実験その二「恋人の裏切り」

文字数 7,135文字

 信頼していた人物からの裏切りが、精神に多大なダメージを与えることは明白でしたが、それがどれくらいの威力を持つかについては、その人物とどのような関係であったのかに大きく左右されてしまいます。

 成島は、結果的には相当なダメージを与えることに成功しましたが、我々は当初、彼がそれほどの能力を持っているとは思っていませんでした。故に、もう一人「裏切り」という攻撃を行う人物を用意していました。

 それが彼女、沖田楓です。年齢は被験者と同じ十八歳。身長155センチメートル、体重41キログラム。この写真は我々と出会った当時のもので、若いのに既に疲れ切ったような表情をしていて、言っては悪いがとても老けて見える。しかし、素材は悪くはありません。実際に肌や髪のケアをして、服装を変え、化粧を施せば、少し大人びた素朴で純粋そうな女性に変身しました。それが、この写真です。どうです、なかなか可愛らしいでしょう。

 彼女も成島と同じく、心に闇を抱えて生きていました。そんな彼女が我々に望んだこと、それは、父親の殺害でした。しかし、ご存知の通り我々が殺人を犯すことは相当に難易度が高い。少し困りましたが、一連の実験に組み込むこととして、交渉を成立させました。

 もちろんリスクが大きいことは承知の上です。しかし、彼女が父親を殺したいと願う理由を聞いた我々は、その父親は生きていてはいけない人間だと判断しました。

 彼女の父親は、母親を殺害し、その処分を楓にも手伝わせることにより、彼女の心を拘束していました。それだけではなく、娘に働かせて、自分はその金で毎日朝から晩まで酒を飲み、挙句の果てには性的虐待までも行われていました。彼女はこれまでに、二度も父親の子を堕胎しています。我々は契約成立後即座に彼女の身柄をI県に移し、保護しながら、実験に必要な教育を施していきました。彼女が十七歳の時です。

 彼女は元々、O県に生を受けました。父親は小さな町工場の工員として働き、母親はパートで家計を支えていました。お金はなく、人形も買ってもらえなかったけれど、あの頃は幸せだったと、楓は話しています。

 しかし、その工場が倒産してしまってから、少しずつ歯車が狂っていったそうです。元々あまり知能が高いほうではない父親は、社長の情けで雇ってもらっていたようなものでした。加えて気性が荒く、幾つか新しい職場に就職したのですが、数か月の間には全て暴力行為で解雇されています。こんな人間が結婚して子孫を残してしまうのですから、恐ろしいことです。

 次第に父親は働く気を失くし、酒に逃げるようになりました。母親はパートに加え夜間の水商売の仕事も始めましたが、それでもままなりません。ついには、金銭と得る代わりに、客と関係を持つようになります。この時、楓はまだ中学二年生。娘のために、母親は必死でした。

 しかし、それが父親に発覚してしまいました。逆上した父親は、母親と一緒にいた男性客を自宅に拉致し、楓の目の前で、その男と母親を殺害します。

 楓は泣く暇もなく父親に脅され、死体の処分を手伝わされました。車でどこか遠くの山に行って、埋めたそうです。中学三年生の秋でした。その時の記憶を語る彼女の音声をお聞きください。

「お母さんを埋めるための穴を掘りました。固くなった身体を持って運んで、穴の中に寝かせました。お母さんに土をかけました。男の人は別の山に埋めました。お父さんがスコップで殴ったり刺したりしました」

 全く抑揚のない声だということがおわかりいただけるでしょう。その場面を話す時だけは、一切の感情が失われてしまうようです。

 その後彼女は、頑張っていた受験勉強を止め、卒業後すぐに働かなければいけなくなりました。稼いだお金は酒代に消え、虐待も始まった。彼女の精神はまさに「崩壊」寸前だったと思われます。放っておけば、その瞬間を観察できたかもしれませんが、とても見るに堪えず、保護せずにはいられませんでした。

 そんな彼女と被験者が出会うのは、成島に触発されてアルバイトを始めた九月のことです。たまたま先にそこで働いていた女性、という設定です。被験者はとにかくアルバイトがしたいだけで特にこだわりを持っていませんでしたので、妻がスタッフ募集のチラシを持っていくと、何の疑いもなく働き始めました。もちろん、スタッフは全員我々の仲間で、何も知らない人間は被験者だけです。

 楓は教育係として被験者に仕事を教えながら、我々の用意したシナリオに従って、彼との距離を縮めていきました。傍から見ていると、かなり積極的な女性となってしまいましたが、彼も淡い期待を抱いてアルバイトを始めただけあって、拍子抜けするほどうまく行きました。十月には正式に付き合うこととなり、成島が動き出す二か月の間は、本当に仲の良い恋人同士に見えました。楓自身もそれなりに楽しんでいたようです。考えてみれば、彼女はこのように男性と食事をしたり、映画を観に行ったりするのは初めてのことですので、仕方のないことかと思い、目を瞑りました。

