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文字数 14,382文字
闇に塗り込められて何も見えません。
つるべの綱が腕のなかをすり抜けていく感触から、下降しているのがわかるだけです。
しかし、時の流れすら
どれくらい経った頃でしょうか。
ざんばら髪をなで上げる大気が、突如ひやりと冷たく変ったそのときです。
―!
重さに耐えきれなくなった綱が上のほうでぶつりと切れて、カギオは宙で身を
が、思う間もなくしたたか水面に背中をうちつけます。
闇に立つ水柱。
すでに底に到着しつつあったのです。
と、上空から遅れて綱の上部が降ってきました。それは、もうここから地上へは戻れないことをカギオに覚悟させました。
りりりり、りりり。
子ねずみです。
まっ白な体が闇の中に浮かんで、それはまるで発光する妖精のよう。カギオはその小さなあかりを頼りに岸の砂地へと泳ぎ着きました。
岸へあがると、ほどなくして水面は静まります。
けれど尚も残響は
子ねずみがカギオを
こんなところに取り残されてはかないませんから、カギオはびしょ濡れのままあとを追いました。
踏みはずしたら最後、更なる闇の
子ねずみの尻尾の鈴、
カギオが砂を踏む音、
そして彼の息づかい、
聞えているのはただそれだけです。カギオは何も考えず、子ねずみのあとを追います。
飛び地の牢屋から城壁までなど歩いてもたかが知れた距離なのですが、闇の中ではその通いなれた長さが何倍にも感じられます。
先導する子ねずみの白い背だけを見続けて、歩き続けることどれくらい経ったでしょうか。疲労と退屈に緊張をほぐされて、何気なく頭上を
「うわぁぁぁ……」
思わずそう声を洩らしました。
満天の銀河なのです。
いったいいつの間に地底から抜け出たのか。
圧倒されていると、そこへ、
「あれはね、砂漠の星たちじゃないんだよ」と声が。
そしてその方向から砂を踏む音がさくさくと近づいてきて、女の子のような男の子が現れました。
いいえ、男の子のような女の子です。
身なりは男物のボロをまとっただけ。街の女たちのようにベールは
彼女はカギオのそばまで来ると、同じようにして頭上を仰いで、
「あの光のひとつひとつが、井戸の穴なんだ」
「あのひとつひとつが?」
もしそうならばカギオと子ねずみはよほど地底深く、つまり井戸の穴が星の粒に見えるほど、遠く深い地底に来てしまったということになります。
「それじゃあ、ここはもう街の下になるのかい?」
「まあね。真下へ行くにはもう少し歩かなくちゃならないけど」
ゆるやかに弧を描く銀河の
「日が昇れば昇るほどああして明るさを増してくるんだ。
どうりで女の子の顔かたちが見てとれたわけです。
お日さまが真上に来る正午ともなれば、日の光は井戸をまっすぐに
「君は」カギオはやっと女の子に
女の子は井戸の銀河を見上げたまま、
「ここしか知らない」
「でも地上に出たことくらいはあるんだろう?」
女の子はそれには答えずにしばらく星を見ていましたが、逆にカギオにこう問いかえしました。
「おまえは砂漠のそとを知っているのか?」
「うん。もともと鍵屋だからね、街から街へ砂漠を渡って錠を売り歩いていた」
「じゃあ教えて。砂漠のそとがどうなっているのかを」
「どうなっているって言ったって……、そりゃあいろいろだよ」
「いろいろってどういろいろなのさ」
「海もあれば山もあるし、髪や肌や目の色のちがう人たち、言葉だって国によって様々だし。まだ行ったことのないずっとずっと北の方には、氷のなかに住んでいる人たちがいるっていうし、反対に一年中煮え
「それだけ?」
カギオには何がそんなに
「だって砂漠のそとでは一年中殺し合いをしてるって聞いたよ」
「そんな国もあるさ」
