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 どうも、西風館保一です。妻が長々と失礼をいたしました。所々私に関する余計な情報が含まれていたようですが、どうかお気になさらぬよう。ここからはきちんとした研究内容に入っていきますので、ご安心ください。

 さて、研究テーマをもう一度振り返りますと『人間の精神を崩壊させる手段とそのプロセス』ということですが「精神を崩壊させる」ということがどういうことかおわかりでしょうか。まずはその定義、つまりは我々が目指したのがどのような状態なのかについてご説明申し上げます。

 皆様は「精神崩壊」と聞いて、何をイメージされるでしょうか。
 
 例えば、全てのことに意義を感じることができなくなり、仕事も勉強もやる気がなくなってしまう。または、自分自身に価値が無いと思い込み、自ら生命を絶つための行動を起こすようになる。幻聴や幻覚が現れる。他者を攻撃するなどの症状を思い浮かべる方もいることでしょう。ですが、我々はそれらを「精神崩壊」とは定義しません。それらは「精神異常」または「精神障害」という、周囲の環境に対する精神の反応に過ぎず、崩壊と呼べるものではないと考えるためです。

 では「精神崩壊」とは、どのような状態を指すのでしょう。日本語の辞書には、実は載っていません。そんな言葉は、元々存在しないのです。ですが、この言葉はなぜか誰もが認知している。元々は、主にサブカルチャーの世界に親しんでいた人たちの中で、精神に異常をきたすことを揶揄して作られた言葉だと伝わっています。それが今や「異常」、「障害」と並んで広く普及するようになりました。その要因について思うところがないわけではありませんが、それは専門家にお任せすることとしましょう。

 さて、ここで皆様に少し考えてみていただきたい。「精神崩壊」という言葉が「精神異常」に陥ることを揶揄したものだという話をしましたが、どうでしょう、その二つはイコールで結ばれるでしょうか。「精神障害」と比較しても構いません。
では次に「精神異常」と「精神障害」を比較してみてください。ついでにもう一つ「精神疾患」という言葉もあります。

 私の言いたいことが伝わったかと思います。そう、それらは似て非なる言葉。全て少しずつ、異なる状態を指している。

 我々は、それぞれの言葉を次のように定義しました。

 「精神異常」とは、精神、即ち人間の思考や感情が正常でなくなった状態。またはその予兆。

 「精神疾患」とは、正常でなくなった精神に対し一定の評価を下し、病気として当てはめたもの。

 「精神障害」とは、精神疾患が長期化または慢性化したもの。もしくはそう見込まれるもの。

 そして「精神崩壊」とは、精神、即ち人間の人間たる部分。思考および感情を正常に保つ能力が壊れ、失われた状態。人間性を失った状態と言い換えることも可能でしょう。

 たまに、精神が崩壊することによって異常が引き起こされるという言い方をされることがありますが、我々の考えとは異なります。それは、精神のバランスの崩壊に過ぎず、精神そのものの崩壊ではありません。現に、精神に異常をきたしていても、人間は人間として活動することが可能であり、自身の感情と思考により行動を起こします。それは往々にして極端であり、時には暴力性を持ち、他者を巻き込む事件に発展することもありますが、その要素が残ることは、我々の本来の目的に反しています。

 我々の最終目的は、人間を物理的な攻撃に頼らずに無力化することです。「無力化」は、抵抗ができないように動きを封じる、と言い換えることもできます。錯乱して襲い掛かられるようでは不足なのです。その手段の一つとして、我々は精神攻撃を取り上げたわけですが、世界では他にも様々な方法が研究されていることでしょう。

 さて、我々が目指した「崩壊」の参考例として、二人の人物を紹介いたします。

 まず一人目は、一九五〇年にアメリカのミズーリ州で死刑判決を受けた四十七歳の男性。彼は七名もの女性を強姦し殺害した凶悪犯でした。供述の内容や態度などから、精神異常者として扱われていたようです。彼の精神が崩壊したのは、判決を受けた二年後。それまではごく一般的な囚人と同様に生活をしていましたが、突如として何も食べなくなったのです。何も話さず、動こうともせず、ただ一点を見続けていたそうです。死刑執行まではまだ何年かあったようですが、その前に他の囚人や看守たちからの暴力で命を落としています。資料が少ないため、原因ははっきりとはしませんが、崩壊後の彼の状態はまさに無力化されていると言えるでしょう。

 この状態を理想として改めて調べてみると、類似の症状に至った例を発見することができました。しかも、こちらは原因を仮定することが非常に容易でした。何故なら、その人物はなんと、この日本に今も生きているからです。

 こちらが、その女性です。さて、彼女は何歳だと思いますか? 髪は完全に白髪、目は落ち窪み、肌もボロボロで皺と弛みに覆われている。この写真では口を閉じていますが、歯も既に五本しか残っていません。

 実は、彼女はまだ四十三歳なのです。このような状態になったのは六年前で、それからずっと、彼女は文字通り、何もしていません。動くこともなければ、物を食べることもない。高齢者となった両親に介護されています。もちろん、話もできませんので、彼女についての情報は、全て両親と離れて暮らす彼女の兄から聞き取ったものです。そこから、彼女の精神を崩壊させた原因らしきものが浮かび上がってきました。

 まず、彼女は先天性の心臓疾患を持って生まれてきました。幼い頃から入退院を繰り返し、何度も大きな手術を受けています。最大で十七カ月もの間病院で生活していたこともあり、子どもにとって我慢を強いられた生活であったことは想像に難くありません。その後、ペースメーカーを埋め込むことにより日常生活はほぼ問題なく送れるようになりましたが、性格は非常に大人しく、遠慮がちで、素直な良い子だったといいます。これには、抑圧された日常が続いたことも原因しているのではないかと考えています。

