第4話 簿記二級

文字数 1,113文字

「父も母もおりませぬ。崇拝者だけがおりました。
 わたくしははじめから、わたくしひとりだけでございます。

 名前はありませぬ。わたくしは混沌でございます。ぐちゃぐちゃでございます。
 わたくしは水の中におりました。或いは森の中におりました。望まれれば都にも向かいました。
 人を殺しました。家を壊しました。獣の血を啜りました。
 望まれましたので、すべてを行いました。

 わたくしは、

 わたくしはばけものでございます。
 そう。
 ばけもの。
 わたくしがばけものであると、混沌ではない、人に、動物に、都に、国に、害をなすものであると気付いた、もしくは気付かれた瞬間から、崇拝者は敵となりました。

 詮無い話。

 わたくしは混沌でありたかった。ばけものにはなりたくなかった。わたくしは。
 ぐちゃぐちゃのままで良かった。

 ばけもののわたくしに居場所はございませぬ。各地を放浪いたしました。
 どの土地にも長く棲むことは許されませぬ。何せばけものでございますから。土地に変事を招いてしまう。
 いく度目かの放浪先で、何者かが、おそらく人間だったと思うのですが、その方がわたくしを●●●●と呼びました。
 わたくしはばけものから●●●●という存在に変貌いたしました。

 わたくしは。

 ●●●●になったわたくしは、混沌から、ぐちゃぐちゃから離れ、模倣を行うようになりました。そう、人間の姿に。
 人間の真似をしているわたくしは正しいわたくしではありませぬ。ですが、以前のように石を投げ付けられたり、土地を追われることはなくなりました。
 わたくしは、●●●●でいることを選びました。
 人の真似をして生きることを、選びました。

 ──あなたが知りたいと仰ったのに。

 わたくしは混沌でございます。ぐちゃぐちゃでございます。かつては崇拝者もおりました。あなたがたの言葉を借りれば、○でございます。

 なにとぞよろしくお願いいたします。」

 とんでもない履歴書だと思った。

 そもそも履歴書の体を成していない、なんだこの怪文書は。

 丁寧に二つ折りにされた藁半紙を片手に、錆殻(さびがら)光臣(みつおみ)は目の前の来客用ソファに腰を下ろす男をじっと見詰める。ぱっと見は人間だ。だがこの履歴書を信用するならば、彼は人間ではない。●●●●だ。その上○だ。
 どうすればいい。

「……仕事を探しているのか?」

 問いに、男は静かに頷いた。

「うちは、確かに経理のアルバイトを募集してはいたが」

簿

、合格しております」
「……」

 もっと他に向いている仕事があるだろう。この男には。
 いや、この、ばけものには。
 どうすればいい。錆殻光臣は苦虫を噛み潰したような顔で、履歴書と、簿記二級を所持するばけものとを、交互に見詰める。
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