「空飛ぶ乗り物で一度に何千人も何万人も殺しまわっているって」
「そんな国もある」
「親を殺して子供を殺して、挙句の果てには自分を殺して」
「そんな奴もいる」
「他人に他人を殺させて」
「でも、そんな人ばかりじゃない。だからいろいろなのさ」
星々のひとつひとつから銀色の光が糸をひいて降りてきます。
「でも、こことはまったく違うんだろう?」と女の子。
「違う国もあるし似た国もある。ひとりひとりはそんなに違わない気がするけれど、まったく同じ国はひとっつもない」
女の子はまた笑って「見てきたようなことを言うね」
「そりゃあこの世のすべてを見て歩くなんてどだい無理な話さ。ひとりが実際に見聞きできるのなんてこの世のほんのほんの一部だけ。この世が巨大なバースデイケーキなら、ひとりが知ることができるのは上に飾られたちっぽけなイチゴの、その表面のぶつぶつほどもないんだ。だからこの世の大概は風の噂で知るしかないのさ」
「風の?」
「そう。風なら、この世の果てまで何ものにも
「風になればこの世のすべてを見ることができるってこと?」
「ああ、そうかもしれない。けれども人は決して風にはなれない。そのかわり
「それならこことあまり変わらないね」
「そりゃあここだってこの世のうちだもの」
「この世のうち……」
女の子は、ちょっと考えます。けれども、カギオは空一面の井戸の穴からまっすぐに差し込んでくる銀の光の方が気になって、
「なんだろうか、あれ」
「ああ、地上に朝が来てみんなが水を汲み始めたんだ。投げ落とされるつるべの綱が日の光に輝いているのさ」
毎日こんなに深いところから汲み上げていたのでしょうか。
「じゃあ、あれに掴まれば地上に帰れるね」
「無理だよ」女の子は決め付けます。「今からじゃ走っても間に合わない。それに、井戸の真下ってとっても水が深いんだ」
「泳げるさ」
「それにそれに……、あのあたりの水はちょっと違っててね、とてもじゃないけどおまえには入れない」
「どうして?」
「どうしても!」
「どうしてもって……」
「どうしてもったらどうしても!」
きっとあの薬のせいなのです。カギオには知る由もありませんが。
ではどうやって地上に戻ればよいのでしょう。
子ねずみがこの地下を通って牢まで来ることができたのは確かなのですから、それを逆に
そしてそれはきっと子ねずみを放ったであろうソラが手配りしていると、そう信じたいところですが。
考えるカギオに女の子は
「大丈夫。送ってあげるよ」と。
おや、空の隅に三日月が顔を出しました。
ここは地底で、その星々はみな井戸だというのに、三日月とはまた……。カギオが不思議がっていると女の子はもう一度笑って、
「大丈夫。ちゃんと送ってあげるって」と歩きだしました。
カギオはあとに続きます。
しばらく行くとごつごつとした岩場に差しかかりました。
足もとでは黒い水が鏡のように
女の子はそれと知って、
「平気だよ。見たところおまえはまだ正気でいるみたいだし。きっと、はじまりの井戸の水を飲んでいたんだね。あの井戸は常に水源の真上にあるんだ。だから
「あのあたりは暗くてよく見えなかった」
「あれぐらい水源から離れていれば、流れていくうちに砂がきれいにしてくれるはずだよ」
遠くの水面に降りてきたつるべがその黒い水をすくって、またするすると上へ帰っていきます。女の子はそれを目で追って、
「あんなに小さな桶じゃ、底が浅くって
なみなみと
「それにしたって、こんな水……」と大鍵の先で水面を突きました。すると、
じゅっ、
触れたそこから
異様な匂いが目鼻を刺激します。
咳き込むカギオに女の子は、
「だから言っただろう? とてもじゃないけどここの水には入れないって」
煙をまとった鍵の表面で、水滴がしゅうしゅうと音を立てて泡立っています。