 大人になった彼女は就職し、三十三歳の時に見合いで結婚しました。三十四歳の時に長男が誕生しており、一見幸せな人生を手に入れたように見えます。しかし、そうではありませんでした。結婚したその年の内に、夫婦関係は修復不可能な段階にまで、まさに崩壊してしまっていたと言います。理由は価値観の違いとしか本人は言わなかったそうです。その時には既に長男を身籠っていて、出産後も一緒に暮らしていたのですが、その子が一歳になるかならないかの頃に突然、夫が子どもを連れて失踪してしまったのです。一年程後になって、夫の親戚の家に隠れていたことが判明したのですが、その時にはもう取り返しがつかず、彼女は裁判でも負けてしまいました。

 子どもを失った母親となってしまった彼女は既に身も心もボロボロでしたが、さらに追い打ちをかける出来事が起こります。以前から患っていた眼病が急激に悪化し、右目は失明し、左目の視力も社会的失明と言われるレベルにまで低下してしまったのです。これには心理的ストレスが大きく関係していることがわかっています。そして、まるでそれに続くかのように、心臓の病気までも悪化してしまったのです。

 立て続けに起こった不幸な出来事によって、彼女の心は壊されていきました。そして、三十七歳のある日、泣くことすらも止めたその日から、彼女は活動を停止したのです。

 我々は彼女の例を参考に、今回の実験内容を決定しました。さすがに先天性の病気を追加することはできませんので、それ以外の要素ということになります。

 まずは彼女と夫との関係です。余計なことかもしれませんが、家族の話では、結婚するまでは恋人と呼べるような人はいなかったようです。まあ、家族が全て把握できているとは思えませんが、彼らの言葉を信じるならば、夫との結婚はまさに「ようやく掴んだ幸せ」だったのだと想像することができます。しかし、それもすぐに終わりを迎えてしまう。彼女はどんな気持ちだったでしょうか。人間は勝手な生き物で、他者に過剰な期待をしてしまい、現実とのギャップにストレスを感じることがあるようです。まさに「期待を裏切られた」形の彼女は、夫を恨んだかもしれません。もしくは、必死に修復を試みたかもしれません。どちらにせよ、精神的な消耗は激しかったでしょう。

 ここから、人間関係の不具合がもたらすストレスを、実験のベースにすることに決定しました。被験者は我々が仕込んだ人物と親友になりますが、信用しきった段階で裏切りを受けます。また、恋人もできますが、こちらも充分な愛情を得た頃に酷い扱いを受け、捨てられてしまう。無論、これらのことだけで精神が崩壊するとは思っていませんでしたし、実際にそうはなりませんでした。慢性的なストレスとしての土台作りと言ったところでしょうか。ただ、内容は多少過激になっていますので、振り返って見れば、我々としても多少の期待をしていたのだと、改めて思うところです。というわけでこれが、実験の第一の柱「裏切り」です。

 続いて二つ目の柱は「理不尽」なのですが、これは先程例に挙げた「崩壊」した女性の両親が「どうしてこの子ばかりがこんな酷い目に合わなければならないのか」という言葉を何度も何度も言っていたことにヒントを得ています。彼女自身が同じように思っていたのか、もしくは現在思っているのかは不明ですが、もし被験者にそう思わせることができれば、これも大きなストレスを継続的に与えることができる。しかし、先ほども言ったように先天性の病気を付加することはできませんし、失明させるなどは肉体的攻撃に当たります。そのため、彼女とは異なりますが、日常生活の範囲で起き得る様々な理不尽な出来事を立て続けに味わってもらいました。一つ一つは小さく、地味な攻撃に見えますが、被験者へのダメージは予想以上に大きかったようです。その時彼が取った行動は、我々の想定を外れたものとなってしまいました。

 次に「未来の喪失」です。これは単純に言えば、病気になって余命宣告を受けるというもの。文字通り、これから何十年と存在するはずだった自分の未来が失われてしまいます。はい、私は先程、病気を追加することはできないと言いました。正確には、病気にすることはいくらでも可能ですが、それは肉体への攻撃となってしまうので、今回の実験にはそぐわないという意味です。ではどうするのか。答えは簡単、騙すだけです。被験者にそう信じさせれば良いだけのことなのです。そう、人の感情や思考を操り、狙った行動を起こさせる。古くから行われてきた、マインドコントロールという手法です。それこそ数えきれないほどの実例がありますが「精神崩壊」を目的として行われた例はありません。

 最後に「心的外傷」、つまりトラウマですが、これは例の女性とは関係ありません。戦争から戻った多くの兵士が精神疾患に罹ったという話を耳にしたことがあるかと思います。手法としてはシンプルで、被験者の周りで大勢の人が死にます。生き残るのは彼だけ。しかしそれでは「崩壊」には至らないでしょう。下手をすれば、九死に一生とか、とてつもない幸運と捉えられてしまう可能性もあります。そこで少し細工をしました。疑う余地なく、被験者の所為で、その惨劇が起こったという状況を演出したのです。具体的にどのような方法だったのかは、後のお楽しみとしておきましょう。

 以上の四つを柱とし、我々は被験者に精神的な攻撃を続けました。実験期間は彼が大学生になってからの一年半。彼はよく眠れない日も多かったようですが、我々も進行管理やデータ採取、記録整理など、文字通り「寝る間も惜しんで」研究に勤しんで参りました。何より、彼にとって我々は両親です。距離が近い分、疑問を持たれないようにすることが大変でした。

 はい。「寝る間も惜しんで」というのはジョークです。妻が私の話は固すぎると無理矢理挿し込んだものですが、楽しんでいただけたでしょうか。

 それでは、それぞれの実験の内容に入っていきたいと思います。
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