Ⅰ.その男、飴色の肌とフクロウの眼光:2

文字数 5,281文字

 階段をのぼりきり、回廊からホールを出ると、長い廊下が真っすぐ続いていた。敷き物はなく、足音が響く。壁には等間隔に穴があき、なかには年代物の燭台が置かれ、往時にはそこに本物の火がともったであろうことが想像できるが、目下のところは天井からのシンプルなライトが、その役割を現代風に果たしているようだった。ホールにシャンデリアこそぶら下がっていたが、あれは構造上、取り外すことができずそのままになっているらしい。絵画や彫刻や甲冑など、この種の屋敷に似合いそうな華美な装飾はそのほかいっさいない。無駄な機能はことごとく排除され、そのことはダルザック氏の性質をよくあらわしていた。
 この廊下沿いに、ハルベリーの自室となる部屋があった。ほかにいくつかドアが並んでいたが、先を歩くダルザック氏は歩みを止めず、やがてそのうちのひとつをあけ、室内をハルベリーに示した。前もって送っておいた荷物が中央に積んであり、殺風景なほど広々とした、けれども居心地の良さそうな空間だった。
 ダルザック氏の部屋は、このさらに上階にあった。寝室と客間を扉でへだてた次の間に書斎があり、たっぷりとゆとりを持たせたそこがダルザック氏の仕事部屋であり、またハルベリーの職場だった。一日で世界を変えると言う、あの大都市の一等地にそそり立つ高層ビルディングの一角を捨てたダルザック氏は、日々のせわしない喧騒を離れ、きょうではこの部屋から、その精密な頭脳を存分にはたらかして成果をあげているのだった。
 ハルベリーは自身に当てがわれたデスクに触れた。これからここで日に何本の電話を取ることになるのか、彼にも見当がつかない。
 「仕事はあすからだ。無論、こちらのマーケットがあく五分前には、席についていてもらいたい。あすは少々、荒れるだろう。例の公金横領は、きょうのうちに明るみになる。トップは検挙される」
 ダルザック氏は悠然とほほえみ、ハルベリーを見た。
 「私が情報を流したのだ。きみには期待している」
 数十年前、彗星のごとく金融市場に現れたダルザック氏は、以来あまたの人間にうとまれ、賛美され、崇拝され、そして恐れられてきた。そのまなざしには底知れぬ光があった。
 ハルベリーは姿勢を正し、面接での緊張をふたたび思い起こした。側近の秘書としてぜひとも貴殿を特別に採用したく――という内容の封書を受け取ったときは、おどろいた。卒業後は父の銀行業を手伝うつもりでいたのを、その父にすすめられて受けた面接だったため、採用に至ると思っておらず、自分には荷が重すぎると、はじめは承諾を迷ったくらいだった。だが父はためらう息子を叱咤激励した。ノエル・ダルザックの秘書を務める栄誉をむざむざ辞退するのは一族の恥だとまで言われては、選択の余地はなかった。父はハルベリーの生まれ育った地域ではもっとも強力かつ堅実な銀行の頭取で、ダルザック氏とは面識があった。氏の辣腕ぶりを知っていて、高く評価してもいた。父は自分の能力の幅を理解しており、株式には手を出さない主義だったため、氏へ対する畏怖と憧憬の念を人並み以上に持っていた。ハルベリーの一族は、もともと名の知れた旧家なのだが、彼らが金融業に乗り出したのはハルベリーの祖父の代からで、父とちがってこの祖父は、投機的な才を備えたある種の豪傑だった。先見の明があり、これからの世を家名に頼って生きていくのは愚か者のやることだと、若いときから公言していた。
 幸い、ハルベリーは、この祖父と父の両方の美点を受け継いだ。物事を考え、決定するとき、ハルベリーには保守的な健全さと急進的な大胆さを、絶妙に組み合わせる力があった。金脈を狙う大乱戦において、その猛者たちとやり合うには、こうした判断能力は重宝される。そのため、彼の家柄と、性質、そして在学中の成績を知る者であれば、彼がダルザック氏の目に留まったのもまったく当然と思われた。書類審査を通過した候補者のうち、ダルザック氏はハルベリーとの面接では、その所要時間を途中で変更し、本来の規定であった一時間を二時間に延長し、ハルベリーへさまざまな質問を浴びせたのち、自身の泊まっているホテルの最上階のプライベート・ルームへ夕食に招いた。そしてさらに、面接の続きと称してハルベリーと個人的に会話をした。書類審査を任されていた氏の信頼を得る部下たちは、氏がハルベリーを採用するであろうことを、その夜から確信していた。そうした特別の待遇を受けたのは、じつのところ、ハルベリーには知らされていなかったが、全候補者のうちで彼ひとりだった。
