文字数 11,058文字



 たった一頭、砂の大海原(おおうなばら)をラクダが行きます。
 その首に看板の大鍵を()げ、こぶの背には正体をなくした男を乗せて。
 男は街から街へと砂漠を旅する流しの鍵屋でした。
 貝笛を吹き吹き通りを行けば、人々はこわれた(じょう)や鍵を持ち寄ってこの鍵屋に群がります。彼の(あきな)いはそれらの修理と下取り、そして新品を売りさばくことでした。
 ところがこの日、街から街へのいつもの途上(とじょう)で鍵屋は方角を失ってしまいます。
 目印となる泉があるべき場所に見当たらないのです。
 夜ならば星を手がかりに見当をつけることもできたことでしょう。
 けれどそこは真昼の、行けども行けども一向に変らぬ砂ばかりの絶境(ぜっきょう)。太陽の位置のほかに、このような景色の目印なくしてどうやって方角を知り得ましょうか。
 そのうえ泉はラクダを休ませ、水の補給ができる貴重な休息地点でもありました。それが見当たらないのですから、鍵屋の焦燥(しょうそう)はいかほどのものであったか。
 (かん)をたよりにラクダを走らせましたが、やはり泉は見当たりません。
 やがて、飲み水が底をつきました。
 それでも炎天は容赦(ようしゃ)なく鍵屋の身を()きます。
 (ため)に意識は朦朧(もうろう)となり、ラクダを(あやつ)る気力すら()え、ついに鍵屋はうなだれたきりとなってしまいました。
 そうしてこのようにただラクダの歩むがまま、その背にゆられて行くばかりとなってしまったのです。
 聞こえるのは、(おのれ)の呼吸。
 それと、けだるく砂を踏みつづけるラクダの単調な足音のみ。
 それは止まりかけの振り子のようにゆっくりと、
 そうゆっくりと……。


 どれくらいの時が経ったことでしょう。
 鍵屋が意識を取り戻したのは見慣れぬ(まち)なか。人馬(じんば)でごった返す夕暮れ時の大通りでした。
 鍵屋とラクダはその熱気にのまれ、()むような人波(ひとなみ)に流されていたのです。
―いったい、ここは何という街なのだろう……。
 旅なれたこの鍵屋でさえ、砂漠のなかにこれほどまでに栄えた街をいまだかつて見たことも、聞いたこともありません。
 なにより驚かされるのはその街路樹の豊かさ。
 ひと抱えも、ふた抱えもありそうな大樹(たいじゅ)がそのたくましい枝にみっしりと葉を(しげ)らせて、大通りをすっぽりとおおっているではありませんか。
 空は―、(こずえ)()んだ分厚いベールの彼方(かなた)にありました。
 見下ろせば、いたずら好きそうな地元の子らが、何ごとか(ささや)きあいながら嬉しそうについてきます。皆この異邦人(いほうじん)興味津々(きょうみしんしん)なのです。
 やがて、通りが尽きて広場へ出ます。
 おそらくはそこが街の中心地。
 幾本もの通りが、ここを起点として放射状に延びています。
 中央にはぽつん、と()ちかけの井戸。
 まるでそこだけ取り残されたようにみすぼらしく。行き()う人々もその存在を忘れ去っているかの様子。
 使われなくなってよほど()つのかもしれません。
 しかし砂漠を丸一日彷徨(さまよ)い、すっかり乾ききって、あわやその砂塵(さじん)と成りかけていた旅人―鍵屋にとっては天からの救いの御手(みて)にほかなりませんでした。
 その視界に井戸を認めるや瞳がカッと開かれました。同時に声にならない(うめ)きをあげ、手を差し伸べてラクダから落ちてしまいます。
