第1章 80年代のカリスマ

文字数 7,246文字

柄谷行人、あるいは父性の欠落
Saven Satow
Oct. 31, 2004

「父のなかの『欠落』を裁くかわりに、その欠落を耐えた悲哀に涙ぐむのである」。
柄谷行人『江藤淳論』

1 八〇年代のカリスマ
 一九八〇年代、柄谷行人は、蓮実重彦と並んで、全共闘世代以降の作家や批評家へ絶対的な影響力を及ぼしている。高橋源一郎や島田雅彦、奥泉光、浅田彰、東浩紀等には明らかに柄谷の影が見えるし、編集者やアカデミズムにも及んでいる。その中には、「幸運は勇者に手を差し伸べる(Audentes fortuna invat)」というプブリウス・ウェルギリウス・マロの言葉を実証している「たそがれ清文(せいぶん)」もしくは「文芸批評家のエド・ウッド」とも言われる佐藤清文も含まれている。「あの時あなたに会いさえせねば、あたしゃ苦労の味知らず」。中上健次の葬儀委員長と激しく対立していたのは、Curriculum Vitaeがいまだにないこの史上最低の批評家が評価した田中康夫くらいだろう。de cuis...

”Greetings, my friend. You are interested in the unknown, the mysterious, the unexplainable... that is why you are here. So now, for the first time, we are bringing you the full story of what happened...
(Extremely serious)
We are giving you all the evidence, based only on the secret testimony of the miserable souls who survived this terrifying ordeal. The incidents, the places, my friend, we cannot keep this a secret any longer. Can your hearts stand the shocking facts of the true story of Edward D. Wood, Junior??
(Tim Burton “Ed Wood”)

 文学を対象にした『畏怖する人間』や『意味という病』、『日本近代文学の期限』、『反文学論』、『批評とポスト・モダン』は示唆に富んでいるとしても、他の著作の中にも優れた洞察が少なくない。ただ、質はともかく、第一二回群像新人文学賞受賞者が最も影響を与えたのは『マルクスその可能性の中心』や『隠喩としての建築』、『内省と遡行』、『探求』といった理論的著作であろう。「批評はカラスに寛容で、鳩には責め立てる(dat veniam corvis,vexat censura columbas)」。

All: Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.
(William Shakespeare “Macbeth” Act 1 Scene 1)

 一方で、基礎的知識や読解の質以前に、故冥王まさ子の元夫にはいくつかの問題点が指摘されている。読解対象を通念に対して差異化させて、戯れ、思わせぶりな言説を振りまき、「驢馬が教壇に(asinus in cathedra)」いるようなエピゴーネンを数多生み出してもいる。また、理論的影響力とは別に、元法政大学教授の実務能力の欠如はよく知られ、『季刊思潮』や『批評空間』といった批評の雑誌を主催し、New Associacionnist Movement(NAM)に協力したものの、すべて「魚に終わる(desinit in piscem)」(クイントゥス・ホラティウス・フラックス)。A latereな彼はインプレサリオであって、マネージャーではないというわけだ。岩波書店から選集を刊行している批評家に対する批判はずっとあったものの、彼を超える影響力を持った批評家は依然として登場していない。

Crash Davis: Well I believe in the soul... the cock...the pussy... the small of a woman's back... the hangin' curveball... high fiber... good scotch... that the novels of Susan Sontag are self-indulgent overrated crap... I believe Lee Harvey Oswald acted alone. I believe there ought to be a Constitutional amendment outlawing Astroturf and the designated hitter. I believe in the sweet spot, soft core pornography, opening your presents Christmas morning rather than Christmas Eve, and I believe in long, slow, deep, soft, wet kisses that last three days. Goodnight.
(Ron Shelton “Bull Durham”)

 一九六〇年代は吉本隆明、七〇年代は山口昌男、八〇年代はKKが中心的な批評家である。『共同幻想論』の筆者は全共闘世代のカリスマだったし、大江健三郎は中心=周縁理論の提唱者へ帰依しているとさえ言えるだろう。「山口昌男が誰かに悪口をいわれたとき、それを聞いた大江健三郎が山口昌男に電話をかけて、『くやしい』と言って電話口でサメザメと泣いたという噂があります」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。ニュー・アカデミズムにも、『構造と力』の著者や中沢新一、上野千鶴子といったスターがいたけれども、近畿大学国際人文科学研究所所長以降、後発世代を生み出せる文芸批評家はいない。

