第1章 思いつきと思いこみ

文字数 5,159文字

Lost Samurai
─新渡戸稲造の『武士道』
Saven Satow
Aug. 31, 1993

「私は、日本に大和魂があると聞いて、それを学ぼうと楽しみにやってきた。だが、残念ながら大和魂はどこにもなかった。凡打だと、笑いながら一塁へ走ってくる選手がいた。私は、その選手をぶん殴ってやりたかった。大和魂のために…」。
ルー・ゲーリック
「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと目を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが英人や独人には決して出来ない。野球は賤戯なり、剛勇の気なし」。
新渡戸稲造『野球と其害毒』

1 思いつきと思いこみ
 映画『ラスト・サムライ(The Last Samurai)』(2003)のヒットにより、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道、日本の魂(BUSHIDO The Soul of Japan)』(1899)が脚光を浴びている。2004年のアテネ・オリンピックにおける日本のシンクロ・チームまで「武士道」をテーマにしているほどだ。新渡戸はこの書を日本語ではなく、英語で書いている。1897年に病気療養を理由に札幌農学校教授を辞職し、翌年からアメリカで静養生活に入っているのだが、その間に、それを執筆している。

 福田恆存は、『反近代の思想』において、明治期、日本が西洋と出会った際、「近代」思想はすでに「反近代的」なものを含み、「明治という時代には、最高の知識人さえ二重の姿勢をとらざるを得なかった」と次のように述べている。

 強靭な合理性と実証主義の精神とに裏打ちされたヨーロッパの近代思想は、この種の浪漫的自己錯誤からは全く無縁であった。真の近代精神は──十九世紀という合理主義の絶頂期においてさえ──近代の毒という煮え湯を飲まされ、それに堪えぬいてきたところに、いいかえれば近代への懐疑を一度通過し、それを克服しようという努力のうちに成立したのだ。逆説的に聞えるかもしれないが、ヨーロッパの一流の近代精神は、つねに、きわめて「反近代的」であった。とすれば、鴎外や漱石や小林秀雄という日本におけるもっとも代表的な西欧的知性が反近代的な姿勢や態度をとらざるをえなかった事情、反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックスは、ヨーロッパにおける以上に切実に納得できるであろう。

 新渡戸も、明治の知識人の例にもれず、「近代」と「反近代」という「二重の姿勢をとらざるを得なかった」と考えることもできよう。『武士道』はたんなる復古主義の書ではない。「近代への懐疑」と同時に「近代」を「克服しようという努力」を含み、「反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックス」を体現していというわけだ。「この頃やけに武士道に人気があるけれど、不思議だと思う。最近、司馬遼太郎を読み直してみた。ナショナリストが司馬さんを持ち上げているけれど、あの人は基本的に町人だ。武士は単なる美意識。形は武士で、実質は町人だ。仔細にみると、商品流通の世界に味方していて、武士道イデオロギーには批判的だ。それに例えば日本人は外来種から来ていると、その点ではかなりコスモポリタンだ」(森毅『世の中がどう変わっても大丈夫、若者よ希望を抱け』)。

 しかし、この「二重の姿勢」には、新渡戸の場合、父殺しが秘められている。武士道のイデオロギーは、確かに、神の死と矛盾し、「反近代」に属している。けれども、この「反近代」という姿勢は倒錯している。新渡戸容疑者は父殺しのアリバイを偽装している。“You have the right to remain silent and refuse to answer questions. Anything you do say may be used against you in a court of law. You have the right to consult an attorney before speaking to the police and to have an attorney present during questioning now or in the future. If you cannot afford an attorney, one will be appointed for you before any questioning if you wish. If you decide to answer questions now without an attorney present you will still have the right to stop answering at any time until you talk to an attorney”.『武士道』は「反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックス」を描いているのではなく、近代日本の父殺しの指南書である。

 新渡戸は、『武士道』の第一版序において、執筆動機を次のように述べている。

 約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。
 この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行なわれているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである。
 私はド・ラヴレー氏ならびに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかして封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った。
 長病のため止むおえず無為の日を送っているを幸い、家庭の談話で私の妻に与えた答えを整理して、いま公衆に提供する。その内容は主として、私が少年時代、封建制度のなお盛んであった時に教えられ語られたことである。
 一方にはラフカディオ・ハーンとヒュー・フレーザー夫人、他方にはサー・アーネスト・サトウとチェンバレン教授との控えている間にはさまって、日本に関することを英語で書くのは全く気のひける仕事である。ただ私がこれら高名なる論者たちに勝る唯一の長所は、彼らはたかだか弁護士もしくは検事の立場であるに対して、私は被告の態度を取りうることである。私はたびたび思った。「もし私に彼らほどの言語の才があれば、私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを!」と。しかし借りものの言語で語る者は、自分の言うことの意味を解らせることができさえすれば、それで有難いと思わねばならない。
 この著述の全体を通じて、私は自分の論証する諸点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。
 宗教上の問題もしくは宣教師にとき及んだ私の言が万一侮辱的と思われるようなことがあっても、キリスト教そのものに対する私の態度が疑われることはないと信ずる。私があまり同情をもたないのは教会のやり方、ならびにキリストの教訓を暗くする諸形式であって、教訓そのものではない。私はキリストが教え、かつ『新約聖書』の中に伝えられている宗教、ならびに心に書されたる律法を信ずる。さらに私は、神がすべての民族および国民との間に──異邦人たるユダヤ人たると、キリスト教徒たると異教徒たるとを問わず──「旧約」と呼ばるべき契約を結びたもうたことを信ずる。私の神学のその他の点については、読書の忍耐を煩わす必要がない。