 わが身がラクダの上にあることすら忘れていたのでしょう。
 けれど痛みなど感じません。
 いいえ、痛がってなどいられましょうか。転がるように地を()いて井戸を目指します。
そのとき、
「……八十五……八十六……、ああ、ひとつ足りない。やはり井戸へ落としてしまった……」
 鍵屋の耳は、しわがれた老女のそんな(つぶや)きを(とら)えていました。
 しかし、もはや井戸のほかの何ものも目には入らない彼のこと。そんな声に気を留めるゆとりなどあろうはずもなく。
 投げ込んだつるべ(、、、)は、ぞっとするほどの沈黙をおいて闇の底で小さく水面を打ちました。
「おい」
 鍵屋は手繰(たぐ)りあげた(おけ)にざぶんと頭を沈め、激しくむせつつも水を喰らいます。
「よお、聞こえねえのか?」
 砂のように乾いた身体が、水を吸って生き(かえ)ってゆきます。
 意識が鮮明になり、五感が澄みわたってゆくようです。
 鍵屋はようやく実感したのです。
 たすかった、と。
 そして、そのときになってようやく気づいたのです。 
 (かたわ)らの老女の存在を。
 地に伏せてうずくまり、そのため顔は見えませんが、ベールからこぼれた長い白髪(はくはつ)()れ草のように揺れて見えました。
 ふるえているのです。
「おい、男」
 と怒気(どき)をはらんだ低い声。
 先程から呼んでいたのは、長刀(ちょうとう)をひっさげた隻眼(せきがん)の二人組でした。
 実は鍵屋がたどり着くほんの少し前から、老女は井戸の底を(のぞ)き込むようにして、その(ふち)にしがみついていたのです。
 (まず)しさからでしょう。衣服は風化したような土気色(つちけいろ)
 それが()ちかけの井戸の(ただず)まいに溶け込んで、まるで太古からずっとそこにある岩のようでした。
 それゆえ気を留める者もなく。いったい何のために、いつごろから彼女がそうしていたのかもわかりません。
 そして、そこへ現れたのが隻眼の二人組だったのです。
 頭に巻いた眼帯は、浅黄色(あさぎいろ)に染めあげた異国の布。
 旅人を(ねら)残虐非道(ざんぎゃくひどう)な窃盗団の(あかし)です。
 それを見て震えあがらぬ者など、この砂漠にはおりますまい。
 彼らから世界の奥行きを奪ったのは、この砂漠に生息する蝶でした。
 砂の中に産卵し、いつ来るとも知れない通り雨のような雨期を(たの)みに繁殖(はんしょく)するこの砂漠固有の蝶です。
 ところがごく(まれ)に、わずかな(うるお)いを求めて人や動物の目玉に卵を産みつけることがあります。
 産卵は文字通り、(またた)く間。
 植えつけらた数十の卵は眼球の水分を吸って孵化(ふか)します。幼虫たちは(さなぎ)を経ず、角膜を食い破りながら成長して羽化(うか)。ただちに飛び立っていくのです。
 この間、真昼の砂漠にまいた手桶(ておけ)の水が蒸発するよりも早いといいますから、この青い蝶に一瞬でも目の縁にとまられたら最後、視界の半分を失うのを覚悟しなければならないでしょう。
 この蝶は不思議なことにひとつの個体から両眼を奪うことはありませんでした。それは動物を宿主と認識しているからだとする説があります。
 そして砂漠に暮らす隻眼のほとんどが、この蝶の犠牲者なのでした。
 彼らはそれが故に(さげす)まされ、世を()ねていつしか徒党(ととう)を組んで窃盗(せっとう)を働くようになったのだと伝えられています。