「上の連中がこんなにしたんだよ。イドなしでは生きてゆけないくせに、寄ってたかって狂わせちゃった。イドが狂っちゃもうおしまいさ」
誰に言うでもなく
「ま、くれぐれもこの水には金属を触れさせないことだ。いいね」
こんなのは水じゃない。
カギオは地底の夜空を仰ぎました。
おや、三日月が少し位置を変えたように見えます。
「ねえ、月が」
「しっ!」カギオを
耳を澄まして気配をうかがい、
「こっちだ。いいものを見せてあげる」
小高い大岩をよじ登ります。
カギオもそのあとに続き、彼女にならって頂上から顔を出しました。
見ると大岩の谷間にびっしりとなにかが群れ集まっているではありませんか。薄明かりのなかなので、はじめそれらは
けれどよく見ると、どれもこれも見覚えがあるではありませんか。それはかつて人々が熱狂し我先にと買い求めたはずの錠でした。
ある日を境に
驚くカギオに女の子が「耳を澄ませ」と合図します。
するとどうでしょう。
聞えてきます、聞えてきます。
ガヤガヤと言い
群れのなかからひときわ
「お静かに。オッホン、お静かに願いますよ。どうかみなさんお静かに」
けれど
そこで、ひとり離れて見ていた
「いい加減にしろやい!」
怒鳴りつけたので、一同はたちまちしんとなりました。
すると誰かがこっそり、
「へん! なんでえ偉そうに。ダイヤル式のおめえには所詮は
「なんだとぉ!」
言われて鎖錠、声のしたあたりを
鎖錠は井戸に放り込まれ、岩場にその横長の頭をしたたか打ちつけて以来、自分の開錠番号を思い出せずにいるのです。
「まあまあまあ、いい加減になさい」
そう取り成すのはさっきの家畜小屋の錠です。
おそらくはこの古錆びた錠が、彼らの長老なのでしょう。
両肩を真一文字に貫いたその
「ともかくじゃ、話を一旦まとめようではないか。ええ? ああじゃこうじゃとひっくりかえして、まったくもって話がわからなくなってしまったぞい。のぉ、誰かにお願いできるかの?」
そう長老が
「では、話をまとめましょう。そもそもの発端は、人間たちが我々を必要以上に
何という浅はか。
何という
何という残虐非道。
こんなことをするくらいならば、はじめから作らなければいいのに! そうは思いませんか? わたくしなどは産まれてすぐのことでしたから、錆びる
「おいおい、別にこの国で作られた奴ばかりじゃねえんだぞ!」
野次が飛びます。
「たしかにその通りじゃな。よそから来たものも少なくない。それに、いまさら人間への
「むろん百も承知であります」
「捨てられた原因を解明したところで、何も始まらんのだぞ」
「はっ。では要点をかいつまんで。……まず、何よりの問題は我々が
「それゆえ、ジョウブツできんのじゃ」長老がそっと呟きました。
釣られてあちこちからため息が漏れます。
錠を掛けられてこそ彼らは錠―。
錠をはずしてしまえば何の役にもたたない金属のかたまりに過ぎません。
裏を返せば錠を外されないかぎり、彼らは永久に錠であることをやめられないのでした。
それにしてもどうして人々はわざわざ錠をかけてから捨てたのでしょうか。
どうやら深い理由はなさそうです。が、
錠をかけて捨てた人々は、
もっとも、それは薬の作用もあってのことでしょうけれど。
鎖錠、何を思うのか
金ぴかは続けます。
「数週間前までならまだ
地上でいったい何が起きていたのか。
錠たちには知るべくもなく、また為す術もないためにひたすら天に祈りを
実は地上では、子供たちが捨てられた鍵を拾い集めて、まるで珍しい切手か何かのように自慢しあうのが
大人にとっては
むろん子供たちにも薬は作用しています。
が大人たちのようにそれらを汚らわしいものとは見なさなかった。
ばかりかその鍵という名の美しいものを、大人たちの手から守ることに、彼ら子供は勇ましい正義感を覚えたのでした。
気分はヒーロー。
