第7章 武士道とキリスト教

文字数 1,124文字

7 武士とキリスト教
 室町時代の終焉後、17世紀ごろからさまざまな方法によって武士の存在意義は理論的に正当化され始めるが、武士道はその一つである。キリスト教も、一時期、有力な規範道徳として機能している。戦国末期から江戸時代初期にかけて、数多くのキリシタン大名が出現する。

 1563年、肥前の大村純忠が最初に洗礼を受け、他には、大友宗麟、有馬晴信、高山右近、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らが知られる。キリシタン大名は、ローマ字の印章や十字架あるいは聖像の旗印などを用い、領内の神社・仏閣を破却したりもしている。短期間のうちに、西日本にとどまらず、東北地方にもキリスト教徒の武士が現われている。伊達政宗は、1613年、単独で家臣の支倉常長をスペインやローマに使節として送っている。1587年、豊臣秀吉は伴天連追放令を出し、江戸幕府も1613年にキリシタン禁制を厳しくしたため、多くは改宗している。ただし、高山右近は、領地を没収され、1614年にはマニラへ追放となっても信仰を貫いている。

 なお、長崎県の生月島・平戸島・五島列島・外海などの間に居住する隠れキリシタンに今日まで伝承されてきた「オラショ」、すなわちラテン語と日本語による祈祷は、世界的に見て、貴重な史料である。「オラショ」はラテン語の「祈り (orazio)」の転訛であり、特に、生月島には唱えるだけでなく、歌う「歌オラショ」がある。

 反宗教改革を目的としたトレント公会議(1545~63)後の典礼刷新の中、ローカルな典礼・聖歌は200年以上続いたものを除いてすべて廃止し、カトリック教会ではローマ式典礼とグレゴリオ聖歌の採用が勧告されている。ローカルな典礼・聖歌の多くは、以降、ヨーロッパでは史料として散逸してしまい、いかなるものだったのか部分的に不明になっている。

 ところが、イエズス会士による日本への布教はこの公会議と並行していたため、彼らが伝えたのはイベリア半島のローカルな典礼・聖歌であり、多くの研究者によってオラショはその失われた祈祷だと確認されている。つまり、ヨーロッパの失われた文化を知るのに、日本の伝承が助けになっている。

申し上げ
でうす・ぱいてろ
万事かないたもう
うらうら
天にまします
がらっさ
けれんど
あわれみのおん母
十のまだめんと
さんたえけれじゃのまだめんと
根本七悪
七つの善
さんたえけれじゃのさからめんと
慈悲の所作
べらべらんつらんさ
万事かないたもう
みぜれめん
御からだまき
きりやれんず
ぱちりのちり
あめまりあ
いにてすぺりんと
十五くだり
敬いて申す
十一ヶ条
ぱらいぞ
らおだて
なじょう
まにへか
べれんつす
ぐるりよざ
たっときは八日の七夜の
ぱらいぞのひらき
でうす・ぱいてろ
(『歌オラショ』)
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