 ともかくもその一味と(もく)されるならず者(、、、、)の二人。
 この辺境(へんきょう)のオアシスにはいかにも不似合い。
 それもそのはずで、彼らもまた鍵屋同様に道に迷い、先刻流れついたばかりなのです。
 彼らにとってもこの街はまさしく地獄に救済者(メサイア)
 さっそく浅黄色の眼帯をこれ見よがしに頭に結び、これから一杯ひっかけようと繰り出したところ。広場にさしかかって片割れが足をとめたのです。
 その視線の先には、井戸を覗き込んでいる例の老女の姿が―。
 長い(そで)に隠された彼女の両手に、(ぎょく)の指輪がずらりと並んで光っているのを目聡(めざと)く見つけたのでした。
 となれば、今はまだ素面(しらふ)の彼ら。そうと知って獲物を見逃す手もありますまい。
歩み寄るや、刀を突きつけて老女を(おど)します。
 しかし、おびえあがった彼女は振り返ることすらできません。
 そんな最中(さなか)だったのです。鍵屋が跳び込んできたのは。
 鍵屋は井戸へと盲進(もうしん)するあまり、恐怖に硬直していた老女を突き飛ばしていました。
 むろん故意にではありません。
 しかし隻眼の二人にしてみれば、おもしろくない。
 (おの)が獲物を突き飛ばした何ものかが、こちらには目もくれず狂ったように水を飲んでいるのですから。
「おい、……男」
 となる訳です。
 声を振り返り、その眼帯を見るや、さすがに鍵屋も事態をのみこみました。
 こうなれば一切の言い逃れは命取りになるばかり。 
 そこはさすがに世馴れたもの。賊を相手に(あわ)れみを()い、みじめな弁解をくどくどと繰り返すより、黙って差し出す金品ひとつの方が十二分にものを言うことを心得ています。
 思うや、翡翠(ひすい)の指輪をはめた左手を賊に向けて差し出しました。
「どうかこの指輪でおゆるしを」
 その言葉尻をひったくったのは風。
 風はブンっと唸って鼻先をかすめ、空へ。それを追って長い棒きれのようなものがくるくると舞い上がり、鍵屋のうしろに群がった野次馬のなかに落ちてゆきました。
 人々がわっと退(しりぞ)いて、つんざく悲鳴―。
 棒きれは鍵屋の左腕だったのです。
 賊の長刀は、指輪を腕ごとはね上げていました。
 いそいそと腕をひろいに走るその片割れ。
 鍵屋は、不意に軽くなった左の肩を呆然(ぼうぜん)と見つめています。肩口からしぶいている赤黒いものが何なのか、すぐには理解できないのでしょう。
 長刀をふるった方の男が、濡れた刃先を(ぬぐ)いつつあたりを()めまわしました。
 老女がいません。
 さてはこのどさくさに逃げたのか。
 二人組は、とんだ邪魔のせいでせっかくの獲物を逃してしまいました。
 とはいえ、二兎(にと)追うものは何とやら。手ぶらよりはずっとましだと考えたのか。
「じゃあ、遠慮なくもらっとくぜ」
 そう吐き捨てると、二人は指輪を腕ごと持ち去りました。
 広場の中央―。
 無い腕を抱いて、鍵屋が(うめ)いています。
 関わり合いは御免とばかりに、道行く人はみな素知(そし)らぬ顔で家路を急ぎます。
 服のなかから転げ落ちた鍵屋の財布と貝笛を、誰かがひろって逃げてゆきました。
 次第に、鍵屋は(もだ)え苦しむ体力すら失って。
 遂には仰向けに転がり、暮れてゆく夕空の星々を眺めるだけとなってしまいます。
 いったい、ここは何処(どこ)だろう?
