第3話

文字数 5,324文字

 萌え萌え倶楽部で働き出してからひと月が経ち、小暮は勉強のため同業他社の店舗へ視察に行くことにした。どこも似たようなものであったが、一つだけ印象深い店があった。
 それは『ブラッドルーム』といって、血の部屋という意味の冥途貨幣らしく、柴田のアドバイスにあった話題のツンドラの店舗だという。
「ツンドラか。帝政ロシアとの戦争の際、かつての上官が樺太(からふと)まで遠征にいったと語っていた。その上官から聞かされた話によると、そこは寒地高原という地域で……」
 そこで柴田は小暮を制す。
「ツンドラじゃなくてツンデレ。一見、ウチのようなメイドカフェだけど、女の子がツンツンしていて、たまにデレっとしてくる。……まあ、百聞は一見に如かず。とにかく行ってみればわかるさ」
 ツンもデレも全く理解できない説明だったが、それでも小暮はその店に向かった。出来れば柴田も一緒に来てほしいと嘆願したが、予定が空けられないらしく、断念せざるを得ない。

 いざ、店の前に着いたはいいが、どうしても扉を開けることが出来ないでいた。というのも、萌え萌え倶楽部以外の店には入ったことがなく、如何にも怪しげな雰囲気が漂っている。ためらっている場合ではないことは承知しているが、それでも足が言うことを聞かない。
 思案に暮れること小一時間。意を決した小暮は断腸の思いで扉をくぐった。
 店の中は一見、萌え萌え倶楽部と何ら変わり映えの無いように思え、一先ず安心感を憶える。やがてメイドの一人が小暮を見つけたらしく、ぶっきらぼうに声をかけてきた。
「あんたひとり? 空いているところに座ってくれる? 適当でいいから」
 どうしてこのは、初対面である自分にそんな生意気な口を叩くのか? 小暮は頭に血が上らずにはいられない。
「おい、貴様! 客に向かって何という口の利き方だ!」
 しかし、彼女は小暮の言うことなど、どこ吹く風。凛と澄ました顔で眉間にしわを寄せる。
「嫌なら別に帰ってもいいのよ」
「無論、そうさせてもらおう」
 そこで柴田の言葉を思い出す。『何があっても決して怒らないで。彼女たちはワザとやっているんだから』
 そうだった。ここは何としても堪えなければならない。小暮は怒りを憶えるも冷静に振舞いながら席につく。
「注文は何?」
「まだメニューも見ておらん。もう少し待たれい」
「早くしてよね、……まったく。トロいんだから」
 はらわたが煮えくり返る気持ちを抑え、慌ててお品書きを開く。そこにはまったく食欲をそそらない名前のお品書きが並んでいた。
「この『愛情のかけらもないカレー』とは何だ? 普通のカレーとはどこが違う?」
「普通のカレーと同じ。レトルトだけど」
 レトルト? つまり萌え萌え倶楽部でいうところの『ほんわかハッピーカレー』と同じというわけか。しかし、名前一つで、こうも印象が違うものかと関心しきり。
「じゃあ、この『適当コロッケ』は?」
「そのままよ。適当にチンした冷凍コロッケ」
 (ちん)? 零党(れいとう)? 増々判らん。萌え萌え倶楽部でもコロッケを扱っているが、電子レンジというもので温めている。きっと調理法が違うのだろう。
「まだ決まらないの? これでも忙しいのよ。男のくせに決断力が無いわね」
 急かされて焦りを憶える小暮は、言われた通り適当に選ぶことにした。
承知仕(しょうちつかまつ)った。ではこの『地獄の嫌がらせドリア』と『ヤバヤバアイス』を頂こうか。よく判らんが」
「そんなんでいいの? 判ったわ。あなたのために心を込めて作るわね」
 そう言ってメイドは奥へと消えていった。
 今のは何だ? ちょっとだけ胸がときめいたぞ。これが“ツンドラ”と言うやつか? だが、よく考えれば不思議でも何でもない。客に出す料理に心を込めるのは当たり前だ。
 周りの様子を伺うと、他のメイドたちも彼女と同じように不愛想に接客していた。客たちはそれに満足しているようで、小暮には理解できずにいる。

