Ⅱ.隠された秘密、清潔なシーツとは:1

文字数 4,122文字

【Ⅱ】

 翌日から、ハルベリーの生活は、ダルザック氏の書斎で行う仕事を中心に比較的規則正しく回り始めた。市場が動く時間に合わせて彼の作業も進み、ダルザック氏の臨機応変なひと言によってその内容は刻一刻と変化した。ハルベリーは、意外にも電話がきらいというダルザック氏に替わって、呼び出しのベルが鳴るたび交換手と話し、つながった先の相手から用件を聞き取り、伝えるべきことを伝えた。あるいはスケジュールを作成し、資料を作成し、さまざまな文書記録に目をとおし、数々のデータを頭にたたきこみ、動向をさぐった。やるべきことは尽きなかった。ありとあらゆる産業は止まることを知らず、常に状態を変えて動き続ける。人里離れた屋敷にいても、その微妙な一挙手一投足は、ダルザック氏の頭脳とまなざしにかかると、なぜかのがさず捕らえられた。トウモロコシや小麦の生育状況、石油の産出量、鉄道会社や船舶会社の業績まで、ダルザック氏が闘いをいどんでいるのは、常にそれらの数字に多大なる影響をおよぼす、各界のトップに君臨する大役者たちであり、あるいはそれらを武器にゲームを展開させる、歴戦の賭博師たちだった。
 そのため、ハルベリーのすることは常に機密性を帯びた。新聞がある重要なスキャンダルを報じようとするとき、その記事が書かれているころには、ダルザック氏は出来事の細部にいたるあらましを大抵把握している必要があり、それには氏の恐るべき情報網と人脈が、それらを提供する側の利害とともに、たくみに利用されていた。
 一週間も経つと、ハルベリーは自分のするべきことに慣れた。責任の大きさや、隠密かつ迅速にことを運ばなくてはならないプレッシャーに緊張していたのは、彼の場合、最初の数日だけだった。彼は、彼らしい優秀さと、冷静さ、研究熱心な真面目さと判断のセンスで、私情を差しはさむことなく合理的に責務をこなせた。意見を求められれば、相手がダルザック氏といえども自身の見解を臆さず述べ、けれども出過ぎたことは決して言わない。ダルザック氏が見初めただけあってか、ハルベリーはこの種の仕事に確かに向いていた。氏は、ハルベリーが予想以上の掘り出し物であることに、十分満足しているようだった。二週間が経つころには、氏は部下との重要なやりとりのいくつかを、すでに自分ではやらずハルベリーに代理させるようになっていた。
 ハルベリーは、そうした氏の期待に、おおむねうまく応えていた。任される仕事を端からそつなくこなす一方で、しかしそれらとは別にひそかな疑問をいだいてもいた。その一は、何をおいても、まずマキーラのことだった。
 ジェイ・マキーラとは、はたして何者か? という――。
 屋敷に暮らすようになって三週間が経過してみて、ハルベリーが理解したのは、初日にセレスティーヌが言ったとおり、ジェイ・マキーラはダルザック氏の秘書ではないということだった。少なくとも、マキーラは氏の行うビジネスには関与していない。マキーラが、株式投資や事業経営に精通しているとはハルベリーには到底思えなかった。またそうした金融知識のほかに、マキーラが何かアカデミックな造詣を特別に持ち合わせているとも思えなかった。
 ようするに、マキーラがどういう男で、ダルザック氏とどんな関係にあり、そしてなんのために氏の屋敷で生活しているのかが、数週間を経てもハルベリーには分からないままだった。その日常のようすや、実態も不明だった。
 マキーラが、日中、ハルベリーが仕事をしているダルザック氏の書斎へやってきたことは、これまでのところ一度もない。そのためハルベリーは普段、偶然をのぞいてはマキーラと習慣的に顔を合わす機会がない。マキーラは起床も就寝も食事の時間もまちまちらしく、決まった行動というのが見られない。昼、あるいは夜のあいだマキーラがどこで何をしているのかハルベリーは知らない。ただ、互いの部屋が同じ廊下沿いにあることなどから、ハルベリーが推測しているのは、マキーラは大体週に一回ほど屋敷を出ていき、そうするとその日は戻らない。翌日か、あるいは数日あとになって帰ってくる。行き先は分からない。
 また、マキーラにはかかえの運転手がいる。その若い男は屋敷に住んでいないが、マキーラにとっては側近の下男のような立場にいる男らしかった。名はジャスマン。そうマキーラが呼んでいるのを聞いて知ったが、顔を見たことはまだハルベリーにはない。マキーラは、その下男のジャスマンが運転するロールスロイスの送迎で、外出する。
 一方、マキーラをおとずれる客も、数週間のうちで何度かあった。だがどの来客時にも、ハルベリーは書斎で多忙にしていたためその客がだれであったかを知らない。来客の事実も、ダルザック氏からそれを聞かされて認識していたにすぎない。人を呼ぶ際は氏に前もって連絡するよう氏はハルベリーへ言ったが、その規定はマキーラに関しても同様らしかった。