よって親の目を盗んではせっせと収集に
さてそうなると問題となるのが子から取り上げた鍵のやり場で。
なんせ大概の親が「うちの子にカギって」と高をくくっていたものですから。
穴があったら入りたいと
が、これがまた厄介で、家の中に隠し続けるのは無論のこと汚らわしい。
かといって、城壁の外へ捨てに行けば周囲に見
誰にも知られず、できるだけ遠くに、可能ならばこの地上から鍵を消しさりたいとまで考えて、彼らは地上から地下へ、つまり井戸へ、朝夕の水汲みのついでにこっそりとそれを落すことにしたのでした。
こうして鍵は次々と、井戸の中へと葬り去られていったのです。
これが井戸の底に鍵が降る理由でした。
そして、やがてそれがとんと降らなくなった訳は、単に子供らが収集に飽きただけなのだとか。
熱しやすく冷めやすいのはいつの世の子供も同じなのです。
くり返しますが、これらの事
このままじわりじわりと錆びて、腐って、やがて朽ち果てるのを待つしかないのか……。
悲観した彼らはこれまで三度にわたって決死隊を募り、自力で地上を目指しています。
朝な夕なに地底へ降ろされるつるべにとりついて。
けれどもそれで運良く地上にまで引き上げられても、途端に人間たちにつまみ出され、ことごとく井戸のなかへと投げ返されてしまう。
地底の水の底深くに沈んで、哀れ帰らぬ錠と成り果てたのです。
「そこで、であります」
金ぴかが胸を張ります。
「今後も決死隊を募って飽くなき挑戦をつづけるのか、あるいはこのままおとなしく
どこかからまた、
「もうよせ! どっちにしてもお先真っ暗なんだ」
「こんな話し合い、意味ねえぞっ!」
それを聞いて長老、
「それが腐っておるというのじゃよ」食いしばるように吐き捨てます。
そんななか、金ぴかは少しも動じずに野次を受け、
「などと言って先を悲観された方々が最近になって徒党を組み、独立した勢力となっています。これは、地上だろうが地下だろうがどっちみち腐り死にするのならいっそのこと全員で
「ご苦労」と長老。「さてと問題はじゃ、自然死派は別として、決死隊にせよ過激派にせよ少数では大きな効果が望めんというところにあるようじゃのぉ。つまりは、三派に別れていたのでは何ひとつ|成『な』すことができぬということじゃ。このまま互いに
またも一同はガヤガヤとなります。
「どうせどうせ、と
ガヤガヤが高まります。
「全員でひとつの目標を。うん、それじゃな。それそれ。固い結束こそ錠たる
しかしもう誰も長老の話を聞いてはいません。
瞑目していた鎖錠が、またも
「おいみんなっ」と叫ぶ声。
見ると、ひとり離れて大岩のてっぺんにいた
それもたった一粒。
さながら流星のように。
「鍵だ」
それは聖なる存在の
皆が
誰かが声を押し殺して祈りました。
「水に落ちるな」
そう。水の中に落ちては意味がない。
果たして流れ星は、そんな思いに引き寄せられたかのように、大岩の向こうの小さな砂地に突き刺さりました。錠たちは我先にと岩肌を駆け上がり、そこへ向かいます。カギオと女の子もそっとあとに続きました。
はたして鍵は、鍵山を深々と砂に
遅れて長老が追いつくと、皆は黙って道を空け、金ぴかが彼を鍵の前へと導きました。
長老は
金ぴかは一礼して一歩下がると、
「静粛に。それではただいまから長老さまが
長老は
「
どっとため息がもれます。早くもこの時点で自分のではないことを知った者たちです。金ぴかもそのひとりらしく落胆も露わに復唱します。
「まずは
長老は続けて、
「よんひゃくぅぅぅ……」
「四百っ!」
「よんじゅうぅぅぅ……」
「四十っ!」
「……ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、ばんっ」
皆お互いに胸の番号を見合って、誰だ誰だと探します。
「どなたですか?