 いまだかつて見たことの無い星のならびです。
 広場に人影(ひとかげ)が絶えたころになって、鍵屋は自分の命が尽きようとしているのをようやく(さと)ります。
 見知らぬ土地で誰にも看取られず、ひっそりと死んでゆく……。
 名もなき(むくろ)は砂漠へと(すて)てられ、その死は家族へ伝えられることもないでしょう。
 思わずその右手でおのれの胸ぐらを(つか)みます。
 そこに首から提げたお守りがありました。
 小さな木札に(きず)が四筋。
 鍵屋のひとり娘の手によるものです。
 まだ字も書けず、工作ひとつできないような幼子(おさなご)ですが、それでも父の旅の無事を願って小さな手に釘を握り、歳の数だけ力いっぱい刻みこんだのでした。
 鍵屋は道中この疵を()で、子と妻を想い、旅の孤独の(なぐさ)めとしてきたのです。
 そして、この瞬間もそうして家族を想い、最期のときを迎えようとしていたのでした。
 ところがそんな鍵屋の回想を(さえぎ)って、
「おぉーい……、おぉーい……」
 悲痛な声が聞こえます。
「おぉーい……」
 声はすぐそばの井戸から、地底へと投げかけられています。
 先ほどの老女の声でした。
 身を乗り出して井戸の底を覗き込み、しわがれた喉を涙にふるわせて精一杯に叫んでいるのです。
―さっきの婆さんだな。いったい井戸の底に何が落ちているっていうんだい?
 声は井戸の底深くで幾重(いくえ)にも反響し、そらおそろしい咆哮(ほうこう)となって地底から呼び返してきます。
―わかってるよ、婆さん。()きかける魂を呼び戻そうっていうんだろ。でも、そんな古いまじない、やっぱり効き目がなさそうだ。
「おぉーい……、おぉーい……、おぉーい……」
 鍵屋は目を閉じて、声に耳を傾けます。
 咆哮はさらに反響を深めていき、
 次第に男なのか女なのか、
 年寄りなのか赤子なのか、
 はたまた人なのか(けもの)なのか、
 あるいはそれらが一斉(いっせい)に叫ぶ音なのか判然としなくなるまで高まると、
 今度は一転し、
 潮が引くように揺りかえし揺りかえし遠のいて、
 ついにはたったひとりの少女のかぼそい泣き声となり、
 さびしくふつりとやみました。
―。
 ただひとり、鍵屋は静寂(せいじゃく)のなかに取り残されます。
 不意に、何かが頬をくすぐります。
 どうやらねずみのようです。鼻のひげをひくひくさせて、鍵屋を()いでいるのです。
 まもなくそいつは、尻尾に結んだ鈴をりりりと鳴らして鍵屋の胸へ登ってきました。それを追って懸命に動かした鍵屋の目にもその姿が映ります。
 なんと愛らしい子ねずみでしょう。
 まっ白です。
 さては鍵屋を看取るつもりなのか、見張り番よろしくちん(、、)(かしこ)まっています。
―おや?
 今度は遠くで何やら音がします。
 静まり返った街のどこかでじゃらじゃらと鳴り響いています。
 鍵屋の彼には、すぐにその正体がわかりました。(たば)ねた鍵が揺れる音に違いありません。
 近づいて来ます。
 意識も()()えに遠くその音をたどっていると、今度は(こずえ)越しに見えていた月が、ふっと消えました。足元に立った何者かに(さえぎ)られたのです。
 月を隠したそのシルエットが鍵屋を見下ろしています。
 鍵束の持ち主は、この影の人でした。
 腰に()げた鍵束を鳴らして、影は鍵屋のかたわらに(ひざ)をつきます。すると、それを待ちかねていたかのように子ねずみが影の肩に駆け上がりました。
 折り良く月明かりが青く満ちて、その顔を照らします。
 若い女―。
 上唇の左上から(あご)の先にかけて、()ち割られたような深い傷が(かげ)を刻んでいます。
 その見ず知らずの美しい(かお)に、鍵屋は赤子のような気持ちにされ、思わずこう口走るのです。