 そしてダルザック氏といえば、ハルベリーは、氏がマキーラと屋敷でふたりでいる場面に遭遇したためしがいまだない。氏はマキーラを、自分の側近あるいは秘書のようなものと形容した。だが、屋敷内でのふたりはとてもそんな関係にあるようには見えないのが、ハルベリーにとっての実情だった。
 ハルベリーは幾度か、氏へマキーラについて尋ねようとこころみた。これではマキーラの素性が、ハルベリーにまったく知れていないといっても過言ではなく、仮にも同階の部屋に夜をあかしている彼としては、心象の点からしても防犯の点からしても、やはりそこは多少なりとも気になるところではあった。だがダルザック氏はそれについて、ハルベリーの質問に明瞭な回答をせず、そっけない口調ではぐらかす。そしてすぐ話題を転じてしまう。
 戸惑ったあげく、そこでハルベリーは、休日の朝、庭へ散歩に出た折にダロンをつかまえ、尋ねてみた。
 「あのジェイ・マキーラという男が何者で、ダルザックさんとどういう関係にあるのか、あなたはご存知でしょう?」
 その日までに、ハルベリーはダロンとはそれなりに親しく会話をするようになっていた。この屋敷においては、庭師がもっとも話しやすい相手であるようにハルベリーは感じていた。
 「いえね、ハルベリーさん。じつを言うと、私もたいして存じ上げないのですよ」
 ダロンはすまなそうに笑った。
 「私は、旦那さまがこのお屋敷に越していらした最初の年から、こちらで庭師をやっておりますがね。マキーラさんどころか、旦那さまの過去についても、あまり知らずにいるのです。私からお訊きすることもありませんでしてね。言わぬが花、知らぬが仏というような感じでしょうかね。旦那さまは大層なことをやっておられる方でしょう。とても私なぞにはお話できますまい」
 「でも、人づてに聞いたり、うわさで耳にしたりすることはあったでしょう」
 「はあ。そういうことでしたら、まあ……ないとは言えませんな」
 「大体、マキーラは、いつからここへ住んでいるんですか?」
 「それは、はじめっからですよ。ハルベリーさん。マキーラさんは旦那さまと一緒にこちらへいらしたんですから。四年前でしたか。当時のマキーラさんは、どう申し上げたものか――ここだけの話ですが――いかにも無軌道な、ふらふらとした風来坊といった方でしてねえ。あらけずりな振る舞いの、変わった少年でしたね。今ではご立派になられて、そうした言動もずいぶん落ち着いたほうですがね」
 「ダルザックさんと、血のつながりがあるんでしょうか? はじめから彼と一緒だったということは」
 「さあ、そうとも思えませんがねえ。マキーラさんは居候のようなものだと、旦那さまは以前、私におっしゃったことがあるくらいですからねえ。なんでも、外国を旅されていたとき、知人のつてで懇意になって、そのまま連れて帰ってきたようです。うわさでは、マキーラさんに身寄りはないそうで。旦那さまとお知り合いになった当時、あの方が何をしてらっしゃったか分かりませんが――ギリシャの島にいたという話もありましたが――それとも、イタリーだったかな。とにかく、本人の了解さえあれば、すぐにでも荷物をまとめて国境を超えることができるご身分だったようです。そのころ、あの方はまだ十代でしたでしょうからな」
 「ダルザックさんが、彼を見こんで、自ら彼の後見人のような立場になったということでしょうか」
 「そんなようなところではなかろうかと、私は思っておりますがね。まあ、マキーラさんに関しては、少々いろいろと事情がおありのようですが、いかんせん旦那さまも黙っておられるので。私がはっきりと存じているのはそれくらいですよ」
 ダロンのこの話を聞いて、ハルベリーはますます考えこんでしまった。謎がさらに深まったように感じられた。
 しかしダロンは、マキーラとダルザック氏がどんな関係にあろうと、別段気にならないらしかった。ふたりが縁者であろうが、知人であろうが友人であろうが、自分の仕事や興味に支障はないといった風情だった。ダロンはブラック・ウッドを出てすぐの街で育ち、ハルベリーが立ち寄った給油所の親父とは旧知の仲だと言っていた。ダロンは、妻に先立たれてやもめになっていたところをダルザック氏に雇われるまで、氏の実績はおろか、名前さえ知らなかったという。
 だが、ダロンはすべてを語っていないようにハルベリーは直感した。約四年もこの屋敷ではたらいていれば、こちらへ話した以上のことをダロンは聞き知っているにちがいない。だが、ダルザック氏やマキーラに口止めされているのか、あるいはダロン自身が彼らに配慮してなのか、それらをハルベリーへあかすつもりはダロンにはないらしい。
 一方、ダロンは、マキーラに直接尋ねてみてはどうかとハルベリーへすすめることもしなかった。ハルベリーへ話をしたときのダロンは、ダロンもまたダルザック氏のように、ハルベリーがあえてマキーラと親しくする必要はないと、はじめから決めてかかっているかのようだった。ダロンのその気色をハルベリーはうっすら感じ取り、やはり妙に思った。
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