騒然とするなか、
「そいつはきっと
一同が声の方を振り返ると、先ほど落下してくる鍵をいち早く見つけた銅褐色のがそこにいました。彼は大岩の上から飛び降りると鍵をしげしげと調べ、
「うん間違いねえ。
「ジョーさん?」
「おいおい寝ぼけなさんなよ金ぴかの。まさか知らねえなんて抜かすんじゃあるめえな、足枷のジョーをよ。この国の最重要極悪人のためだけに作られた天下無双の錠前さまよ。ひとたび奴がその足に食らいついたら最後、どんな錠前はずしの名人だってかなわねえ。いや、現にかなわなかったんだ。月下の耳
罪深き者へジョウを掛け、がんじがらめにするのが人の世。
して、罪が重いほど掛けるジョウを手厚くするのが世の常。
足枷のジョーの頑
金ぴか、
「で、ではその足枷のジョーさんは何処に?」
胴褐色はひと声、
「はっ!」と笑うと、
汚れた水は彼らの身をじわりじわりと溶かしました。
それによって発生したガスで水面は白く煙り、錠たちは高台に非難して煙がひくのを待ったのでした。
そんななか、足枷のジョーだけは弟の死を黙って待つことができず、長老に救助隊の派遣を
さて数日経ってすっかり煙が晴れてみると、水辺の砂地に小石を積んだ塔が見つかります。それは、ガスが吹き出ていたところに近いことから、誰かが決死隊の慰霊のためにしたことだと思われたのですが……。
「塔に綱が巻いてあっただろう。その一端は長々と岩場を這って水辺にまでのびていた……」
そのことは誰も気に留めませんでした。胴褐色はつづけます。
「あの綱の先はジョーの閂にしっかりと
思わず誰かが洩らします。
「ってことは」
「そう。ジョーは立ち込めるガスのなか、弟を助けに行ったのさ。たったひとりでね」
しゅんとしてうつむく一同。
「ところが弟を助け出すのより早く、綱が水に溶かされちまった」哀れ兄も水の底。「覚悟はしていたはずだがな」
金ぴか、「それではジョーさんは、もう……」
「帰らねえ」
一同、声もありません。
みな同情して、果たしてジョウは弟に会えたのだろうかと思い、せめて出会えていてくれと願います。
そんななか、突然がらりと態度を変えたのがひとり……。
「ふんっ、馬鹿馬鹿しい」なんと金ぴかです。「悲劇ぶってさ」
「なんだと」と胴褐色。
「だってそうじゃありませんか。もったいないですよ。同じ死ぬなら皆のためになるようにやってくれなきゃ意味がないじゃありませんか。決死隊にでも、過激派にでもなって命を有益に使用してくれないと。自分ひとりで水に沈んでぶくぶくあぶくになったところで、何の足しにもなりゃしない」
「て、てめえっ!」
胴褐色が金ぴかに殴りかかりました。あわてて鎖錠が割って入ります。
「てめえみたいなヒジョーシキ野郎にジョーの気持ちが分かってたまるかってんだ!」
「ああ分かりませんねえ。あいにくとジョウシキが足りないものでね。分かりたくもありませんよ。助けに行ったはずが自分も水の中なんて、こういうのを人間たちは《ミイラ取りがミイラになる》というそうですけれど、ガスが増えるばかりで、ほんとはた迷惑なだけです」
「っ野郎!」
鎖錠、しっかりとその腕に胴褐色を抱えて金ぴかに触れさせません。けれど腹の底では
「やめろやめろっ! 鎮まれ、鎮まってくれ」と鎖錠。
「うるせえ、貴様に何がわかる」と銅褐色。
「俺も気持ちはおまえと一緒だ。けれど今ここでもめていても何も始まらない」
「放せ! ダイヤル式の貴様になんか何がわかるってんだ!」
「いいからやめろ」
「俺たちと違って貴様はダイヤルの番号さえ合えばてめえでジョウブツできんだろうが!」
言われた鎖錠、歯ぎしりしてまたもやダイヤルをぐるぐると。
その背中で金ぴかがすましこんでいます。
胴褐色はおさまりません。
「そもそも関係のねえ貴様のようなのが首を突っ込むことじゃねえんだ。このトンチキめっ!」
「……」
「な。悪いことは言わねえから邪魔立てしてくれるな、所詮あんたのようなダイヤル式は部外者なんだから」
ついに鎖錠、焼きがねのように真っ赤になって鎖の腕を振り上げました。……が、その時、
カチリッ!