「では、わたしはもう」
 ところが彼女は鍵屋の唇を軽くつまんで閉じ合わせると、続く「死ぬのですね」を()みこませ、微笑(ほほえ)むではありませんか。
 そうして娘は光り輝き、母のようなこの上も無い優しさで鍵屋を抱きすくめたのでした。
―今、まさに召されるのだ。
 光と抱擁(ほうよう)のぬくもりのなか、鍵屋はそう確信すると、ゆるぎのない安らぎのなかで(まぶた)を閉じるのでした。


 鍵屋が意識を取り戻すのは、その三日後のこと。
 けれどその間のことは夢うつつながらも、断片的におぼえています。
 まず、医師らしきごま塩髭の男に傷口を洗われたこと。
 例の顔に傷もつ娘が激痛にもだえる自分をベッドへ押さえ付けていたこと。
 部屋の様子からそこがその娘のものだとわかりました。
 次に、医師の話し声。
 おそらくは投薬の指示を彼女にしていたのでしょう。
 そして、手当てを終えた医師が表へと出たそのとき、扉から差し込んだ朝の光。
 時間をかけて少しずつ口に流し込まれた薬のにがみ。
 (おび)えたようにそっと包帯を取りかえる、女の指の感触。
 部屋の隅でひとり食事をとる彼女のその(つつ)ましげな物音。
 驚くべきことに、顔に傷もつこの娘は丸三日のあいだ、激痛と悪夢にうなされる鍵屋をつきっきりで看病していたのです。たまたま街へ迷い込んだにすぎない、どこの者ともしれぬ旅人を。
 そして三日目の朝、鍵屋はようやっと目を覚まします。
 最初に何をしたか。
 鍵屋はまず天井を見つめたまま左腕を持ちあげてみたのでした。
 どうか夢であってくれと願って。
 しかし、あげたはずの腕の重みが肩の先にありません。
 わかりきっていることでした。
 なので落胆よりはむしろ、失って当然の命をわずか腕一本との引き換えで取り戻せたことに感謝することにしたのです。
 もちろん、寝ずの看病をしてくれた娘にも厚く礼をのべました。
 彼女は口がきけません。
 なるほど、夢うつつで聞いていた声はすべて医師のものでした。
 それでも耳は聞こえます。
 顔の傷は、鍵屋と同じように隻眼の賊にやられたのだと身振りで教えてくれました。
 彼女に身内はありません。
 ここにたったひとりで住んでいるのだそうです。
 その事情も懸命に教えてくれようとはするのですが、残念なことに読み書きもできないらしく、どうにも要領を得ませんでした。
 家族もまた賊の凶刃(きょうじん)餌食(えじき)とされた。そう受けとれないこともないのですが。
 もし、そんな惨状を()の当たりにしたのならば、若い娘が声を失うのも無理はないといえましょう。
 ともかく、通りすがりの旅人風情(たびびとふぜい)にここまでの親切をする訳は、かつて似たような目にあったからなのだと鍵屋は解釈しました。きっと、おなじ賊の犠牲者として自分を見捨ててはおけなかったのだろうと。
 それから鍵屋は娘に名をたずねました。
 すると、彼女はあれこれと|身振り手振りをしたのちに、まっすぐに天を指差します。
 鍵屋がそれを真似て、
「空?」
 そう()くと、ぱっと(はじ)けて笑顔になり、あわてて口もとを袖で隠します。
 鍵屋は確かめるべくもう一度、
「そら?」
 笑いをこらえて、うんうん、それでいいとうなずく娘。
 そこはやはり若い娘です。他愛も無いことなのでしょうが、いったい何がそんなに可笑(おか)しいのか、口もとの傷を恥じらいつつ鍵屋のてまえ笑いをこらえます。
 それが、彼女が見せた最初の笑顔。
「ソラ」
 鍵屋は、この身寄りのない娘をそう呼ぶことにしました。


 当面は安静が必要でした。
 もっとも、そうでなくとも鍵屋はソラの厄介(やっかい)になるほかないのですが。
 一方のソラはというと。