 後継者を出すには、自分の作品を読ませられるだけでは不十分であり、読者をそこから書くことへと向かせなければならない。メッセージ性だけでは、影響は増殖しない。マッサージ性が不可欠である。

 竹田青嗣は、必ずしも、このポストモダン文学のボスに好意的ではないが、『読みびと知らずのバルト』において、「メルロ=ポンティに関して、そのイメージのはじめの核をわたしは柄谷行人の評論から与えられた」と次のように述べている。

そこでメルロ=ポンティの「両義性(アンビギティ)」という言葉は、「あいまいさ」という言葉に微妙に重ねられ、存在論的な陰鬱を鮮やかに浮かばせられていた。このイメージを核に孕まれた問題の魅力が、わたしをメルロ=ポンティにむかわせた。

 また、森毅は、『一刀斎の古本市』で、彼の『探求Ⅰ』について次のように述べている。

 この本は、題名から知れるように、ウィットゲンシュタインから始まる。その上に、もうつきあうことに辟易している、マルクスまでが登場する。
 それだのに、この本を読むことが、なぜか快感なのだ。おそらく、この一年ほどに読んだ本のうち、もっとも引きこまれた本のひとつだろう。
 ウィットゲンシュタインの言語学批判と、マルクスの経済学批判とに、同型な構造を見る、その場所のゆえかもしれない。しかし、それだけではあるまい。
 すごく明晰な論理はこびなのに、半分も読んで行くと、どこへ持って行かれるのか、いくらか不安になる。キルケゴールとか、レヴィナスとか、ぼくのもっとも苦手とする思想家どもが、現われはじめることになる。それに、数学論とドストエフスキー論とが入り乱れると、数学少年と文学少年のはさみうちに合うときのことを連想する。

 およそ毛色の違う二人がこのように評価している。「快感」は「知的スポーツとしての快感といったようなもの」である。それは元『群像』編集長渡辺勝夫が育てた批評家の相関性への意志に由来する。この「快感」が後発世代を生み出した一つの理由であろう。

 この引越し魔の批評家の日本の文芸批評における最大の功績は読解の主眼を因果関係から相関関係への転換させた点である。彼の登場により、文芸批評の扱える引用範囲が格段に広がっている。多くの後発の批評家がこの方法をとり入れ、それが一般化する。

 東京大学大学院英文科修士課程修了者自身も、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」の中で、相関性への意志を次のように告げている。

 本書には、マルクス論とともに、日本文学に関するエッセイを入れている。私はそれらをすこしも区別していない。文学はあいまいで、哲学は厳密だなどということはありはしない。哲学も結局は文学、すなわち言葉にほかならない。

 マルクスを読むように、私は漱石を読んできた。つまり、マルクスも漱石も、けっして私が「研究対象」として選んだものではない。厭になれば読まないし、たとえば漱石については、もう書く気がしないと公言していた次期もある。ところが、どういうわけか、そこに戻ってくる、それらは、私が折りにふれてたちかえり、自分の思想を確認するテクストであるだけではない。むしろ、それらを「読む」ということをおいて、私の「思想」なるものは存在しないのである。しかし、なぜそれらが特権的なテクストとして選ばれているのかは、私にはわからない。

 「思想」」を使っていることに注意が要る。形而上学の作品は理論を語り、文学のそれは思想を体現する。理論は一般的・抽象的概念を用いた形而上学的・科学的論議である。一方、思想は個別的・具体的表現を使った構成的・芸術的表象だ。形而上学の作品も思想として読むのであれば、確かに、文学と同様に扱える。

 夏目漱石と思想史上の巨人を平行して読むことは、因果関係に拘泥しているなら、不毛にならざるを得ない。東京大学経済学部卒業者は批評を相関関係の記述へと転換する。『日本近代文学の起源』で、かの文豪の『文学論』をとりあげ、ロシア・フォルマリズムとの類似性を指摘するが、両者の直接的な影響関係はない。江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』のように、影響を実証してきた従来の批評家であれば、これは触れるべき話題ではない。元ブントの批評家は時間的な順序にのみ囚われてきた日本の文芸批評を空間的に広げる。