怒りにまかせて回していたダイヤルが不意に合ったのです。
その場の誰もが息を呑みました。
鎖の一端が胴体からずるり、と抜け落ちます。
全身がぼっと青く光り、その光が細かな泡粒となって鎖錠を包みます。
彼はただおろおろと視点を
いずれにしてもちょっと寂しそうであるのには違いありません。
全身から吹き出る泡粒が柱となって立ち上る様は、まるでサイダーの底での出来事のよう。
やがて泡の柱は次第次第に痩せ細り、ついには天を指す一本の棒となり、線となって消えました。
最後の一粒がゆらゆらと踊るように昇天していくのを、錠たちは無言で見届けています。鎖錠はこの泡の柱とともに消え去ったのでした。あとには何も残さずに。
誰かがすすり泣いています。
動揺した金ぴかです。
そんな彼をよそに胴褐色は、突き立っている鍵を引き抜いて黙って立ち去っていきます。きっとそれをジョーのもとに沈めてやる気なのでしょう。
金ぴかもぐずりながらそこを離れていきます。
「もう嫌だ……。もう嫌だよぉ……」
立ち去る彼らを止めるものはありません。皆、金ぴかの泣き声が遠ざかって行くのをうつむいて聞き届けているだけです。
すると、消えていく泣き声と入れ違いに静かな
それは雨の音でした。
錠たちは一斉に岩場の陰へと殺到します。雨粒に濡れて白煙を引きながら逃げ惑っているものもいます。
女の子は慌ててカギオの大鍵に抱きつくと、
「はやく、どこか雨のあたらないところへ」
「え?」
「この雨もおまえの鍵を溶かすんだ」
地底から汲み上げられた汚れた水は、使われて地面にしみ込んでまたこの地下へと戻ってきます。こんな黒い雨となって。
雨から大鍵をかばう女の子を抱えて、カギオは走りました。女の子は無邪気に、
「がんばれ、がんばれ」と、
水辺に適当な岩陰を見つけました。
その岩はサイコロのように角ばっており、横っ腹には同じように真四角な穴が口を開けています。
穴から飛び込んでみると中は外見どおりの四角い部屋になっています。
見渡すと、この辺りの大岩は型で取ったようにどれもそっくりな形をしていました。
室内は
人々が井戸へと捨てたものが散乱しています。
誰かが集めてこの部屋に投げ込んだのか、それとも偶然に舞い込んだのだけが雨を逃れて残ったのでしょうか。
ふたりは雨をのがれてやれやれ。
しかし、ふたりともこの雨のせいで服のあちこちがほつれてしまいました。女の子がボロを着ていた訳はどうやらこの雨にあるようです。
女の子は、住み慣れた我が家のようにその辺を漁って白いドレスを見つけました。こんな衣装でさえも難癖をつけて井戸へと捨てられた物のひとつなのでしょう。手に取るやさっそく着替え始めたので、カギオは目のやり場にこまって空を見ました。
見ながら先ほどの錠たちの騒動を思います。
いったいあれは何だったのか。
これも夢の中で見る夢なのでしょうか。
三日月がまた少し位置を変えています。
今度は気のせいなどではありません。確かに本当の天空のそれと同じように井戸の星空を渡っているのです。
とりまく星々がほんのりと色づきはじめているのは、地上が夕刻を迎えたからなのでしょう。その点では、
しかし、ではなぜ動く?
