第5章 現象の時代

文字数 5,232文字

5 現象の時代
 「青い血、青アザ」は、『可能なるコミュニズム』において、資本主義が運動であり、その対抗も運動でなければならないだと次のように述べている。

 九〇年以後、私は単なる資本主義批判ではなく、それを克服するための何か積極的な方法と論理的根拠を模索していたのである。(略)本書において、私たちの意見はさまざまに分かれているが、ただ一つの点において、つまり、マルクス主義運動の壊滅的な解体と幻滅ののちになお、いかにしてコミュニズムを積極的に考えうるかという関心において、共通している。

 しかし、資本の運動は終わらないけれども、それはそれに対抗する運動がなければ終わらないということです。それはけっして自動的には終わらない。それを阻止しようとするのは倫理的な動機以外にはない。

 確かに、資本主義は父なる神の死と共に始まっているが、現代社会には「父性」は欠落しているのではない。すべてが商品化されてしまうために、その存在が決定不能性に陥り、「母性」が過剰になっている。「父が対立であるとするなら、母は包容であったろう。しかし、包容されるということは、所有されるという意味を含んでいる。象徴レベルで、対立するものとしての、父の支配を倒すことはできる。しかし、原理的にいって、みずからを包みこむものとしての、母を殺すことはできない。包みこまれることによって、殺されるのは自分のほうである」(森毅『父と母と、そして子と』)。資本主義は世界を「包容」する。「包容」とは「母の影に脅え続けること」である。資本主義の克服を運動によって達成することは可能ではない。運動は一定の方向を持った力であるが、資本主義の拡散は必ずしも一定の方向ではない。「父性の欠落」にある批評家は父を問題にしているが、資本主義は、むしろ、母の原理に基づいている。

Her Majesty's a pretty nice girl
But she doesn't have a lot to say
Her Majesty's a pretty nice girl
But she changes from day to day

I want to tell her that I love her a lot
But I gotta get a bellyful of wine
Her Majesty's a pretty nice girl
Someday I'm going to make her mine, oh yeah
Someday I'm going to make her mine
(The Beatles “Her Majesty'”)

 グローバリゼーションが示しているのは資本主義が運動ではなく、非可逆的な現象だという点である。地球規模の変動の中は、複雑な相互依存によって、先の見えない世界である。人類史の時間を圧縮したような体験であり、先が見通せないことにより人々は不安を覚え、アイデンティも揺らぐ。コミュニズムを運動として認識している限り、それは現代の資本主義の対抗原理としてさえ機能できない。

 可能なるコミュニストは、『可能なるコミュニズム』の中で、資本主義が非資本主義的経済活動を飲みこんでいく運動であると次のように述べている。

 非資本的生産-消費がいかに浸透しようと、それは資本の自己増殖の運動を止めることはできないだけでなく、そこに吸収されてしまうほかないだろう。従って、それと同時に、資本制に対抗する運動が資本の運動の内部でなされなければならない。私はそのような運動への鍵を、『資本論』、特に、価値形態論に見いだした。それは、ごく簡単に言えば、資本への対抗運動の場を、生産過程ではなく流通過程にシフトすべきだと言うことである。

 このネオ共産主義者の資本主義に関する議論は従属理論やポストコロニアリズムと同様の主張である。資本主義は外部を吸収し、その内部に差異をつくり出してゆくというわけだ。この前提に基づき、彼は、『トランスクリティーク』において、カントとマルクスの相関性を説きつつ、資本=ネーション=ステートの三位一体に対抗する力を労働運動や党派ではなく、消費者の自律的なアソシエーションに求める議論を展開する。

 カントを通じてマルクスを読み直すと同時にマルクスを通じてカントを読み直す試みが刺激的であったとしても、それを現在の資本主義分析に直結するとき、かのポスト・マルクス主義者の今日的な意義を十分に見出すことはできない。むしろ、不完全性定理が告げた決定不能性は二〇世紀の資本主義社会をはるかに表象している。神の死の決定不能性が資本主義を発展・拡散させていっている。「数学が時代としてのメタファーでありうるのは、引用の正確さではなしに、その共鳴への態度によっている」(森毅『一刀斎の古本市』)。

 不完全性定理以後の基礎論の流れを省みるとき、現代資本主義の姿が明瞭になる。一九世紀から二〇世紀初頭にかけて志向された数学基礎論に代表される純粋数学は、言ってみれば、数学におけるモダニズムないし運動としての数学である。自己充足的な世界を構築するこの数学の運動は不完全性定理によって挫折する。以降、純粋数学に代わって応用数学が主流となるが、それは方向性を持たず、拡散していくエントロピー性の高い現象である。このエントロピー自体が数学と相性がいい。

 数学基礎論は、一九三一年以降、不完全性定理を研究するより、いかにそれを克服するかというテーマで発展している。それは対象としての数学のどの側面を研究するかにより、四つの分野に分かれる。数学の証明の記号操作を研究する「証明論」、具体的な手続きで構成される対象を研究する「帰納的関数論」、幾何学的構造、代数的構造等の構造を研究する「模型論」、数学的前提を研究する「公理的集合論」である。基礎論の基礎はゲーデルの完全性定理・ゲーデルの不完全性定理・ゲンツェンの基本定理の三つの定理に集約される。