 ダルザック氏の素性について、あきらかな部分は少ない。氏はプライベートを口にしないことで有名だった。ノエル・ダルザックというのも偽名という説が濃厚で、その名が業界に広く知られる前まで、氏がどこでどのような生活を送っていたのかは謎に包まれている。現在、氏は独身だが、過去に結婚歴があるのか、子はいるのかといったことも、その女性関係を含めはっきりしない。一度だけ妻を持った経験があると訳知り顔に話す大物実業家もいるが、それも結局は根拠のないうわさにすぎない。それでも氏の素性をさぐろうとする者が出てこないのは、仮にそうすると、あとで氏によってどんな報復を受けるか分からないからだった。現に、それをやって、暴落を機に再起不能にさせられたあわれな投資家を、ハルベリーでさえ二、三知っていた。
 ノエル・ダルザックと聞いて、氏の実物の姿を頭に思い描ける人間は、その名前を把握している人間の総数に対し極端に少ない。ノエル・ダルザックという名と、その恐るべき影響力を漠然と認めているにすぎない大半の者は、面と向かって氏に相対したらおそらく意外に思うことだろう。五十を出たか出ないかという年ごろにしては、ダルザック氏の外貌には老いが見られなかった。長年にわたって一線で暗躍しているため、なかには氏をしわの寄った老人と勝手に想像している人間もいるが、事実はその逆といっても誇張にならない。おとろえという語句を使うことは、氏を前にすれば適切ではないと分かる。切れ長のするどい瞳が精彩を欠いたためしはない。ブラウンの髪毛を後方へ流し、張りのあるひたい、高い鼻筋、長身に似合うほっそりとした顎から首のラインはそれでいてたくましく、この屋敷のように無駄のそがれた肉体を、その頭脳と合わせて氏は自在に鍛え、あやつっていた。同じ金持ちでも、その力に飽かして贅肉をたくわえていくほかの男たちとは、氏は住む世界を異にしていた。闇の巨人――孤高の策略家――そんな言葉が時折、陰で交わされたが、氏は意に介さなかった。
 ダルザック氏はガウンのポケットに手を突っこみ、「そうかたくなる必要はない」とハルベリーへ言った。
 「きみは、あの街にいる彼らが自分たちの遊戯に熱中し、奮闘する姿を客観的に眺めることになる。その光景を楽しめばいい。私はいつもそうしている。そのうえで、取るべきものを取る。つまり、判断する。きみは、私が判断し、実行に移すのを助ける」
 「はい。心得ているつもりです。仮にまちがっていたら、どうかなんなりとご教示ください。訂正します」
 「よろしい」
 ダルザック氏は書斎について、何がどこにあるか、鍵の場所、電話の使い方などを説明し、客間にしている隣の部屋へハルベリーを案内した。さらにはその奥の寝室へと続く扉もあけ、内部を彼へ見せた。もっとも私的な空間であるだろうその部屋は、家具や調度こそ金がかかっているようだったが、やはり余計な物は置かれておらず、必要な物が所定の位置に据えられている、あっさりとした部屋だった。ハルベリーは扉からのぞいたのみで、踏みこむことはひかえた。中庭を向いたバルコニーから、カーテンのあいている窓を抜け陽の光がいっぱいに差しこみ、薄紫色のじゅうたんをあざやかに照らしていた。同色の寝具で統一された巨大なベッドは、さすが主人の使うものといった感じで、折り目ひとつなく見事にととのえられていた。
 ダルザック氏は小テーブルに指をすべらせ、そこの花瓶に生けられたライラックをひややかな目で眺めたあと、扉のそばに立つハルベリーへ説明を続けた。
 「きみがここで暮らすうえで、注意事項は特にない。仕事をのぞいては、屋敷とその敷地内では、きみの好きに過ごしてもらってかまわない。時間に縛られるのはビジネスだけでいい。必ずこの時間に食事をしなければならないということもなければ、門限もない。まあ、あまり遅いときは、ダロンをたたき起こして門をあけさせる手間が要るがね。あらかじめ彼へ伝えておけば、その時刻まで待ってくれるか、もしくは門の鍵を渡してくれるだろう。
