前半

文字数 3,131文字

「なんだこれぇ? 小学五年生にもなってこんな自由研究。小さな子供みたいじゃーん」
「ひらがな多すぎだし、絵も落書きみたいだし。見直しもしてないよな? 変な文章になってるよ」
「粘土で何か作るにしても、もっと大きく作らなきゃダメだよなー」


 クラスのガキ大将が率いる男子グループが朔斗の自由研究を指さしてげらげら笑っているのを、野々歌(ののか)は悔しい思いで拳を握りしめながら聞いていた。朔斗の事情を知っていてこんなことを言うなんて、こいつらには人の心というものがないのだろうか?

 字や絵が乱れているのは、もう自由がきかなくなりつつある小さな手で、それでも頑張って書いたからだ。

 五年生なのにひらがなが多いのは、朔斗は小学三年生までしか、普通の学校に通えなかったから。

 文章の間違いが多いのだって、朔斗が力を振り絞って懸命に書いた文字を、ひと文字だって消しゴムで修正したくなかったからで……。

 粘土作品が親指ほどのサイズしかないのは……大きな粘土作品を作ろうとしたらその大きさの分だけ、粘土が乾燥して次の作業へ移れるようになるまでに必要な時間が長くなるから。

 もう長らく学校には通えていないし、みんなと同じ、算数国語の宿題は出来なくても。夏休みの自由研究くらいはどうにか参加したいと朔斗が願ったから。病院内学級の先生達が手伝って、ようやく完成させたものなのだ。


「何これ? 黒い雪だるまに赤い帽子とマフラーってこと?」

 夏休み。朔斗のお見舞いに来た野々歌は手渡されたそれを見て、なんだか季節外れだなぁと思った。雪だるまのような形をしているからというだけではなく、黒と赤という色の組み合わせは、なんだか夏っぽくないではないか。言っちゃ悪いから口には出さないけど、暑苦しさを感じてしまう配色だ。

「雪だるまじゃなくって、お地蔵さん。お父さんとお母さんと山登りした時にね、道の途中に黒と赤のペンキがべったりしたお地蔵さんを見つけたんだ。いつか同じ山にもう一度登って、ペンキを落としてあげるねって約束したんだけど……」

 朔斗の病が発症したのはその直後で、病院から自宅にだってお医者さんが制限してめったに帰れなくなってしまった。山登りなんてとんでもない。

 朔斗が両親と共に遠出した思い出は、その登山の日が最後だった。だからこそ、その時の思い出を目に見える形として残して、両親に贈りたい。朔斗が自由研究の題材に選んだのは、そういう事情だった。



「野々歌ちゃん。これ、あなたに貰って欲しいの。朔斗はね、野々歌ちゃんがお地蔵様の話を信じて聞いてくれて嬉しかったって、言っていたから」

 朔斗が亡くなって、彼の両親は、粘土で作った親指サイズの「血ぞめじぞう」を野々歌に渡した。両親のところには朔斗の書いたお話と絵の血ぞめじぞうがあるから、それでじゅうぶんだと言う。

 野々歌は遠慮なくそれを受け取って、朔斗にあげたくて買った病気平癒のお守りの中へと大事にしまい込んだ。

 これを買ったのは、朔斗は一緒に行けなかった、小学五年生の林間学校。三日目のバス移動の途中、大きな神社に寄った際に。彼へのお土産のつもりだった。

 野々歌がお守りを買ったその時にはすでに、朔斗は息を引き取っていた。クラスのみんなが林間学校を楽しんでいる時に、自分の死の報せで水を差したくない。朔斗がそう言うので、野々歌にもクラスメイトにも、彼の病状がいよいよ差し迫っているのは伝えられなかった。引率の学校関係者は知っていたのだけど。



