Ⅰ.その男、飴色の肌とフクロウの眼光:1

文字数 5,003文字

 食っても眠っても、満たされない。
 残るは、肉体の快感。肉の感触。
 あとは、何もない。

 J・Mの走り書き

【Ⅰ】

 二週間前に受け取った手紙と、街で教えられた話では、自動車で行けば片道三十分とかからないと聞いていた。黒森(ブラック・ウッド)は確かに広大で深い森だが、方位磁針には優しいし、人の足にも馬の毛並みにも、まして自動車のような文明の利器にはもっと優しい。したがって、どんなに長く見積もっても、四気筒の心強いエンジンがあれば四十五分を越すことはないと聞いていた。それは、ガス欠を恐れて街を出る前に寄った、給油所の親父が言っていた。
 「これだけの馬力があれば、楽勝でしょう。道は舗装されているし――三十分後には、まちがいなくあのお屋敷の塔が見えていますよ。まちがいありません。中世のお姫さまが、血に飢えた野獣に幽閉されてでもいそうな塔ですよ、お兄さん――お助けに上がってはいかがでしょう? 三十分でたどり着けます」
 しかし今、その親父の自信たっぷりの言葉は虚偽だったと言わざるを得ない。なぜなら、給油所を出てブラック・ウッドに入ってから、もうすでに一時間が経過している。しかし目指す屋敷はおろか、その童話めいた塔の一部さえ、まだ見えない。
 ローレン・ハルベリーは腕時計から目を離すと、ため息をついてサイドブレーキを引いた。道をまちがえたのだろうか? いや、そんなはずはない。手紙にも書いてあったし、ここに至るまでに自らの目でも確かめたが、ブラック・ウッドに自動車をとおせるほどのまともな舗装路はこの一本しかない。そしてその一本は、目的の屋敷と森外の街との行き来を容易にするため、ダルザック氏が自ら工事をさせ綺麗に舗装させた道だから、途中に分岐もなく、逸れようにも逸れようがない。確かに、この道は屋敷へと真っすぐ続いている――もっとも、道はのぼり気味で、しかもひどく蛇行しているが。
 しばらく地図とにらみ合い、自分が迷い子になっていないことを確信したあと、ハルベリーは地図をほうってサイドブレーキを下ろし、ふたたびハンドルを握った。たぶんあの給油所の親父は、森のなかで自動車を走らせた経験がないのだろう。だから、こんなカーブだらけのワインディング・ロードでも、時速四十マイルでとばしていけると思っている。
 ハルベリーの端正な眉が、やや内へ寄せられた。ついひと月前に、この地を数百マイル離れたシティーの有名大学の商学部を出たばかりの、若々しい好青年だった。
 実際、その虚偽の発言をした給油所の親父が思わずひやかしたほど、ハルベリーはなかなか見上げた容貌をしていた。長く伸びた手足はやせ型の体躯に均整を与えていたし、黒に近い褐色の豊かな巻き毛は月光を浴びせたようなつやを帯び、それと同じ色の目は常に落ち着きはらって、知性と理性と気品に満ちたまなざしで対象を見つめた。全体の造作が、薄く白い肌ともぴったり合っていた。彼は優秀かつ厳粛な青年だった。ときに真面目すぎると周囲に苦笑されることもあるほど、またこの年齢の若者にしてはときにめずらしいほど、怠惰や放埓とはかけ離れた青年だったが、彼はそれを特異とも思っていなかった。
 さらにカーブをいくつか経て、十分ほどが過ぎたころ、ようやく石造りの塔の先端が、高々とそびえる木々の隙間にほの見えた。まさに自分のたどり着くべき目的の屋敷――ノエル・ダルザック氏の所有する屋敷の一部だった。ハルベリーは胸をなで下ろし、アクセルを慎重に踏んだ。幸い天候に恵まれ、いったん広がるとすべてを覆いつくしてしまうあの名物の濃霧も、きょうはその勢力を弱めていた。
 まもなく視界がひらけ、いかめしくも瀟洒な、屋敷というよりは城と呼んでも差しつかえない、先刻の塔と同じ石造りの洋館がハルベリーの眼前に現れた。予習によって彼が得た情報によると、この屋敷が建ったのはざっと二百数十年前のことで、もともとはさる王侯貴族の避暑の別荘として、夏のあいだだけ使用されていたという。だが立て続いた内戦のあと、当主一家が没落してからは長らく打ち捨てられて廃墟と化し、森の動物たちや近隣の村の子供たちの気ままな遊び場となっていたのを、その周辺の土地も合わせてダルザック氏が言い値で購入し、さらに莫大な金額をかけて建物の全体を改修した。それが四年ほど前のことで、現在、屋敷はダルザック氏の本邸として生まれ変わり、街の人間からも「ダルザックさまのお屋敷」として認知されるようになっている。
