後半

文字数 2,583文字

 小学六年生のひとり旅。路線検索をしたり、移動の暇つぶしに無計画にインターネットを見ていたり。先ほどだって、作業の最中、汚れの落とし方ページを開きっぱなしだった。無事に山を下りきる前に、スマホの電池はなくなってしまった。


「変だなぁ……上ったのと同じくらいの時間、もう歩いてるのに……どうして下に着かないの?」


 登山道を外れたつもりはないのに、野々歌は自覚のないまま、道に迷っていた。登山ではたった一本、ほんの数歩の道間違いをするだけで、簡単に遭難してしまうのだ。山中はどんどん薄暗くなってきて心細い気持ちのまま、ひたすらに下を目指して歩き続ける。山で遭難した場合、無策に下り続けるよりは上りに転じて尾根へ出た方が良い。もちろん、野々歌はそんな基礎知識を持ち合わせてはいない。


 それでも、野々歌が歩いているのはまだ獣道ではなく、登山道であるはずだった。ぎくり、足を止める。なんとなく、嫌な予感がした。


 野々歌の進行方向、十数メートルほど先に中年の男性がいて、こちらを見ている。道に迷っている時に大人に出会えたのだから、頼ってもいいはず。だが、その男のどこか白けたような無感情の目を見ていると、野々歌は喉の奥から苦い胃液がせり上がるような不快感を覚えるのだ。


 男は声も出さず、愛想笑いすらせず、淡々と歩いてくる。思わず、野々歌は踵を返し、これまで歩いてきた道を引き返す。小走りになって、すると、男の足さばきが変わったのを足音から察した。はぁはぁ、と、自分の息遣いだけでなく、男のそれまで耳元に届く気がする。


 野々歌はズボンのポケットの中に入れてあったお守りを取り出して、中に納まっている小さな血ぞめじぞうごと、ぎゅっと握りしめる。


 ……こわい、こわいよ。助けて、お父さん……朔斗!




 胸の内でそう叫び、半泣きになって夢中で走っていた野々歌は、

「わっ……わああぁぁああ~っ!」

 勢いよく斜面に飛び出してしまい、足を踏み外して、滑落した。

 死の瞬間、体感はスローモーションになり、これまでの人生が走馬灯のようによぎる。そんな話を聞いた覚えが、野々歌にもある。実際、今の野々歌もまた、それを嫌というほど味わっていた。

 残された命の精いっぱいを振り絞るようにして、朔斗は最後の自由研究を作り上げて、両親と野々歌に贈ってくれた。そんな作品を無慈悲に笑い飛ばし、小馬鹿にしていたクラスの男子達。


 あいつらのこと、「人の心がないのか」なんて思ったけど。そうやって蔑む資格なんて、あたしにだってないんだ。お互い様なんだから。


「ののかちゃん、あのね。わたしのママ、もうしんじゃったの」

「うっそだぁ~」

 幼稚園の頃。友達が悲しそうに、深刻な調子でそう打ち明けてくれたのに、野々歌は思わずそう答えてしまっていた。そんな嘘をつく理由がどこにある? 今だったらそう、冷静に考えられたかもしれないけれど。

 お父さんもお母さんも、子供が大人になるまで責任をもって育ててくれるもの。体だって、子供の自分達より親の方がずっと強いんだ。我が子より先に死んでしまう親がいるなんて、五歳の野々歌にとっては「ありえないこと」だった。


「ねえ、ののちゃん聞いた? 一組のさやかちゃんって手芸の天才で、今度、テレビの天才児特集かなんかに出るらしいよ」

「え~、うっそだぁ」

 その女子児童とはそんなに話したことはないけど、野々歌の目にはごくごく普通の小学生にしか見えなかった。自分の周囲に天才児、ましてやテレビに出られるような子供がいるわけがない。



 野々歌は、自分の思う常識から外れた話を聞くと、反射的に「嘘だ」と思ってしまう。そういう癖があった。何がきっかけだったのか覚えていないが、「騙されてなるものか」という意識が働いてしまうのだ。

 実際、さやかちゃんの話だって、嘘ではなかった。両親と一緒に夕食を食べていて、テレビ番組に出ているのを見た。小学生の体より遥かに大きな、布団のようなサイズの見事なまでのパッチワーク作品と並び、誇らしげな顔をした彼女の姿がそこにある。学校では見たことがないような、自信に溢れた表情としゃんとした佇まいで。


「野々歌……ぼく、ね。もしかしたら、もうすぐ死んじゃうかもしれないんだ」

「……うっそだぁ~」

 朔斗から初めてそう打ち明けられた時、小学三年生の野々歌は、まだ事の深刻さを理解していなかった。幼なじみで、三年生になるまでは普通の体で、遊ぶのも体育の授業も平均的な子供と変わらず出来ていた朔斗が。急に発症した病によって、今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなって。しまいには大人になれずに今すぐにでも死んでしまうなんてこと、あるはずがない……。


 でも、日に日に病状が重くなり、目に見えてやつれ弱っていく朔斗を見守って……野々歌はあの日、あんな言葉を彼に投げつけたことを後悔した。心の底から。
 名前も忘れてしまった幼稚園のあの子のことも、さやかちゃんのことも、朔斗のことも。そんな、何の得もない嘘をつく必要がどこにある? 相手の話をちゃんと聞いて、冷静に考えればわかるはず。本当のことを言っているのに、軽率に「嘘だ」なんて言われるの、みんな、嫌な気持ちだっただろうな。



「ぼくね、山で血ぞめじぞうを見つけたんだよ」

 その話をされた時。すでに野々歌の中には、あの時の朔斗との件での後悔があった。だから、いつもの「うっそだぁ」は口から飛び出すことはなく、落ち着いて彼の話を聞くことが出来た。

「……なんちゃって。実は赤いペンキなんだ。血じゃなくってね」


 ぺろりと舌の先を出して、朔斗は悪戯っぽく笑う。素直に信じた時に限って冗談だったわけだけど、信じたこと自体を「損した」とは、野々歌は思わなかった。朔斗が笑ってくれたから……。






 滑落したショックか、いつの間にか意識を失っていた野々歌が気が付けば、彼女はやはり斜面にいた。しかし、無事であった。

 斜面には、先ほど登山道で見た、黒と赤のペンキで汚れた地蔵が突き刺さっていて。野々歌はそれに両手でしがみつくようにして、斜面にぶら下がっていたのだ。


 ……信じてくれて……見つけてくれて。

 ペンキをふいてくれて、ありがとう……


 頭の中に直接入ってくるような、不思議な声。子守唄が聞こえてきたみたいな安らかな感覚で、急速な眠気が訪れて。野々歌は目を閉じた。
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