こう側の影へと成り下がった。大輔のシルエットだけが、その壁に写し出されるのだが、彼がどんな表情をしているのか理解できていなかったのだ。もしかしたら、彼はカーテンの裏でひっそりと息を引き取っていたのかもしれない。
「ごめんね」真波は嗚咽が混じった声で、浴槽に眠る大輔に謝った。
 その声はキャンドルから滲み出る甘い匂いと融合し、小さな風呂場に反響する。自分の声が耳に入ってくる度に、真波は自分の愚かさを呪った。常に一緒にいたのに、虚無の大輔しか見えていなかったことに。
 彼女は溢れ出る涙を乾いた腕で拭いながら、立ち上がった。
「今度は大輔のことをしっかりと見るから」
 真波は呟きながら、リビングへの道のりを急いだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み