 きょうからその屋敷が、ハルベリーの職場であり、そして住まいとなるのだった。彼はこの世の金融界、あるいは経済界においておよそその名を知らぬ者はいない、あのノエル・ダルザックの秘書として、氏じきじきのお眼鏡にかなう男として、ほかの大勢の候補者のなかから選出されていた。候補者たちは皆、ハルベリーのように各地の名門大学からの卒業をひかえた、前途有為の男子学生だった。
 道は、塔と屋敷を正面へ向け回りこむように続いている。ゆるやかになったカーブの先に、門が見えた。奥には、よく手入れの行き届いた広大な庭が景観を作っている。門を抜け、刈りこまれた芝生や噴水、それらを覆って円形に咲き乱れる花々を横目にまた少し走ると、手紙にあったとおり、ガレージが見つかった。海を渡ってやってきたのだろう、新式のクライスラーやパッカードが、まだ一度も乗られたことのないようにつやつやと光っている。それらの隣は避けて、まだだいぶ空きの残っているスペースの端に駐車すると、ハルベリーは自身のオースチンを降りた。すると音に気づいて出てきたのか、庭師らしき中年の男がひとり、ガレージの裏から顔をのぞかせ、ハルベリーを見た。人の良さそうな、麦わら帽子をかぶり、日に焼けた赤ら顔の、筋骨たくましい男だった。
 「あなた、ダルザックさまの――ええと、なんでしたか、そう――秘書になられるって方ですか? 秘書の方ですね? 新しい?」
 ハルベリーはうなずいて答えた。
 「ええ。そうです。ローレン・ハルベリーと申します。きょうから、こちらでお世話になります。ダルザックさんに話はとおっているかと思いますが」
 「はい、はい。うかがっております。もし知らないお車が見えたら、それはあなたのはずだから、すぐにお声をかけるよう旦那さまから言いつかっております。私はダロンといいまして、当家の庭師です。当家には案内人も門番もおりませんで、道々ご不便でしたでしょう。無事に到着されて何よりでした。まあ、あなたさまのようなお若い方です、迷うようなこともありますまいが――さあ、どうぞ。旦那さまがお待ちです。あちらの玄関でベルを押していただくよう、申しつかっております。お荷物は? たくさんおありでしょうね? お手伝いいたしましょう」
 「いえ、荷物は先に送ってありますから。あの玄関ですね? どうもありがとう」
 「どうも、ハルベリーさん。どうぞよろしく」
 「ダロンさんとおっしゃいましたね。こちらこそ。声をかけていただいて助かりました」
 庭師のダロンは愛想よくちょっと麦わらを上げると、ハルベリーのことを上から下まで眺めた。
 「旦那さまには、はじめてお会いになりますか」
 「いいえ。面接のために、一度お会いしています。こちらではなく、シティーのほうで」
 「そうですか。いや、そうでしょう。そうに決まっています。確かに、あなたは――旦那さまのお気にいりそうな方だ」
 「そうでしょうか?」
 「ええ。少なくとも、あの方の仕事を手伝う右腕としては、やはりあなたのような――いえ。これ以上、長くお引きとめするわけにはまいりますまい。では、ハルベリーさん。またいずれ。あなたとお話をする機会は、今後いくらでもあるでしょうから」
 「ええ」
 庭師にしては、そしてそのざっくばらんな外見にしては、ていねいな話しぶりの男という感じをハルベリーは受けた。それは彼にとっては好印象だった。もう一度礼を述べ、ハルベリーは正面玄関へと続く長いアプローチを進んだ。言われたとおりベルを押すと、扉の向こうに高い音が響いた。やや待たされたのち、扉の一方を押しあけて出てきたのは小間使いのなりをした若い女だった。白い頭巾に、白い大きなエプロンをつけていたが、そのエプロンは何かに濡れてよごれていた。