 しばらくしてさっきのメイドは料理の盛られた皿を運び、乱暴に音を立てながらテーブルに置いた。早速一口食べてみると、舌が麻痺(まひ)するほどの辛さだった。地獄の嫌がらせとはこの事だのかと思い知らされる。
「せっかく作ったんだから全部食べてちょうだい。残したら承知しないからね」
 言われなくても、そんな勿体ないことをするつもりはない。しかし、この辛さは尋常(じんじょう)ではなかった。噴き出す汗が止まらず、水を何度もお代わりをして、ようやく食べ終えることが出来た。
「ありがとう、全部食べてくれて。今からアイスを持って来るわね」
 さっきまでの無粋(ぶすい)な態度はどこへやら、メイドは優しい笑顔を向けながら丁寧に会釈をした。
 なんだろう、この奇妙な感触は――と思わずにはいられない。
「はい、お待ちどうさま」
 するとメイドは隣に座り、彼女自身が(さじ)をすくった。
「なんだ。貴様が食べるのか」
「違うわよ。はい、あ~んして」
 彼女はアイスの乗った匙を小暮の口元まで運んできた。
「子どもじゃないんだから、自分で食べる。そんな恥ずかしい真似できるか!」
「あら、私じゃ嫌なの? ……ぐすん。せっかくあなたのために用意したのに……」
 さっきまでの邪険な態度は見る影もなく、今はまるで別人のようにしおらしくなっている。
「すまん。貴様を傷つけるつもりはなかったんだ。許してくれ」
「本当? じゃあ、あ~んして」笑顔に戻ったメイドは、再びアイスをすくう。
 小暮は仕方がなく、まぶたを閉じながら口を開けた。照れ臭さは尋常ではない。帝国軍人とあろうものが何をやらされているのかと思うと、物悲しい気持ちでいっぱいになる。しかし、冷たくひんやりとした物体が口の中に広がり、とてつもない甘さが舌を刺激して、何とも言い難い素敵な味がした。
「誠に美味であった」
「ベ、別にあなたなんかのために作ったわけじゃなんだからね」
 さっきと言っていることが矛盾している。では何のために作ったのだろうかと疑問を持たざるを得ない。
 それから会計を済ませると、彼女は甘えるような声を出してきた。
「今日は来てくれてありがとう。失礼な事を言ったけど、本当はあなたに会えて嬉しかったのよ。良かったらまた来てね」
 なんという可憐で健気な女子だ。こんな気持ちは久しく経験していない。まさか四十路にもなって、年端もいかぬ少女に、こんなにときめくものとは思いもしなかった。ツンドラの効果は絶大である。
 さっきのやり取りを思い返すと顔がにやけてしまうが、妻子ある身なのだからうつつを抜かしてはならぬと肝に銘じ、ブラッドルームを出た。
 この日を境に、連日通う程の常連になったのは言うまでもない。

