第4章 青い血、青アザ

文字数 5,660文字

4 青い血、青アザ
 海野弘は、『〈モダン・アート〉とはなにか』において、資本主義の勃興によって起きたモダニズムに代表される芸術活動が運動という形態をとると次のように述べている。

 階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。
 このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。

 芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。

 神の死により、芸術に限らず、哲学や政治も、「階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する」。

 かの共和主義者は、『探求Ⅱ』において、一九世紀半ばから二〇世紀の初めの時期に革命的な活動が「運動」という姿をとっていたと次のように述べている。

 むろん、こういう馬鹿げた詭弁的マルクス主義者やフロイト主義者を、マルクスやフロイトと混同してはならない。だが、前者をもたらす要因が後者にあることは確かである。それは彼がたんに学説や批判をのべたのではなく、そのことが運動となるほかないような形でそうしたということとかかわっている。それは、すでにいったように、世界宗教が「宗教批判」でありながら、それ自体宗教運動として展開されたことと類似している。だが、ここで注意すべきことは、そう名乗っていないにも関わらず、「科学」もまたたんなる学説や方法ではなく、「運動」にほかならないということである。事実、それもまた科学への「信仰者」をもたらしている。

 フロイトの運動体についても同じことが言える。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通 り"宗教"となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されること眼にみえているからである。

 ヴィクトリア朝やフランツ・ヨーゼフ帝のウィーンの時代・社会の分析としてこれは妥当であろう。精神分析は先鋭的な集団の運動として一般に普及し、反発を招いている。

 けれども、現代における意欲的な活動は運動ではなく、現象である。芸術がそれを体現している。ニヒリズムに代わって商業主義が芸術を襲う。高度に発達した資本主義社会では、すべては商品化される。神でさえも、例外ではない。神の死は決定不能性に置かれる。芸術の根拠は無ではなく、決定不能性に陥る。その組織的な活動はカリスマ性を持ったインプレサリオに代わって、アーツ・マネジメントに基づく必要性がある。

 アーツ・マネジメントは文化の経済学とも言うべき方法論である。社会科学の諸成果を生かし、グローバルな観点を採用しつつ、アカデミックなアプローチを中心に、文化の質を確保・向上させながら、産業・活動として機能させる方法を考察する。その領域は劇場や美術館、スポーツ・チームの運営、村おこしを含めた都市計画、NGOの文化事業、音楽・映画制作といったポピュラー文化にも及ぶ。

 近代以前、公共の場は人の集まる場所を意味している。広場や市場、劇場、宗教施設などがその一例である。そこはたんなる商取引や芸術鑑賞ではなく、社交の場でもある。そういう場所には芸術作品が置かれているものだ。地元の有力者たちは自分がいかに芸術をわかっていて、太っ腹であるかを市民にアピールするため、芸術家に作品を依頼する。ドナテルロの彫刻はフィレンツェの公共性の表象であり、ミケランジェロ・ブエナロディのダヴィデ像は共和制に完全に復帰したフィレンツェから依頼された公共事業である。

 ところが、近代に入ると、人々の行動とは関係なく、国家や自治体が管理者となって計画・実行される事業が公共と見なされるようになってしまう。日本中でよく見る人の寄りつかないような公会堂は、公共の場ではなく、利権を貪る連中の私的な空間でしかない。公共と社交は不可分であったのに、社交が失われてしまっている。社交を復権しなければならない。公共性は社交から生まれるのであり、現代にふさわしい社交の場をつくり出さなければならない。アーツ・マネジメントは公共性と社交の再検討にほかならない。

君がいなけりゃ 夜は暗い
春の陽ざしの中も とてもクライ

Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック

Oh Baby いけないよ
Baby Oh Baby どこに行くの No, No
他人の目を気にして生きるなんて
くだらない事さ ぼくは道端で 泣いてる子供

Oh Baby(Oh Baby) Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック

君がいなけりゃ 夜は暗い
春の陽ざしの中も とてもクライ

Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック

No, No 他人がとやかく言っても
どうしようもない事さ
Hey 誰もあの娘をとめられない

(Baby) Oh Baby(Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック

(Baby) Baby Oh (Oh Baby) Baby Oh い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Baby(Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
Baby Oh Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Oh (Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック

(Baby) Baby Baby (Oh Baby) Baby Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Baby(Oh Baby) Baby い・け・な・いルージュマジック
(Baby Oh Baby) い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Baby Oh Baby Baby Baby い・け・な・いルージュマジック

(Baby) Oh (Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック
(Baby) Oh Yeah(Oh Baby) Ya い・け・な・いルージュマジック…
(坂本龍一=忌野清志郎『い・け・な・いルージュマジック』)

 Critical Spaceの主催者はこうした社会的・歴史的変化を考慮しない。社交とはまったく縁遠くなってしまっている。彼を含めて、日本において文芸批評家の影響はドラッグである。何もしていないのに、何かをしているような気にさせ、依存性がある。それは彼らがインプレサリオだったからである。今日の文芸批評家はディレクターであり、プロデューサーであり、マネージャーでなければならない。