 必要が生じたら、出くわした使用人に申しつけてくれれば、該当の者に話がいく。外出は自由。来客も自由だ。ただし、人を呼ぶ際には事前に私へ知らせてほしい。どこのだれとも分からない人間にそのへんをうろつかれると、使用人がおどろくのでね。仕事のほかで、私がきみに用ができる場合もあるだろうが、だからといって常に私からの呼び出しを気にして生活することはない。仕事とプライベートは分ける、というのが私の考えだ。きみが私を上司と思うのは、仕事をしているあいだだけでいい。無論、常識の範囲内での礼儀は保つべきだろうが、かた苦しいのは困るということだ。バランスを取ってほしい。きみにも、そう考えてもらえると助かるが」
 「分かりました。問題ありません」
 「何か質問はあるかね」
 「いいえ。今のところは」
 「きみとは、うまくやっていけるだろう。ハルベリー君」
 ダルザック氏はテーブルを離れた。ハルベリーは氏と連れ立って、客間の扉から廊下へ出た。食堂や図書室を案内するという氏の言葉に沿い、来た廊下を戻って階段を下りると、先ほど見せられたハルベリーの自室のある階の廊下へ出た。ハルベリーはそこに若い男の姿をみとめた。男は早足に廊下をこちらへ向かって歩いていたが、ダルザック氏とハルベリーに気づくとその場に立ち止まった。
 男は、ハルベリーがこれまで見てきたすべての男のなかでも一、二位を争う、異質な雰囲気を持っていた。目が合った瞬間、ハルベリーも立ち止まった。
 男は銀色の髪をしていた。それが絹のようになめらかに、肩のあたりまで伸びている。左右に分けた前髪がこぼれ落ちそうになるのを、邪魔そうに指で押さえ、耳にかけた。目つきは敵へ向かうそれだった。目尻へいくにつれわずかにつり上がり、闇を見つめるフクロウを思わせる。その黄色味を帯びた夜目のような瞳がふたつ、飴色の肌にのっている。服装はどうということもないラフなシャツとズボンだが、それらの身体的な色味や特徴のかもす空気が、男を独特に、そして異国風に見せている。ハルベリーの頭に古代エジプトやメソポタミアが、その神話、壁画が、あるいは灼熱の砂漠におとずれる月夜が浮かんだ。
 「ノエル」
 男はダルザック氏をそう呼んだ。
 「ローレン・ハルベリー君だ。マキーラ」
 ダルザック氏が答えた。
 「こちらの彼が、そうだ。きょうから、ここにいる」
 マキーラというらしい男は、ダルザック氏からハルベリーへ視線を戻した。値踏みするようにハルベリーを見つめ、何も言わず目礼すると、そばの扉をあけて姿を消した。扉が閉まった。それはちょうどハルベリーの部屋のはす向かいで、そこが男の自室らしかった。
 「ダルザックさん。今の方は」
 「ジェイ・マキーラという男だよ。きみには言っていなかったが、彼も私の側近といっていい。秘書のようなものだ」
 「もうひと方、いらっしゃったんですね。では、彼も僕と似た仕事を?」
 「いや。きみとマキーラが仕事でかかわることはないだろう。彼を気にする必要はない。同じ階の部屋に住む、ただの隣人とでも思ってくれたらいい。強いて付き合いをすすめはしない」
 ダルザック氏は歩き出し、ふたりはマキーラの入った扉の前を過ぎた。そこを過ぎてから、氏はふたたびハルベリーへ言った。
 「だが、きみが楽しく付き合いたいと思うなら、ぜひそうしてくれ」
 妙に含めるような言い方だったので、ハルベリーは内心ちょっと首をかしげた。問いかけが口をついて出かけたが、ダルザック氏はマキーラについてそれ以上しゃべるつもりはないらしく、すぐ話題を変えた。
 その後、ダルザック氏は屋敷内の主要な箇所をハルベリーへ順に見せた。やがて、部下から電話が来たというのでハルベリーをサロンに残し、上階の書斎へ去った。
 残されたハルベリーはサロンの窓際の椅子に腰かけ、そこから見える中庭を眺めた。フランス窓はあいており、夕刻のややすずしくなった風が、ブラック・ウッドのうっそうとした木々と、庭に咲く花たちの香りを運んできた。
 十分ほどして、部屋へ戻って荷物をとくつもりで彼が椅子を立とうとしたとき、「ハルベリーさま」と呼ばれた。セレスティーヌが、銀盆にカップやポットなどをのせ、サロンの出入り口に立っていた。
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