 彼女はお城での皿洗いで生計をたてていましたが、さらに朝の市場(いちば)にも通いはじめます。
 そこでは、積みおろしの際にこぼれ落ちる果物などの荷を、路上で生活をする貧しい子供たちや野良犬から守る番をしています。こんな雑用でも無理をして頼みこみ、やっと手に入れた仕事でした。
 顔に傷をもち声もないソラに、おなじ年頃の娘たちのような売り子は(つと)まりません。
 自然、仕事が限られました。
 お城のほうは夜遅くまで。
 市場のほうはまだ日も(のぼ)るまえから。
 したがって寝不足になり、ただでさえ器用とはいえない彼女ですからうつらうつらしては高価なお皿を割ってしまいます。市場では野良犬にいいように遊ばれてしまいます。
 無論その分はソラの給金から天引きにされますが、それでも馘首(くび)にされないだけまだマシというべきでしょうか。
 ソラは働きます。
 その労苦を鍵屋のまえでこぼすこともせずに。
 疲れた顔ひとつ見せることもなく。
 では、そんなソラの献身を鍵屋は知らなかったのかといいますと。いいえ、やはりそこはひとつ屋根の下。寝食を共にしておりますから、感づかない方が不思議でしょう。
 そもそものところ鍵屋は、あの手術にかかった費用や薬代がどうなったのかを知りません。
 といって、見返りも無く、進んでよそ者の命を救うようなもの好きが、この砂漠にそう何人もいるとも思えませんでした。
 一旦それを知らないとわかると無性に気にかかるもので、ましてやそれらは(ほか)ならぬ自分のためだけのものですから、知らぬままでいるのが我慢なりません。
 確かなのはただひとつ。
―ソラの厄介になっている。
 事実はソラに確かめるべきでした。
 けれど世話になっている手前、気おくれがして、いつも訊きそびれてしまうのでした。
 仮にそれを確かめたところで、現在(いま)の鍵屋には謝礼どころか代金を支払うことすらできないのですから。
 すでに財布も翡翠の指輪もありません。
 ラクダも盗まれています。
 商売用の工具箱と下取りした大量のこわれた錠、そして看板の大鍵だけは、街外れに捨てられてあったのをソラが見つけてきてくれました。
 が片腕となったいま、回復したところで職人として生活できる見込みはありません。
 もはやここを出て(はる)かな故郷へと旅する力もお金もありません。
 鍵屋は(あせ)ります。
 何とかしなくてはという想いに押しつぶされるようにして、日々を悶々(もんもん)と費やしていました。
 そんなある日、鍵屋は不思議なことに気が付きます。
 出会ってからというもの、ソラがずっとおなじ服を着つづけていることに。
 胸にいつも大きな黒いシミをつけていました。
 貧しくとも決して不潔にはしないソラのこと。あえて着替えないでいる理由がきっとあるはず。
 まもなく鍵屋はそのシミが手術の際に付いた己の血のあとだと知るのです。
 それにしてもソラはどうしてその汚れた服を替えないのでしょう。
 ただでさえソラの親切は日々鍵屋の肩へとめどもなく積み重なってゆきます。ゆえに来る日も来る日も胸の奥でソラに()びつづけ、同時に何ひとつ恩返しのできない己に苛立(いらだ)ち、さらには自分の帰りを待つ故郷の家族の顔が頭をよぎるという、どうにもならない板ばさみが、ついに彼の孤独をこじらせてしまったのに違いありません。
 その理由を鍵屋は、
―たすけた恩をこれ見よがしに売りつけている。
 そう受け取ってしまったのです。
 次第に鍵屋はソラの服のシミを、
 いいえソラ自身を、(うと)ましく思うようになります。
 できるだけ顔をあわせないようにと、朝はソラが出かけるまで熟睡の(てい)
 夜もソラの帰りを待たずにベッドへもぐってしまい、たまに顔をあわせても、いまいましく服のシミを(にら)むだけで、あとはむっつりと黙り込む始末です。