 中上健次は、『青い血、青アザ-柄谷行人』において、彼の友人の無根拠性への固執について父性の欠落だと次のように述べている。

 不思議な事だが、何から何まで違うのに関心が一致してしまい、こいつ俺と同じように青い血だな、青アザがあるなと思うしかない人間がいるものである。柄谷行人の「探求」の連載開始時に、つくづく思ったのだった。青い血や青アザを人に認めるのは不愉快なものである。ちょうどニューヨークのコロンビア大学の客員研究員で滞在している頃、わざわざシカゴ大学での講演で柄谷行人批判をやった。「探求」はつまり実存主義に行くだけじゃないか、というのが骨子だった。しかし本音は、胸の青アザが気に喰わない、青い血が嫌いだ、という事である。そんな事言っても詮ないのは百も承知だった。柄谷行人の青い血、青アザは、出会ったのっけから分かった。もう遠い昔の事で細部は定かでなくなったが、喫茶店に腰をおろして話しはじめ、純正の詩人、小説家の資性をかぎとめたのだった。以降、私には柄谷行人は批評家ではないのである。
 文芸批評をやり、現代思想の中に入っていくが、それは彼が怠惰であり、信じられぬくらい臆病であり恥ずかしがり屋であるせいだ。また彼の周りの文芸雑誌の編集者が才能なく努力なく勇気がないから、詩や小説に直に挑んでみろと勧めないからである。私と出会った当初、二十五歳の柄谷行人は小林秀雄を、吉本隆明を、江藤淳を熱心に、何時間も論じていた。吉本隆明や江藤淳を直に知っていると言って、私を嫉妬させた。当時の私は既成作家や評論家の誰も知らなかった。会いに出かける考えもないし、会ったとしても、うまく口をきけない。下手にしゃべれば思ってもみない罵倒をしでかしそうだった。現に、二人を引きあわせてくれた当時の三田文学の編集長だった遠藤周作の前で、私は何もしゃべれなかった。しかし彼は違う。子が父をさがすように、弟が兄をたずねるように、評論家の元に出かける。後に吉本隆明、江藤淳の二人を批判するのを頭に入れて見直せば、おそらくこれも、青い血、青アザのしからしむ行動なのであろう。
 小林秀雄以降の現代批評で柄谷行人ほど詩と小説に繊細に反応している批評を他に知 らない。言葉を変えれば詩と小説に嫉妬し、劣等感を抱いている人間を知らない。小林秀雄のように年少の頃、詩や小説に挫折したのかどうか定かではないが、柄谷行人には詩や小説は現実、実存の福音や恩籠であるという認識がある。もちろんそれは佳作、秀作を前にした時であって、失敗作駄作はその限りではない。
 この作品への感応は小林秀雄に似ている。おそらくそれは彼が関西の芦屋で、父母に溺愛され、生活臭が微塵もないという境遇に成育したからであろうと思う。溺愛は用意に欠乏を生むし、関西という多民族、多文化混合の土地を考えれば、生活に対する想像力は十分すぎるほど刺激される。この批評家の境遇から、彼の著作に横溢する根拠のないファナティズム、反エディプス・コンプレックスの特性が導かれる。つくづく不思議な批評家、思想家であると思う。
 三田文学の編集室で遠藤周作に引き合わされてから二十三年経っているので、この批評家の個性を表わすエピソードは数かぎりなくある。湯河原へ「茉利花」の奥田茉利さんと一緒に行った時だった。朝食を食べはじめた彼を見て、こづいてやりたくなってムズムズした。というのも、左手に持った茶碗を口のすぐ前に持っていき、くちゃくちゃ食いながら、ぺちゃくちゃド・マンがどうの、デリダがどうの、としゃべる。まず茶碗の持ちかた、次に物の食べ方、次に食べながら話す点をどやしてやりたいのだ。話題のつまらなさは二の次、三の次である。

 石原慎太郎の接待で一緒に平河町の料亭に行った事があった。柄谷行人は当時禁煙をしていた。ワインを飲もうという事になり、石原慎太郎はワインを注文した。柄谷行人は、何に興奮したのかのっけから話し続けだった。ワインが運ばれ、乾杯し、話し終えないまま柄谷行人はワインを一息で飲んだ。まだ話し続ける柄谷行人に石原慎太郎はワインを注ぎ足した。そのワインも彼は話し続けながら一息に飲み干した。石原慎太郎はワインを置く暇もなく、柄谷行人のワイングラスに注いだ。それをまた一息に飲み干した。そうやって二本のワインを彼は一人で空にし、話しながら、ワイングラスを持ったまま座椅子から転げ落ちた。(略)
 唖然とするしかないが、理屈をこじつければ、これらのエピソードから、柄谷行人は小林秀雄が切り展いた父性としての批評をはなから問題にしていない事があきらかになろう。問題にしていないと言うよりも、問題に出来ないのだ、とも言える。何しろ柄谷行人といると、批評ではなく小説が批評を庇護し、方向を与える器であると思えてくるのだ。小説が父を無化し、子を庇護する兄=アイヤとしての自由な器だ、と思えてくる。
 おそらく柄谷行人の批評が根拠のないファナティズムに満ちているのは、この父性の 欠落に起因するのだろうし、「探求」での内と外を巡っての思考、教える、学ぶの思考は、欠落を自覚した者の、父─子、神─人間への用意周到の接近戦なのであろう。根拠のないファナティズム、父性欠落は日本浪漫派、戦前の再発見につながるのだろうか?昭和天皇の病気、崩御の際の薄っぺらな発言はどう変化するのだろう?と同じ青い血、青いアザの私は見ている。再度言う、柄谷行人は評論家ではなく純正の詩人、小説家なのである。

 熊野の偉大な小説家の言うように、熊野大学夏季セミナー講師の批評は「根拠のないファナティズム」に満ちている。彼は、殺すべき父がいないとばかりに、世界の無根拠さを告げて回る。「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」(フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜』)。

 あなたに今夜はワインをふりかけ
心まで酔わせたい 酔わせたい
アアあなたを
(沢田研二『あなたに今夜はワインをふりかけ』)
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