プロローグ

文字数 1,952文字



 雲ひとつない空の下、灼熱(しゃくねつ)の砂の海を風の親子が渡ってゆきます。
 子は母にまとわりついて、はじめて目にする砂だけの光景に胸(おど)らせて(たず)ねました。
「わーい。なんにもないね」
「そうね」
「ほんとにほんとに、なーんにもないね」
「あるのはただ無限に続く砂の海だけ」
「人もいないね」
「……」
「ぼく、人のうじゃうじゃいる街なんかより、こんな砂漠の方がずっとずっと好きだな。うるさくないし、よごされないし、へんな(にお)いつけられないし」
「でも、ここまでなんにもないのは、ちょっと退屈じゃなぁい?」
「ぼく、へっちゃらだーい!」
 風の子はくるりとつむじをつくって砂を巻き上げてみせました。
「こらこら坊やったら」
「ぼくね、本気をだせばもう竜巻だってつくれるよ」
「まあ、おませさんね」
「ねえお母さん、お父さんは竜巻つくるの上手だった?」
「もちろん。ほかのどんな風にも負けやしなかったわ。知り合ったころなんて、二つも三つもいちどに作って、家も鉄橋も電線もみーんな蹴散(けち)らして人間の街をつぶしてみせてくれたのよ」
「ひゃあっ! すっごいやっ」
 子はまた小躍(こおど)りして(うず)をつくり、砂丘を駆け上がっててっぺんで飛び跳ねました。
「でもね坊や、こんなに(さび)しいところでは、いくらお父さんでもそんな真似できやしないの」
「どうして?」
 子は不思議がって母を見つめます。
「だってほら、ここには家も鉄橋も電線もなぁんにもないでしょう? それだけじゃないわ。坊やは鳥さんたちを乗せてお空で遊ぶのは好き?」
「だーい好き!」
「お母さんも大好きよ。トンビさんを乗せてお空でくるくる踊ったら、うっとりと時を忘れてしまうくらいだわ……。けれども、それだって森や河があって、鳥さんがいるからでしょう?」
「…」
「ここではね、高架線を吹いてぼぉぼぉ鳴らして遊んだり、道端のビニール袋を舞い上げてどこまで高く飛ばせるかを比べっこしたり、そんなこともできないの」
「………………」
「だって、なーんにもないんだから」
 子はぶるっと(ふる)えて母にしがみつき、(あた)りを見渡しました。
「お母さん。ぼくなんだか怖くなってきちゃったよ。なぁんにもないのって、やっぱりちょっといやだな」
「そうでしょう」
「こんなところにいつまでも居たら、退屈で、(さび)しくって、うっかり()いじゃいそうだよ。お母さん、早くここから出よう」
「この砂漠は広いわ。二日や三日じゃとても渡りきれやしない」
「えぇーっ、引き返そうよぉ」
子は駄々をこねて、あたりかまわず砂を蹴散らします。
「こまったちゃんねえ……。そうだ、坊や、ちょっと耳を澄ましてごらんなさい」
「え?」
「何か聞こえてこない?」
「……。なんにも聞こえないよ」
「そうかなぁ?」
「だって、なーんにもないんだもん。なーんにも聞こえやしないのっ」
「じゃあ、砂の上を見てごらん」
 見ると風紋(ふうもん)の波が果てしなく広がっています。
「うわぁ。これ、なあに?」
「きれいでしょう? これはね、物語というの」
「モノガタリ?」
「そう。()()くと書いて風聞(ふうぶん)ともいうわ。ここを渡った風たちが、旅すがら見聞きしたことを砂の上に書き(のこ)してゆくの。それを読んだ次の風は、またそれをどこかへ書き移したり。こうして太古から現代へ、風から風へと物語は噂となって語り伝えられてゆくのよ」
「なんだかおもしろそう!」
「旅は長いし、退屈だから、これをひとつ読んで聞かせましょうか」
「うんっ」
「さて、どれがいいかしら」
「あそこのおっきな砂丘から地平線までずうっとつづいている、あのモノガタリにしようよ」
「いいわよ。それじゃ坊や、砂丘のてっぺんから紋様(もんよう)()でてごらん」
「こう?」
「そうそう。何か聞こえてこないかな?」
「あ、聞こえる」
「ね、こんなところでも音はあるの。さあもっと耳を澄まして」
「なんだろうこの音。ぼく、聴いたことがあるよ。どっかの国の海辺の白い家。二階の南の開けっ放しの窓から、東の水色のレースのカーテンへ、部屋の中をひと息でひゅうっとすり抜けたとき、(すみ)っこで人間の女の子がこの音を(かな)でていたよ。その楽器にはね、黒と白のちっちゃな板がたっくさんたっくさん並んでいるんだ」
「ピアノね。音を解き放つ鍵―、黒()と白()が合わせて八十と八つあるわ」
「うん、きっとその音だ。その音なんだけどぉ、……こっちのピアノは、なんだかヘンテコリンだな」
「調子っぱずれね」
「こわれてるの?」
「さぁて、どうかしら。(キー)が狂ってるみたいだけど……」
「ねえ、もっとよく聴いてみたいな。このキー狂いの、ヘンテコリンなモノガタリを」
「それじゃ、お母さんが読んであげましょうか?」
「あはっ! ヘンテコリン! ヘンテコリン!」
「こらこら」
「ヘンテコリン! ヘンテコリン! ヘンテコリン!」
「ほんとにこの子ったら」

 地平線を目指して、風の親子が砂漠を渡ってゆきます。

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