 ゲルハルト・ゲンツェンの基本定理は体系の無矛盾性を示す手段として開発されており、ある定理を導く論理の道筋には、その定理自身と公理より複雑なものは現れないようにできるという主張である。大前提と小前提から結論を導き出す三段論法において、結論より前提の方が複雑な式になっており、それが公理の一部でない限り、三段論法は不要である。「数学で、証明されてもわからんことは、よくある。証明は所詮が説得の手段で、納得するわけではない」(森毅『夢みる脳』)。

 数学者たちは数学の前提と整合性がある仮説を付加して、さまざまな数学世界を構成できるのではないかと態度を変更する。いかなる仮説が数学の前提と整合性を持ちうるのか、もしくは数学の前提に、ある仮説を付加すれば、どのような数学世界となるのかが数学基礎論のテーマにシフトする。

 田中一之の『逆数学と2階算術』によると、数学の定理の証明にどれだけの公理が必要かという問題を数学基礎論の現代的な舞台装置の上で考えてみようという「逆数学」も提唱されている。逆数学では、特に2階算術という枠組みにおいて、ある定理を証明するのにどの程度の集合存在公理が必要かを調べ、必要な存在公理によって数学の命題の世界に等高線を入れてみると、数学史の流れや異なる理論間の感覚的な類似性が捉えられる。と同時に、数学の基礎付けよりはその応用を志向し始め、応用または交流の範囲はコンピューター・サイエンスの諸分野から超準的手法による解析学や代数学、代数幾何的研究まで拡散している。かのプリンストン大学教授は運動としての数学を終わらせただけであって、現象としての数学の可能性を指し示す。不完全性定理はそのスタートであって、ゴールではない。

 数学の問題の証明も変化している。四色問題の解決にはコンピューター・アルジェブラ・システム、通称CASが用いられている。三台の別々のハード・ウェア上で異なったプログラム言語で書かれたプログラムを走らせて、その難問を解いたのだが、ハードの中にトラブルがない、あるいはプログラムにバグが存在しないとは誰にも言いきれない。従来の問い=答えの図式ではなく、アルゴリズムが問われている。一台だけならともかく、三台とも同じ結果が出たのだから、解けたと見なされている。この解法自体決定不能性にある。

 現在の科学的認識はかの偉大な批判哲学者がそのパラダイムとした古典力学にとどまっていない。アンリ・ポアンカレは、一九世紀後半に、運動方程式を用いた三体問題の一般的な解法の不可能性を見出している。自然科学は、線形の事象に限っては、理論的体系を構築してきたが、非線形に対して事実上お手上げである。ところが、ほとんどの自然現象は非線形に含まれる。そこで、それを認識するために考案された複雑系は原因=結果の因果関係に囚われない。コンピューター・シミュレーションによって非線形・非平衡現象をヴィジュアル化する。しかし、それにはコンピューターのイノベーションが不可欠である。

Lady Macbeth: Here's the smell of the blood still: all the perfumes of Arabia will not sweeten this little hand. Oh, oh, oh!
Doctor: What a sigh is there! The heart is sorely charged.
Gentlewoman: I would not have such a heart in my bosom for the dignity of the whole body.
Doctor: Well, well, well,--
Gentlewoman: Pray God it be, sir.
Doctor: This disease is beyond my practise: yet I have known those which have walked in their sleep who have died holily in their beds.
Lady Macbeth: Wash your hands, put on your nightgown; look not so pale.--I tell you yet again, Banquo's buried; he cannot come out on's grave.
Doctor: Even so?
Lady Macbeth: To bed, to bed! there's knocking at the gate: come, come, come, come, give me your hand. What's done cannot be undone.--To bed, to bed, to bed!
(“Macbeth” Act 5 Scene 1)

 パソコンが一般家庭に普及し始めた一九九〇年代に入ると、無根拠の批評家の作品はかつてほど読まれてはいない。『トランスクリティーク』は、八〇年代の著作のような影響力を獲得できない。彼の作品は東西冷戦構造と日本の経済発展を背景にしており、グローバリゼーションに対応した議論を十分に提供できない。世界構造が全体として静的である際に、断片化の闘争は批判の意義があるが、動的になれば、それは流れになっているだけと見得る。横断や越境は手段であって、目的ではない。ところが、それがしばしば目的化する。流動性が激しくなった時代に、移動を唱えても、常態化しているのだから、自己目的でしかない。

 横断的かつ超越論的な批評の提唱者は、ポスト構造主義世代の西洋の思想家同様、西洋形而上学の伝統に立ち返り、それを再検討することから、現在の状況ならびにその先を見つけようとする。そういった試みは一般的には受け入れられていない。それは彼の資本主義観が反省と自己批判を通じた外部の内面化という西洋形而上学の特徴と通じているからである。西洋形而上学は線形的な世界を構築してきたのであり、その回帰は効果的ではない。

 ただ、再入門は必要だろう。構造主義以降の哲学者は西洋形而上学の相対化を戦略的に行う。しかし、それは善悪の議論を招いてしまう。相対主義はそれ自体も相対化される認識を不可欠である。西洋形而上学は知識人にとって理解の一つの共通基盤である。連続性・非連続性を問いつつ、断片を恣意的に組み合わせるのではなしに、西洋形而上学の複数の伝統を顧みて、現代の状況・学問・活動の蓄積された知見と再帰的に検討する。この再帰性が非線形である。共通理解としての西洋形而上学の伝統の再入門は意義深い。
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