第5話 炭酸水

文字数 2,058文字

 真夜中に炭酸水が飲みたくなることがある。
 そういう時のために冷蔵庫の中には何種類かのペットボトルを常備しているんだけど、今夜に限って何もなかった。買い忘れたのだろうか。それとも、定期注文の更新が切れた? どちらにせよ、今、僕は、強い炭酸水が飲みたい。幸いにも今暮らしているマンションから徒歩3分圏内にコンビニが二軒ある。壁の時計を見上げると、時刻はちょうど23時。少し歩いて帰ってくるだけなら日付が変わることもないだろう。真夜中のお散歩、程度の感覚だ。
「坊ちゃん、どちらに?」
 玄関でスニーカーを履いていると、同居人の菅原(すがわら)が声をかけてきた。菅原は僕の同居人であり、保護者であり、秘書であり、相棒であり──あるのだけど、すべてに「

」と付けたくなる不可思議な大人だ。部屋着の上にパーカーを羽織った僕は「炭酸」と短く答える。
「ああ……プチプチするあの……もうないんですか?」
「ない」
「夜ですよ。私が買ってきますよ」
 菅原の言いたいことは、まあ分かる。春先には変質者も増える。変質者に遭遇したくない気持ちはもちろんあったが、それ以上に菅原は買い物が下手だ。僕が求めている「強炭酸レモン風味」ではなく「強炭酸ジンジャーエール」をふつうに1ダース買ってきたりする。まず間違えてるし、1本でいいし(今飲むものがほしいだけで、ストックは明日の学校帰りにでもスーパーで買い込めばいいのだ)、何より菅原は炭酸水を飲まない。酒も。なので僕は、その後しばらく今飲みたい気分ではない飲み物をぐびぐびやりながら生活することになる。まあ別に……ジンジャーエールが飲みたい気分の時もなくはないんだけど……。
「というわけで、自分で行く」
「そんな……では私もご一緒します」
 言うと思った。
 僕は胸の前で両手首をブラブラさせ、
「出るかもよぉ?」
「うっ……」
 菅原は買い物が苦手だけど、幽霊も苦手。特技は確定申告。
「だ、大丈夫です、行きます!」
 それでも一緒に来てくれるっていうんだから、保護者の鑑だよなぁ。

 菅原が付いてきてくれるというので、家から徒歩5分の場所にある少し大きめのコンビニ方面に足を伸ばした。僕は部屋着にパーカー、菅原はなんでか黒い着物を着ていた。和服。おまえの寝巻きそんなんだったっけ。
「坊ちゃんは炭酸がお好きですねぇ」
「まあね」
「大人になったらたくさんお酒を飲まれるんでしょうねぇ」
「それはどうかな……」
 僕の実父は飲酒運転の車にはねられて死んだ、ということになっている。詳しいことを僕は知らされていない。今の僕の書類上の保護者である伯父、父の兄が詳細を何ひとつ教えてくれないからだ。まあいいけど。成人して自由になったら自分で調べるけど。
「すがわ、──」
「ああっ! 坊ちゃん!」
「え?」
 そうなったらおまえも手伝ってくれよな菅原──そう言いかけた僕の目の前で、当の菅原が素っ頓狂な声を上げている。
 彼の目の前には飲料の自動販売機。ものすごい猫背だから分かりにくいけど、実は菅原は自動販売機より背が高い。あと髪の毛が長い。今は夜空と同じ色の髪をポニーテールにしていて、本物の尻尾みたいに揺れている。
「これ、お好きじゃなかったですか?」
「え? あー」
 時々見かける、格安自動販売機だ。あまりメジャーじゃないメーカーの──ああ、本当だ。菅原が指差しているのは、ほんの1ヶ月前まで僕の中で大流行していた炭酸飲料だ。

 1本80円。旬が過ぎたのかな、お安くなっちゃって。

「あ、でも、コンビニに行くんでしたね。マンガの雑誌も買いますか?」
「んー」
 控えめな光を放つ自販機を示してニコニコと笑う菅原、目的を思い出して真顔になる菅原、マンガの雑誌はおまえが読みたいんだろう菅原。彼の顔を見ていたら、無性に1本80円、柚子の香り付けがされているその炭酸水が飲みたくなってきた。
「これ買って帰ろ」
「えっ」
「小銭ある? 3本くらい買っとこ、もう買えないだろうし」
「もう買えないんですか?」
 小首を傾げる菅原は、ちょっと浮世離れした面がある。慣れたけど。
「そうだよ。こういうところで安く買い叩かれる商品は、あんまり人気がなかったから今後製造されることはないってこと」
「それは……」
 寂しいですねえ。小銭を自販機に入れ、ボタンを押し、商品を取り出し、再び小銭を自販機に入れ、ボタンを押し、商品を──という動きを繰り返しながら菅原が噛み締めるように呟く。菅原?
「勿体無いから全部買いましょう。あ、もう押せない」
「売り切れ……」
「明日来たら、また買えるでしょうか?」
「どうかなぁ」
 ここに設置してある自販機ではデッドストック炭酸水が売れるぞっつって残り物がどんどん運び込まれてくる可能性もあるけど、実際どうなるかは分からない。
「3本で良かったのに」
 両腕に大量のペットボトルを抱える菅原を見上げて、思わず苦笑していた。
「菅原も飲めば?」
「炭酸は喉を焼きますからねぇ」

 やっぱり良く分からない。変質者にも幽霊にも出会わない、しかし奇妙な夜の散歩だった。
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