 それからしばらく経った頃、一人の客が来店した。月に一、二度現れるという常連の南川だった。しかし、今日は何だか様子がおかしい。そわそわして落ち着かず、冷風機(クーラー)が効いているにも関わず、額の汗を何回もぬぐっている。
 柴田に相談すると、彼も不安げな様子で南川の動向を見守るようにしていた。
 そこで雪凜が彼に笑顔を向ける。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「すみません、レナレナはいますか?」
「あいにく、今日は遅番なんです。もう少しで来ると思いますので、席についてお待ちになっていてください」実際にレナレナは遅番なので、彼女の対応に間違いはない。
 しかし、南川は立ったまま動こうとはしない。彼は背中の鞄を床に置くと、そこから包丁を取り出して雪凛へ向けた。
「嘘つくな! 本当はいるくせに、僕と会うのが嫌だから隠れているんだろう? レナレナ! いるのは判っている。さっさと出てこい!!」
「きゃああ!!」
 店内は騒然となり、混乱のるつぼと化した。小暮は厨房へ入り、西洋風片手鍋(フライパン)を掴むと、男の前で構える。出来れば愛用していた短刀があればよかったのだが、危険だからと柴田に処分されていたのが悔やまれる。
「貴様、それでも日本男児か! こんなことをしてなんになる。分をわきまえろ!」
「うるさい、邪魔するな!」
 包丁の矛先を小暮に向けた南川は、勢いよく突進してきた。しかし小倉はひょいとかわし、西洋風片手鍋で包丁を叩き落した。
「これでも剣道二段だ。貴様のような若造には負けんぞ!」素早く包丁を蹴り、柴田が拾い上げた。
 南川は両ひざをついて、顔を覆う。やがてすすり泣く声が聞こえてくると、小暮は西洋風片手鍋をテーブルに置いてそっと手を伸ばす。
 一瞬のスキをついて、南川は小暮に体当たりをした。不意打ちを喰らい、よろめいていると、南川は雪凜に襲い掛かり、背後から羽交い絞めにした。懐からナイフを取り出して怯える雪凜の喉元に刃を押し当てた。
「お前なんかに俺の気持ちなんてわかってたまるか! レナレナ! 本当は奥に隠れているんだろう? きっと僕のことなんて最初から好きじゃなかったんだ。だったらはっきりとそう言ってくれよ……僕のようなオタクは世間から奇異な目で見られ、ガールフレンドどころか友達すらいない。そんな僕にレナレナだけは優しくしてくれた。彼女と会話をしている時だけが、唯一の幸せな時間だったんだ。――それなのに最近は会ってくれないし、今日だってまだ来ていないとごまかされる。……こうなったらこいつを殺して僕も死んでやる!!」
 潤んだ瞳をぬぐおうともせず、南川は鬼気迫る顔で、小暮を睨みつける。雪凜は声も出せず、蒼ざめた顔で震えていた。
 小暮は一歩前に足を進めると、孤独な犯罪者に諭した。
「貴様にも判っておろう。所詮は金で買った愛情だと。ここはあくまでも虚構の世界。金で幻想を提供する場だ。それを勘違いしてもらっては困る。それにレナレナも貴様の事を決して嫌いなどではない。たまたま欠勤日にお主が来店して来ただけだ」
「本当に?」
「本当だとも。大和魂に誓って」
 茫然自失(ぼうぜんじしつ)となった南川は、ゆっくりとした挙動で雪凜を解放した。小暮はナイフを下ろしなさいと近づいた瞬間、南川はニヤリと口元を歪め、ナイフを小暮の横腹に突き刺した。
「なんてな。そんな子供だましに騙されるものか。どうせ僕は警察に捕まって死刑になるんだ。あんたも道連れになってもらおう」
 店内は騒然となった。あちこちから悲鳴が上がり、逃げまどう客やメイドたちが出口に詰めかける。
「き、貴様。それでも日本男児か。こんなだまし討ちのような真似をして、レナレナが本気で喜ぶとでも思っているのか!!」
「そんな気なんてさらさらない。所詮、僕は日陰者さ。どんなに頑張ったって、誰からも見向きもされないんだ。せめてこんな騒ぎを起こして、レナレナの心に残ればいい。あんたのようなきれい事ばかりじゃ、この世の中は渡っていけないんだよ!」後半は涙声になっていた。
 南川としても決して本気ではなかったのだろう。それが引っ込みがつかなくなって、思わず刺したというのが小暮の見解であった。
 小暮はその場で膝をつき、横腹のナイフを抜き取ると、床に転がせた。柴田が何処かへ電話している姿が目に入ったが、それに気づかないふりをして小暮は痛みをこらえながら南川に語り掛ける。
「……そう思いたければそれでも構わぬ。だが、レナレナは本気で貴様の事を気にかけておったのは事実だ。自分のことは信じてもらわなくても結構だ。しかし、彼女の思いだけは信じてやってはもらえぬか。……そして忘れないでほしい。貴様には腐敗しきった社会に思えるだろうが、それでもかつて栄光あるこの国の未来を信じ、身を捧げた人々がいたことをな……」
 南川は小暮の手を握りしめ、「判りました。あなたを信じることにします」と力強く言った。その瞳に迷いはなく、少年の様な澄んだ色をしていた。
 電話を終えた柴田が駆け寄ると、小暮を抱きかかえようとした。が、その必要は無いと払いのける。
「……どうやらお迎えが来たようだ。運が良ければ、また、別の時代で会えるかもしれんな」
 小暮には感じていた。フィリピンで撃たれた時の感覚と同じだと。

 恍惚(こうこつ)な表情を浮かべる小暮は徐々に薄くなり、淡い光と共に跡形もなく消え去っていく。柴田たちはそれを無言で見つめていた……。

 やがてサイレンが鳴り、警官たちが店内にどっと押し寄せると、うなだれながら肩を震わす南川を拘束した。
 そこにレナレナが出勤してきた。あまりの光景に唖然(あぜん)とし、膠着(こうちゃく)してしまう。
 南川は警官に腕を掴まれたまま、レナレナと目を合わせると、こう投げかけた。
「レナレナ、ごめん。君のことを誤解していた。しばらくは会えないかもしれないけれど、待っていてくれるかい?」
 すると彼女はあからさまに顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「お前キモいんだよ! これまで我慢して付き合ってあげていたの、気づいていなかったワケ?」
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