 「ローレン・ハルベリーさまでございますか」
 女が尋ねた。
 「ええ、そうです。ダルザックさんの秘書として、きょうからこちらでお世話に」
 「承知いたしております。ハルベリーさま。ようこそ、おいでくださいました」
 女は頭を下げた。上目づかいにハルベリーをいちべつしたが、その目に歓迎の色はなく、なぜかしら妙に怯えているようすだった。慇懃にハルベリーを招き入れたが、表情は暗く、血のかよいがなく、そのことは女をひどく陰気に見せ、若い娘にあるはずの魅力を台無しにしていた。だが顔立ちには愛嬌があって、小ぶりな鼻のてっぺんからなめらかな頬へかけ、そばかすがほんのり散っていた。まだ十代だろうとハルベリーは推測した。
 「あの、ハルベリーさま。お車でいらしたのでしょうか?」
 「ええ、そうです」
 「お荷物は……」
 「僕ひとりです。荷物はすでにこちらへ届いていると思いますが」
 「そうでした。馬車で届いて、お部屋へお運びするのを、私、お手伝いしました」
 「それは、どうもありがとう。手間をかけてすみません」
 「いえ。……」
 女はうつむきがちで、さっさとハルベリーのそばから離れたがっているように見えた。所在なげに視線を泳がし、かたくなに目を合わせようとしない。だが一方ハルベリーは、この女から自分がつぶさに観察されている気がした。少なくとも女はこちらに好意的ではないが、興味はいだいている。
 それにしても、足を踏み入れた玄関ホールは見事だった。ハルベリーは女の態度に対する困惑も忘れ、息をのんで見回した。
 「ご到着を旦那さまへお知らせしてまいります、ハルベリーさま」
 女が言った。
 「少々お待ちを……」
 そのとき、ホールの中央へ向け、左右対称にカーブしていく一対の階段にはさまれた扉があいて、長身の男が階下に姿をあらわした。ノエル・ダルザック氏だった。
 「セレスティーヌ」
 と、ダルザック氏は女を呼んだ。
 「ご案内は私がしよう。きみは持ち場へ下がっていい」
 セレスティーヌと呼ばれた女はエプロンの端をつまんでいとまのあいさつをし、廊下を小走りに去っていった。だがハルベリーには、その華奢な背中は去るというより、逃げるといったほうが近いように感じられた。彼はその日の夕刻、ティータイムの際に知ったが、セレスティーヌの持ち場は厨房だった。
 「ハルベリー君」
 ダルザック氏はハルベリーへ握手を求め、到着をよろこぶ言葉を告げた。その静かな含みある声音は、ハルベリーが自身の面接で聞いて、覚えていたとおりだった。だがそのときよりいくぶんか雰囲気がやわらいでいるのは、タイの取れた白シャツに、ゆったりとしたビロードの深緑色のガウンという、くつろいだいでたちのせいだろう。初対面でハルベリーが得た印象から想像するより、顔色も良かった。そうぞうしい都会は健康被害へつながると、氏は考えているようだった。いわく、有益なビジネスほど人ごみとは無縁だし、また無縁であるべきだという。
 「執事のたぐいは雇っていないのでね。失礼した。あまり世話を焼かれたくなくてね――だが、ひととおりの礼儀は、どの使用人にも備わっていると思う。きみに迷惑はかけまい。ダロンには会ったかね?」
 「ええ。ガレージに車をとめたら、出てきて、声をかけてくれました」
 「そうか。あれは頼りになる男だよ。察しがいいし、器用でね。では、案内しよう。さしあたり、きみにとって必要な部屋のみ、まず最初に見せておこう」
 ダルザック氏はハルベリーをうながした。セレスティーヌが去ったあと、ホールは静まり返って、物音もしなければだれの気配もない。向かって左側の階段をのぼりながらハルベリーが見下ろすと、天井から下がるシャンデリアが、彼を数世紀以前の絢爛な舞踏会へと誘いみちびくかのように、うるわしい宝石を幾重にものせつらね、またたいている。あかりはともっていない――必要ないのだろう。それらの宝石自体が、ほのかに発光しているせいで。
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