 命の恩人であるはずのソラは、今やもっともあさましく(いや)しい生きものとして鍵屋の目には映っていたのでした。
 そんな風ですから、ソラへ向けることのできない鬱憤(うっぷん)矛先(ほこさき)は、自然と留守番の友であるあの子ねずみに向けられてしまいます。
 子ねずみこそとんだ災難でしょう。
 尻尾の鈴をりり、とでも鳴らせば容赦(ようしゃ)なく枕が飛んでくるのですから。日々ソラの帰宅を待って、子ネズミはじっと壁の穴の中でした。
 しかし当のソラは恩の押し売りどころではなかったはず。
 子供のように()ねてしまった鍵屋の世話と、昼夜の仕事をひたすらこなしていくだけで精一杯でした。
 だいいち片腕をうしなった無一文の職人に、いったいどんな見返りを期待できるというのでしょう。
 恩を押し売ったところで何も望めないことぐらい、わかりきったことではありませんか。
 ソラが着替えないのには、ほかの事情がありました。
 鍵屋の体力がほぼ回復したころのこと  。
 いつものように日がな一日ごろごろしていると、医師が訪ねてきました。傷口を縫い合わせてくれたあのごま塩髭の医師です。
 鍵屋はてっきり医師が見舞いに来てくれたものと思って部屋へ迎え入れたのですが、髭を掻き掻き言うことには、
「今週の払いがおくれてるんだが」
 寝耳に水でした。
 借金までしてソラが自分を助けてくれていたなんて。
 医師はソラの帰りを待てず、かわりになにか金目(かねめ)のものをと部屋のあちこちを(あさ)りはじめました。
 むろん鍵屋はそれを止めようとはしたのです。
 が、乱暴に開け放たれた箪笥(たんす)の中を見て、立ち尽くしてしまったのでした。
 ありませんでした。
 服が。
 洗濯された替えの包帯が、隅っこのほうに行儀よく重ねられてあるだけでした。
 医師は腹立ちまぎれに鼻で(わら)うと、その包帯をひっ(つか)んで床にぶちまけます。
「そうだった。全部これにしちまってたんだ、あのガキ!」
―?
「お前さんのその腕の手当てのときだよ。あのガキ、こん中にあったのをぜーんぶ破いちまいやがった。なにしろシーツも床も俺の服もみーんな血まみれで、布という布は使い切っちまったからな。そうやって機転をきかせて包帯を間に合わせたのはいい。けど、まさかそれがなけなしの一張羅(いっちょうら)だったとはよ。手当てが済んでひと息つこうっていうだんになって、こう財布のケツをたたいて首を振りやがる。なんだと聞いたら、金がねえと。代わりにといってちんけなイヤリングだの指輪だのを差し出されたが、あんな古ぼけた代物じゃとてもとても足りっこねえ。服でも売っぱらえと言ってやったんだが、ほれ、この通り服はみんな包帯に化けたあとだ。なんのことはねえ、はなっから借金する気だったんだな。言ってみりゃ食い逃げみたいなもんよ。こわいねえ最近の若いのは。まったく何を考えてんだか」
 立ちつくす鍵屋の視線の先には、散乱した包帯があります。
「すっかり終わっちまってから金がねえったってよお、はいそうですかって今縫った糸を抜くわけにもいかねえだろ。消毒の酒だって、使っちまったあとだぜ」
 その生地(きじ)は血を吸って(まだら)です。
「お城の皿洗いなんかでちまちま返されるなんざ、わりに合わねえんだよ。お前さん、ホントに何も持ってねえのか?」
 そのシミのなかに愛らしい唐草(からくさ)刺繍(ししゅう)が見えます。
「なら、働け」
 どの(つた)も布の山に沿ってゆるやかに走り、唐突におもわぬところでぶっつりと途切れています。
「働いて返せ」
 そこで裁断(さいだん)されているからです。包帯を間に合わせるために。
「働けねえならせめて乞食でもしてこいっ。この(ぬす)()野郎がっ」