 作品を歴史的に検討するアプローチは大きく三つある。第一は作品が生み出された時代的・社会的・個人的背景を探るものである。第二は批判や継承など影響に基づき作品を系統づけていく文学史として論じる者である。第三が直接的な相互作用はないけれどもあるテーマを通じて系譜を描く者である。ミシェル・フーコーやフィリップ・アリエスらのある概念が決して自明ではなくある特定時期に誕生したという知の考古学もこれに含まれる。夏目漱石の小説のタイトルと同じペンネームはこの系譜学的アプローチを中心にとっている。

 その相関性を展開するための理論的基礎として数学を援用する。カール・マルクスとフリードリヒ・ニーチェやジクムント・フロイトの相関性を論じているものの、『マルクスその可能性の中心』では数学に関する記述がさほど見られないけれども、『隠喩としての建築』や『内省と志向』からその傾向が顕著になっている。『内省と遡行』においても、現象学の開祖が数学者だったことを重視し、そこから議論を展開している。

 ただ、相関性を論じたのは彼が最初ではない。吉本ばななの父は、『言語にとって美とは何か』において、『資本論』の方法を言語分析に使っている。六〇年代のスーパースターの正統な後継者はそういった手法を拡大応用したのであり、それには「普遍学」としての数学を必要としている。

 二〇世紀、数学は、法則性が見出せるいかなる学問領域にも基礎付けとして用いられている。クロード・レヴィ=ストロースの文化人類学、ノーム・チョムスキーの普遍文法、ジャン・ピアジェの発達心理学、イアニス・クセナキスの推計(ストカスティック)音楽は数学なしには考えられない。

 さらに、意識していないとしても、構造主義以降の思想家たちの方法は数学によって形式化できる。ミシェル・フーコーはルベク積分であり、ジャック・ラカンは複素関数である。ラカンは精神世界を「現実界(le reel)」・「想像界(l'imaginaire)」・「象徴界(le symbolique)」と区分している。

 「虚(imaginary)」は、「実数(Real Number)」と「虚数(Imaginary Number)」の関係が示している通り、リアルの反意語である。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではなく、「名目(nominal)」が相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。

 数学では、記号は「シンボル(Symbol)」と呼ばれる。ラカンの図式はこの虚数をめぐる数学の世界のアナロジーで語られるべきである。付け加えるならば、ベネディクト・アンダーソンが一九世紀に普及した国民国家を「想像の共同体(Imagined Community)」と定義したけれども、「虚の共同体(Imaginary Community)」とすべきであり、その上で、現代社会は「ヴァーチャルな共同体(Virtual Community)」るる。ジル・ドゥルーズは微分方程式、ジョナサン・カラーは『ディコンストラクション』においてジャック・デリダの脱構築を不完全性定理との類似を指摘しているが、むしろ、差分方程式であり、ポール・ド・マンは偏微分の手法と見なせよう。

I’m in love with Jacques Derrida,
Read a page and I know I don’t need to,
Take apart my baby’s heart.
I’m in love

To err is to be human, to forgive is to divine,
I was like an industry, depressed and in decline.

Here comes love forever
And it’s here comes love for no one
Here comes love for Marilyn
And it’s all my baby, all my baby, what are you gonna do?
In the reason in the rain
Still support the revolution
I want it, I want it, I want that too,
But baby, but baby, it’s up to you
To find out something that you need to do, because…
(Scritti Politti “Jacques Derrida”)

構造主義は積分、ポスト構造主義は微分の技術に基づいているという点で、両者の関係は表裏一体である。元イェール大学客員教授は本格的に数学を日本の文芸批評に導入した初めての批評家であるが、彼の試みはこうした世界的な流れと相関関係にある。

Brush up on my field work
Better brush up on my field work
Gonna get my fingers dirty
Better brush up on my field work

One thing I need
Is to understand this jungle
Before I can untangle
The part of me that's fungoid
Was a hundred and three
When the world was still a baby
But instinct's an equation
You could program in an android

Brush up on my field work
Better brush up on my field work
Gonna get my fingers dirty
Gonna brush up on my field work

Somewhere inside
There's a place where we can travel
A code we could unscramble
A riddle to unravel

Brush up on my field work
Gonna brush up on my field work
Gonna get my fingers dirty
Gonna brush up on my field work

Somewhere inside me
Are the caves of Iwo Jima
And the sands of Arizona
Better brush up on my field work
(Thomas Dolby & Ryuichi Sakamoto “Field Work”)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み