「あった! 見つけた! これが朔斗の血染め地蔵だよね? ね、おじさん!」

 朔斗が亡くなって間もなく、秋の連休を使って、思い出の山へ足を運ぶ。朔斗の父と、野々歌の父と、野々歌の三人で。

 朔斗の言っていた通り、登山道の途中には黒と赤のペンキがべっとり貼り付いた哀れな地蔵が佇んでいた。ひとりぼっちで、ぽつんとして。

 朔斗の両親、特に母は朔斗のことを思い出して辛いので、地蔵の汚れを落としには来れないという。朔斗との約束なのに、朔斗に申し訳ない。彼の母はそう言って泣いていた。なので、野々歌と父がいつか代わりに汚れを落としに来よう。今日はその下見に来たのだ。二度手間になるかもしれなくても、今でも地蔵はそこにあって、汚れも当時のままなのか? それを確かめる前に、汚れを落とすための道具一式を用意するわけにはいかなかったから。




「ごめんなぁ、野々歌……。約束してたあの日、お父さん、急に仕事が入ってしまって……行けなくなっちゃったんだ。また、別の日にしてもいいかな」

 ずっと前から約束していたのに。野々歌は腹の内では全く納得していなかったけど、文句を言わず聞き入れた振りをした。

 父と一緒に、血染め地蔵のペンキを落としに行くと約束したその日は、朔斗の一周忌なのだ。野々歌はどうしても、その日に決行したかった。父がダメなら母と、と言いたいところだが、折悪しく母も持病の検査入院で頼れない。

 野々歌は父が出勤したのを見送ってから、生活に問題はない程度に認知機能の衰えた祖母にだけ、登山のことを伝えて出かけてしまった。

 父ふたりと共に来た下見の際に見ていたから、登山の前に登山届を書いて出さなければならないことを野々歌はちゃんと知っていた。登山道の入口、無人の木箱の中に、きちんと記入した登山届を放り入れる。


 登山といっても、小学校低学年の朔斗を連れて登れるような規模の山だ。地元の小学生が遠足で登ったりもするらしい。スマートフォンの電波だって、圏外にはなっていない。なだらかな登山道をのんびり歩いて、野々歌は再び、あの血染め地蔵を見つけた。

「ほとんど一年振りくらいだっけ? 約束通り、ペンキ、拭きにきてあげたからね」

 それにしても、ペンキをかけられて何年くらい経ったのだろう? 朔斗がこの地蔵を見つけてからだってもう、四年くらいは経っているはずなのに、誰も処置してあげないものなんだなぁ。野々歌は汚れた地蔵に同情しながら、背負ったリュックサックから塗装落としの道具を出して作業を始める。

 元々は父と一緒に作業するはずだったのだから、きちんと調べた上で道具を購入してあった。プロ用という名前ながら一般に市販されていた、ペンキ、塗料落としの溶剤。子供が触っても、そして自然にも害がないよう作られた、環境配慮商品だ。とはいえ、もちろん、子供だけで使わせないでくださいと注意書きはあるのだが。


 スマホでインターネット検索をして、「コンクリート壁の落書きの消し方」というページを開いて参考にしながら、野々歌は地蔵のペンキ汚れ落としを試みる。ところが……。


「なんでよぉ……ぜんっぜん、落ちないじゃん……」

 ペンキをかけられた直後ならまだしも、数年前からこびりついた汚れだ。小学生の女の子の腕力では、どんなに力を入れて頑張っても汚れはなかなか落ちてはくれない。持参したタオルにはほんのりと、黒と赤の汚れが滲みてきているから、全く落ちていないわけではないのだろうが。野々歌が参照しているwebページにだって、「頑固すぎる汚れはお金を払ってプロに任せましょう」と最後に記載されている。身も蓋もない。



 やがて、日が傾き始めているのを野々歌は察して、立ち上がった。確かに、汚れを完全に落とすことは出来なかった。でも、朔斗の一周忌であるこの日、ここを訪れて、約束を果たす努力はした。彼に対する弔いとしては、これだけだってじゅうぶんだ。野々歌はそう判断する。

「落としきれなくてごめんだけど、今度はお父さんも連れてきてリベンジしてあげるから。もうちょっとだけ待っててよね」

 赤いペンキのこびりついた地蔵の頭をふんわり撫でてから、野々歌は下山を開始する。
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