第2話

文字数 2,906文字

 腹が満たされた小暮は不意に尿意を憶え、先ほどとは別の少女に便所があるかと尋ねた。それからトイレットと書かれた扉をくぐり、小便器の前に立つと、いきなり大量の水が流れてきた。
「うわっ! なんだこれは!?」
 たまらず背後にあった個室に身を移すと、洋式便器に戸惑うものの、取り敢えず、ズボンを下ろしながら腰を据える。ついでに大の方も済ませると、壁にいくつものボタンがあるのに気が付いた。
「そういえば、水洗便所というものを聞いたことがある。なるほど、これで流すのだな」
 躊躇(ちゅうちょ)もせずに手を伸ばすと、一番左にある水色のボタンを押した……。
 
 下半身がずぶ濡れとなった小暮は、便所の前であたふたしていると、やがて柴田が現れ、厨房の奥にある小部屋へと連れていかれた。
 そこはシャワーだけの浴室で、小暮は軍服を脱ぎ、ふんどしを外した。
 蛇口をひねると、流れ出た水は思った以上に冷たかったが、それでも冷水で体を清めることにした。床には赤や黄色の入れ物が並んでいて、試しにふたの部分を触ってみると、管の先端から、ぬるぬるとした液体が漏れ出してきた。これはマズいと迷わず石鹸を取り、泡立てながら全身を洗い流す。
 すると、扉の外から柴田の声が聞こえてきた。
「おっさん。ここに着替えを置いとくから、あとはよろしく」
「有難い。(いた)みいるぞ」
 シャワーを終え、用意された大きめの柔らかい手ぬぐいで体を拭きとると、紙袋の中から衣服を取り出す。
 そこにふんどしは無く、見たことのない下着に躊躇せずにはいられなかったが、それでも何とか着終えることができた。上下ともつるつるとした肌触りがどうも馴染めない。生地は初めての素材だったが、しばらく経つと意外としっくりきた。
 郷に入れば郷に従え。小暮はこの時代の生活に順応する決意をした……。
 
 それから柴田に促されるまま、別の部屋に移動すると、そこは畳敷きの四畳半だった。
 冷蔵庫から、ブリキの缶のようなものを二つ取り出した柴田は、一つを小暮に手渡すと、ふたの部分にある金具を引っ張り、音を立てて穴が開いた。見よう見まねでそれに続くと、柴田はガラスのコップに注ぎ入れる。
 黄色の炭酸に物凄い量の白い泡が噴き上がると、柴田はそのコップを傾け、小暮にも勧めてきた。
「これは何と言う飲み物だ?」小暮の問いかけに、柴田はビールだと答えた。
 試しに飲んでみると、「これは美味い。五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡るとは、正にこの事だな」と、げっぷをしながら久しぶりのアルコールに酔いしれる。
 訝しがる柴田に五臓六腑の意味を説明すると、柴田は「大げさだな」と膝を叩く。
 二缶飲み終えた小暮は、腹を割ってこれまでのいきさつを語り出した。
 実家は農家であること。ある日、召集令状が届いて陸軍に入隊したこと。それから伍長となりフィリピン諸島の最前線の任務に就いたこと。そこで敵兵の弾丸に倒れたこと。命は惜しくないが田舎に残した女房や幼子が心配なこと……。
 それから出来れば靖国で霊を弔い、故郷に帰りたいと本音をぶちまけた。
 気が付くと涙がこぼれていた。その気はなかったのだが、傷心にふけっていたのだろうと思われる。もう二度と泣くまいと思っていただけに、感慨もひとしおであった。
 相槌を入れながら聞いていた柴田は、「敗戦したが、この国は復興したから、おっさんが不安がることは無い。あんたのやったことは報われているさ」と、労いの言葉をかけてきた。
 それから柴田は布団を敷くと、疲れ切った小暮はその上に横たわり、即座に眠りの世界に降りていった……。

 翌日、柴田と一緒に図書館に出掛け、小暮はこの時代について調べてみることにした。
 あの戦争の後、一時的とはいえアメリカに支配されるものの、その後、急速な発展を遂げて、今や世界第三位の経済大国となっていた。敵国とみなされたアメリカや欧米諸国とは同盟を結び、戦争を永久に放棄(ほうき)したとある。その一方で天皇陛下は平民になり、わが国の象徴という理解しがたい曖昧な立場になられたのだという。
 そこに小暮の思い描いていた未来は無かった。
 確かに平和にはなったものの、世界各地では紛争が絶え間なく起こり、家庭内暴力や幼児虐待、引きこもりと言った社会問題から、振り込め詐欺や若者による衝動的な無差別殺人など、小暮のいた時代では考えられないような事件が多発している。
 何のためにこの身を捧げたのだろうか。小暮は身を切られる思いだった。
「……なあ、柴田殿よ。この国は本当に復興したと言えるのだろうか? 自分には到底そうとは思えぬ。自分はやはりあの時に死ぬべきだったのかもしれんな」
 虚ろな目で柴田を見ると、小暮は深い溜息をついた。
「おっさんの言うことも判る。だが、少なくとも経済においては発展したと言えるだろうな。だが、引き換えとして愛国心を失いつつあるのは間違いない。いわばトレードオフだな」
都令豆腐(とれいどうふ)? 東京都は豆腐を販売するようになったのか?」
 相変わらず言葉が通じないことろがあるが、二人は憔悴(しょうすい)した面持ちで図書館を出た。

 その後、柴田の計らいで、当分は臨時職員として働かせてもらうこととなった。これまで接客は行ったことは無いが、腕っぷしを見込まれて給仕兼用心棒として段取りを組まれた。

 ある日、小暮が皿洗いをしていること、入口から男性が来店してきた。頭に派手な柄の布(バンダナというらしい)を巻いた恰幅の良い若者で、黒縁の大きな眼鏡をしている。背中に背負った鞄からは筒状の紙が飛び出していた。
「レナレナ、ただいま。今日も可愛ゆいね」
 隣で料理を盛り付けている柴田の話によると、バンダナの男は常連客の一人で、南川ということが知らされた。彼はレナレナというメイドがお気に入りらしく、彼女目当てに、月に二・三回程訪れるのだという。レナレナとは萌え萌え倶楽部の看板娘の一人であり、器量がよいためか指名客も多かった。
 レナレナは男の肩を叩きながら愛想を振りまいている。
「もうご主人様ったら。いつもお上手ね。今日もコミケの帰りなの?」
「そうさ。ときめきセインツの大凱門エルダのフィギュアがあったから、思い切ってゲットしちゃった。レアでハイプライスだったから、かなりシンキングしたんだけど、コスプレシスターズに勧められちゃったりしたもんだから、どうしてもノーサンキューと言えなくてね」
 暗号のような会話を聞きながら、柴田に疑問を投げかける。
「あの客は何言っているのかさっぱり判りかねる。ヒグマがどうした? 『腰振(こしふ)()すた明日(あす)』とは下品なのか物騒なのか想像もつかん。どこかで革命でも起きておるのかな?」
「そんな事は気にしなくていい。そのうちに自然と覚えるから」
 胸のもやもやが取れぬまま、小暮は皿洗いを続けた。

 その南川という男が、のちに大騒動を引き起こすのだが、それはしばらく経ってからのことであった……。
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