 この関係者たちは恐ろしく無知だと唖然としてしまう。無知は無恥に通じる。理論的な関心からではなく、ド・ラヴレー氏ならびに新渡戸の妻のような西洋人に対して自分自身を告げるという私的な動機から彼は『武士道』を書き始めている。しかし、この記述が明らかにするのは新渡戸ならびにド・ラヴレーの道徳教育に関する無知である。

 東アジアにおいて道徳教育は必ずしも宗教に依存していない。この地域で広く道徳として受容されてきた儒教は宗教ではない。そもそも、宗教にはそれ固有の教えと他の宗教でも見られるものが混在している。モーセの十戒のうち、1から4まではユダヤ教固有の戒めであるが、五から十までは他の宗教にも認められる。前者を宗教、後者を道徳と捉えて分離すれば、宗教に依存しない道徳教育は十分に可能である。

 実際、1879年からフランスではジュール・フェリーによる教育改革が進められ、道徳教育から宗教の分離が行われている。革命によって近代の政治社会が始ったフランスは政教分離が厳格である。その理念に忠実に、道徳教育からも宗教色を除外している。欧州でも宗教を抜いた道徳教育がすでに実施されている。新渡戸にしろ、ド・ラヴレーにしろ、道徳について深く考えたこともなく、またフランスの試みも知らず、思いこみだけで議論していたというわけだ。『武士道』の執筆動機はナンセンスである。

 ただ、この序文は当時の日本と西洋の関係を反映している。「白人の重荷」を背負い、世界に文明を啓蒙化させる使命を抱いた西洋人の眼には、自分たちの常識以外は奇異としか映らない。新渡戸が「借りものの言語」である英語で書くことによって、「弁護士もしくは検事の立場」ではなく、「被告の態度を取りうる」と言っている通り、東洋人は、先進を自認する西洋人に対して、自らの常識を説明しなければならない。カール・マルクスの『資本論』にさえも言及し、「封建制の活きた形はただ日本においてのみ見られる」と記したマルクスと同様に、「西洋の歴史および倫理研究者に対して、現代日本における武士道の研究を指摘したいと思う」と書く新渡戸は、彼らにわかりやすいように、武士道を世界的なコンテクストの中で相対的な一つの思想として論じる。

 新渡戸は、ウィリアム・シェークスピアや『旧約聖書』などを引用しつつ、「切腹」を「法律上ならびに礼法上の制度」であって、決して野蛮で特異な行為ではないと説明する。もっとも、それは強引なこじつけだ。「腸を刺した程度では、苦しいだけで容易に死ねない。時代劇の切腹に介錯がつくのも、腹を切っただけではすぐに死なないからだ。切腹だけで死のうとすると、腸を切って、さらにその奥の背骨の前を通っている腹部大動脈まで切断しないと死ねない。余談だが、池波正太郎の時代小説を読むと、首の頚動脈を切られて即死した、という描写がよく出てくるが、頚動脈を切られると頭に行く血液が極端に少なくなるので、意識はすぐになくなるだろうが、死ぬまでには何分かかかるだろう」(支倉逸人『検死秘録』)。なお、中世において、インドやスリランカの戦士階級も切腹をしたことが知られている。

 近世以前、切腹は、入水などと同様、武士の自決方法の一種にすぎず、江戸時代に刑罰と明確に位置づけられてから様式化している。天下泰平の前の武士は敵に捕まるくらいなら自決を選んでいただけで、黒澤明の『七人の侍』で触れられている通り、戦に負けても生き延びて、身を潜め、再起を図るケースも多い。

 そもそも、元々武士の魂は刀ではなく、『平家物語』の中での那須与一のエピソードが示しているように、弓である。実践において、刀よりもはるかに弓の方が強力な武器であり、多くの社会と同様、中世の日本でも弓こそ戦士を表わすものとされている。平安時代の戦には、決められた順番がある。まず、声の届く距離でお互いに相手を罵倒する言葉合戦を行い、次に、離れたまま弓を射ち合う弓合戦と進み、最後に全軍突撃して白兵戦に突入する。白兵戦においては、武士は長い刀を交えるのではなく、鎧の隙間から短刀を刺すという戦闘方法をとる。刀が武士についての象徴的な意味を帯びるのは、江戸時代に入ってからと考えるべきだろう。

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