 年頃の娘が自分の服を切り刻む思いとは、いったいどんなものなのか。
 医師がさんざ悪態をついて帰ったあとも、鍵屋はそこに突っ立ったまま、じっと包帯を見ていました。
 しかし、おもむろに傷口の包帯を()くと、そこにも同じ唐草の刺繍を認めて、泣き(くず)れてしまったのです。
 包帯の交換はいつもソラにまかせっきりでした。
 それも鍵屋の寝ている(すき)にそっとおこなわれるので、彼は包帯の正体を知ることがありませんでした。
 とどのつまり、残された服は大きな血のシミが付いたあの一着きりだったのです。洗おうにも鍵屋とひとつ屋根の下ですから、脱ぐのをためらったのでしょう。
―ソラ。
 鍵屋は部屋を飛び出します。
 居てもたっても居られず、とっさに駆け出したのです。
 けれど鍵屋はこの街を知りません。
 思えば部屋から一歩も出たことがなく、つまりは街並みも、行き交う《かう》人々もひとつとして見覚えがないということで、文字通り右も左もわからない。
 何よりまずソラの居場所を知りません。
 今更ながらそれに気がついて、動けなくなります。
 同時になぜだかソラはもう帰ってこないような気がしました。
 すべてを失い、身寄りひとつないこの街です。鍵屋は失うものはもはや何もないと高をくくってもいたのですが、そうと思うやじっとしてはいられない。すがるように手当たり次第に、通行人にソラの所在を尋ねます。
 しかし誰一人として相手になってくれません。
 鍵屋は途方にくれました。
 ソラに会って俺はどうしたいのだ。
 ()びたいのだと、気づきます。それも一刻も早く。
 しかし、たとえそうできたとして、何になる。
 いますべきことは自身が(ゆる)されるための懺悔(ざんげ)弁解(べんかい)ではないことは確かなようでした。
―ソラのために。
 そう、今の彼にもきっと何かができる。
 そして、()()でもそれを見つけ出さなくてはなりません。
 でもいったい何ができるというのでしょう。
 少なくとも、血で(けが)してしまったソラの服をなんとかしてあげなくては。
 鍵屋もそれはわかっています。
 わかってはいるのですが、気ばかりが焦って何ひとつ思い浮かばず、ただ時だけがいたずらに過ぎていくように感じます。
 そうしてふと、
―そうだ、お城。こうしている今このときも、たしかソラはお城の厨房(ちゅうぼう)で働いていると。
 医師の言葉に思い当たりました。
 ならばなおさら会いに行くよりも……。
 鍵屋は部屋へとってかえして床の包帯をかたづけ、掃除を始めました。
 我ながらなんと滑稽(こっけい)な男かと、救いようの無い情けなさに襲われます。
 理屈も何もありません。
 何かをせずにはいられなかったのです。
 そうしながら懸命(けんめい)に、
 自分にできる何か。
 それを探しました。
 自分にできる何か。
 自分にできる何か。
 自分にできる何か。
 もとより質素(しっそ)なソラの部屋です。
 慣れない片腕でも、あっという間にかたづいてしまいます。
 自分にできる何か。
 俺にはいったい何ができる?
 はやる心にせっつかれて、|呟きつつうろうろと。
 やがて、そんな彼を立ち止まらせたのは、部屋の隅に捨ておかれた例の看板の大鍵でした。
 ラクダの首に提げ、街から街へと旅を共にしてきたかつての鍵屋の象徴―。
 それはまるで不意に鉢合わせたもうひとりの自分の姿のようでもありました。
 手に取り、凝視(ぎょうし)します。
「自分にできること」
 ソラの帰宅まで、まだ時間があります。
 鍵屋は意を決し、(ほこり)のかぶった工具箱を引き寄せました。








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