井戸が動かないのはあたりまえのこと。ならばあの月はやはり井戸の穴ではないのでしょうか。
「あの三日月は」カギオは背を向けたまま女の子に問いかけます。「いったい何なの?」
彼女は答えません。
星空に三日月。
なのに黒い雨。
そして、先程から聞えている遠い海鳴りのような音。
それは地下の岩盤に反響した雨の音なのか、あるいは井戸の口をかすめた風が空き瓶を吹くように鳴らしているのか、いずれにしても空が鳴っているように感じます。
カギオにはそれが巨大な獣の
そしてその巨獣のはらわたがこの地下そのものなのではないか、などと思えてくるのです。
そういえば、
子ねずみがいません。どこではぐれてしまったのか。
きょろきょろと足元を捜しながら、
「ねえ、子ねずみを知らない? ずっと一緒だったんだけれど」
すると女の子、
「ああ、真っ白いのだろう? あいつ、先に行ってるってさ」とまた寂しげに笑います。
「え? 先に、って?」と問いかけるのを
「おまえのことは、このわたしにまかせる、ってさ」ドレスの裾をわさわさと整えると「さあ、できたできた!」
振り返ると、だぶだぶながらもようやく女の子らしい姿になった彼女がいました。
「さあて、何してあそぼっか」
「遊んでる暇なんかないよ」
「わかってるって。……言ってみただけだよ」
なんて寂しそうな笑みをするのでしょうか、この子は。
「取り敢えずは雨がやむのを待つしかないからさ。でも、やんだらどうする?」
カギオは、
「もちろんすぐにでも地上に帰りたい。ソラが、……妻が心配なんだ」
女の子が冷やかすように微笑みます。けれども、その笑顔もやはり哀しそう。カギオはその笑みに戸惑いつつ、
「でも妻に会えたら、工具箱を持ってまたここに戻ってくる。わたしはさっきの連中を売りさばいた張本人なんだ。ここに戻って、あの連中全員の錠を外してあげるつもりさ」
「無理だよ」と、ちょっと怒って女の子「おまえは戻ってこないね、絶対に」
「いや、錠たちをあのままにはしておけない。きっと工具箱をもってここへまた」
女の子はそれを溜め息で
「だめなんだ。おまえはここを出たらそれっきり。それっきりなんだ」
そう言って天空をゆく三日月を見上げました。
空が、
本降りになってきました。
女の子が何を根拠にそんなことを言うのか、カギオにはわかりません。けれども、その遠くを見つめる寂しげな横顔が、あどけない彼女にはあまりに不似合いで。見ているうちにこれだけは言ってあげようと思い、
「信じろよ」
でも女の子は返事の代わりに片頬を微かに
「わたしがここを出たら、君はひとりぼっちなのかい?」とカギオ。
彼女はこっくりと
「それなら一緒にここを出ればいい」
「……」
「砂漠の外を知りたいのなら、まずはここから出なくちゃ」
「ここから、出る?」
「そう。ここから出たいんだろう? 外の世界を知りたいんだろう? それなら一緒に」
「ここから出るなんて今まで考えてもみなかった」
「井戸の底がこんなふうでは、この国はもうだめだ。いつまでも居られるものじゃない」
「わたしにも出られるかな」
女の子はカギオの顔を、そう、ちょうど子が父親に尋ねるように見あげました。
「何を言ってるんだい。当たり前じゃないか。たしか君はこのわたしを地上へ送ってくれると言ったね?」
「うん。言った」
「ならばその時に一緒に出ればいいだけのことだよ」
「……」
「ね」
女の子はうつむいてしまいます。カギオはその肩を抱いてやり、
「とにかく上に出よう」
星も月も消えました。地上には夜が訪れたようです。
女の子は黙ってがらくたに埋もれて眠ってしまいました。
雨はしばらくやみそうもありません。