第5章 『武士道』と教育勅語

文字数 2,947文字

5 『武士道』と教育勅語
 『武士道』を読む限り、苛立ちを覚えるほど、新渡戸はこうした東アジア文化圏に関する知識をほとんど持っていなかったと推察できる。中華文化圏の中の日本という観点が新渡戸にまったくないのには、当時の歴史的・社会的背景に起因している。

 欧米人の中国人に対する感情は、この時期、よくない。19世紀、ゴールド・ラッシュなどによって中国人がアメリカに渡り、合衆国各地にチャイナタウンを建設している。彼らは「上海さん(Shanghai)」と呼ばれ、ドラッグにかかわっているという偏見に基づいて差別されている。1880年代には、パックス・タタリカのモンゴル人に譬えられ、カリフォルニアで、「黄禍論(Yellow Peril)」が唱えられ始めている。

 しかし、アメリカを代表する文化のジャズの誕生には中国人も欠かせない。ニューオーリンズで、ヨーロッパ文化とアフリカ文化、ラテン・アメリカ文化だけでなく、中国人が持ちこんだ東アジア文化が融合して、ジャズが生まれている。付け加えるならば、2世紀に入ると、中国人だけでなく、急増する日本人移民も差別されるようになっている。もっとも、今の日本にも同様の偏見を持って居る人が少なくない。「中国人の不法滞在者が起こす犯罪があまりに多い。中国の政府がどう認識しているか知らないが、水爆を作っている国を援助するくらいなら、その分を東京の治安、中国人犯罪対策に回した方がよほどましだ」(石原慎太郎)。

 新渡戸は、『武士道』において、執筆時の状況を次のように言っている。

 日本の変貌は全世界周知の事実である。かかる大規模の事業にはおのずから各種の動力が入りこんだが、しかしもしその主たるものを挙げんとすれば、何人も武士道を挙ぐるに躊躇しないであろう。全国を外国貿易に解放した時、生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、また西洋の政治および科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源の開発や富の増加ではなかった。いわんや西洋の習慣の盲目的なる模倣ではなかった。

 日本の名が本格的に世界に知られるようになったのは日清戦争の勝利によってであり、それをきっかけにして、欧米から主権国家として扱われるようになる。半植民知的な不平等条約(1858年の安政五ヵ国条約)が完全に改正されるのは──領事裁判権は1894年に改正されていたけれども、関税自主権の問題が未解決──、『武士道』が公表されてから12年後の1911年(明治44年)である。新渡戸は武士道を「日本の変貌」の「精神的原動力」としているが、「動力」があったとしても、それが働く構造がなければ、力は力として機能しない。武士道か明治のこの時期に発見されるのは、必然的な構造がある。

 1889年(明治22年)に憲法が公布され、翌年には教育勅語が発布される。学校は近代化のイデオロギーを布教する教会であり、学校における道徳教育は最大の争点として今日に至るまで続いているのだが、新渡戸はまったく触れていない。1879年頃、近代化を進める下級武士と天皇と共にやってきた宮中派は教育問題をめぐって軋轢が顕在化し、お互いに発言力を確保しようと激しいイデオロギー闘争をしている。両者の妥協によって近代日本の諸制度が成立していく。

 その典型が1890年に下賜された「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語である。政府内のさまざまな権力抗争の後、次第に、保守派が覇権を掌握し、自由民権運動を代表にする民権派はいきすぎた欧化政策によって、文化的混乱をもたらしていると宮中派と共に考えるようになっている。教育勅語が明治維新のイデオロギー、それも立憲制の原則に完全に反していることを起草者である法制局長官の井上毅も承知していたけれども、もともと欧化派に属していた井上も首相の山県有朋に説得され、自ら執筆をかってででいる。

 『官報』に教育勅語が掲載されたが、その際、文部省訓令第八号の付帯資料として2ページ下段から3ページ上段にかけて収められている。重要法案は『官報』の巻頭に載せるべきであるけれども、「政治上の詔勅ではなく君主の社会的著作として性格を与えたため、当然の措置であった」(佐藤秀夫『教育の歴史』)。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ尊ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
(『教育ニ関スル勅語』)

 教育勅語はこのように定義を欠く曖昧な儒教道徳と通俗道徳、皇国史観が混在しているだけでなく、3ヵ月程度で仕上げたやっつけ仕事だったため、文法上のミスまである。「一旦緩急アレハ」と記述されているが、この場合、已然形ではなく、「一旦緩急アラハ」と未然形でなければならない。「教育勅語には非常に悪いところもあったし、とてもいいところもあったはずで、全部だめだったというのはよくない」(森喜郎)。

 「総じて、日本社会の教育理念の根源を『良心』とか『神』とかに求めるのではなく、歴史的存在であると同時に現在の支配構造の要となっている天皇制に求めているところに、この勅語の基本的特徴があったといえる」(『教育の歴史』)。教育勅語は現体制の正当化を理論的な根拠に基づいて訴えるのではなく、まがまがしい神話的な言説を無根拠に並べ立てている。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく、その思いで私たちが活動して三〇年になった。(略)われわれ国会議員の会も神社本庁のご指導をいただきながら、ほんとうに人間社会に何が一番大事なのかという原点をしっかり皆さんに把握していただく、そうした政治活動をしていかなければならない」(森喜郎)。

 教育勅語は新たなる価値を育むためではなく、保守が目的になっている。近代的な法治国家建設を目指した明治維新に反した徳治主義的な教育勅語が道徳の基礎づけを行ってしまう。このフェイクの近代国家は1894年(明治27年)に日清戦争で勝利してしまう。維新以前の日本は大陸からの影響なしには考えられないが、日清戦争の勝利はもはや日本は中国に学ぶものなどないという意識を多くの日本人に与えている。『武士道』はこうした時代の雰囲気で生まれ、教育勅語から決して遠くない「基本的特徴」を持っている。「東京では、不法入国した三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな騒擾(そうじょう)事件すら想定される。警察の力には限りがあるので、自衛隊も、治安の維持も目的として遂行してもらいたい」(石原慎太郎)。

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