 しかし、被験者に対して罪悪感などを抱き、いざ実行しようという時になって、やはりできない、では困ります。そのため、我々は彼女の父親を生かしておきました。全てが終わったら約束通り父親を殺す。だが途中でやめればまた元の生活に逆戻りだと。彼女には週に一度父親の映像を見せて、そのことを思い出してもらいました。

 さて、来る十二月。成島が裏切りを実行します。傷ついた被験者は、当然恋人である楓に救いを求める。人間は本当に勝手な生き物ですね。相手が現在の自分の状況に都合の良いように反応してくれることを期待してしまう。時には思い通りの反応をしないと怒り出す者もいると聞きます。普段でも、他人が自分の思い通りになることはほとんどありませんが、今回はその可能性すらありません。彼には親友の裏切りによって苦しんでもらう必要があります。恋人に癒してもらっては意味がないのです。

 とは言え、計画では彼女が裏切るのは翌年の五月。しっかりと関係を深めてからのことですので、完全に突き放してはいけない。そこで彼女には「最近忙しくて会えない。バイトにも行けない」という反応を繰り返すように指示しました。

 面白いことに、これは実際の人間社会において女性がよく使う手法だということです。このように返す時というのは、ほとんどの場合忙しくないらしいのですが、男性はそれでも了承してしまうと言います。

 私の見立てでは、これは男性の「女性の言葉に疑いを持つような態度を取れば嫌われてしまう」という心理からのもので、実際は男性も、本当は大して忙しくないことを見抜いています。しかし、だからと言ってどうにかできるわけではない。女性はそこまで読んで、この言葉を使っていると思われます。

 被験者も同様に、彼女に対して疑うようなことはせず、すぐに了承しています。その時のメッセージのやり取りがこちらです。驚くべきことに、彼は、忙しいという彼女を心配していることを表現した内容のメッセージまで送っていました。自分の心が傷ついているのにも関わらずです。

 本当は、すぐにでも彼女に会って、自分の正当性を主張した上で、成島から受けた仕打ちについて、そして彼自身がどれほど傷ついたかについて、爆発させたかったはずです。これを見た時に、我々は人間の心の強靭さを再認識しました。そして、恋人という第二の裏切りを計画したことが正しかったと確信しました。

 年明けには、実験その三で述べる「理不尽」が次々と彼を襲いますが、楓には月に一度、短時間しか会うことを許しません。彼女はこのタイミングで急にアルバイトを辞めますので、日常的に顔を合わせることはもうなくなっていました。たまにしか会えない彼女の前で、被験者が弱さを曝け出すことはできませんでした。誠に、人間というのは愚かで、強い生き物です。

 そして三月、久しぶりにしっかりとしたデートをさせました。身も心もボロボロの彼にとって、一時の安らぎです。この日の夜、楓には被験者を誘惑させ、初めて関係を持たせました。そして、被験者にずっと一緒にいるという約束をさせます。もちろんこれはその後の悲劇をより強調するための演出です。この直後、彼は原因不明の病により、余命宣告を受けることになります。思い描いた楓との将来は、消えて無くなってしまったのです。

 被験者はそのことを、すぐに彼女に伝えようとしました。しかし、連絡は取れない。電話にも出ず、メッセージも未確認のままにしました。被験者は焦りましたが、彼女の家も知らないことを思い出し、どうすることもできません。一人で悩み、苦しむことになります。

 さて、被験者は二年生になり、五月を迎えました。大学は未だ停学中。アルバイトは無断欠勤が続いていました。そこに、職場から連絡があります。今さらと思いながらも応じると、とにかく荷物を取りに来いと言われる。しかたなく向かったその先で、彼は、恋人の裏切りを目の当たりにするのです。

 彼がアルバイトをしていたのは、町のスーパーマーケットでした。従業員は六名。楓と被験者は、マシンオペレーターの仕事を行っていました。ちなみに時給は千五百円と、かなり安く設定しています。さらには、彼はある失敗によりスーパーに多額の借金をすることとなりますので、実質無賃労働の状態が続いていました。そのことについては後程お話しましょう。

 スーパーの裏口から入り、事務室を目指します。しかし、店長はそこにはいません。端末の前には仕入れ担当の坊内というスタッフに待機させておき、被験者に対してこのように伝えます。

「店長? 休憩室にいるぜ。こっそり覗いてみな。面白いものが見られるからよ」

 できるだけ、下品に見える笑顔で言わせました。「にやにやしながら」という表現が当てはまるでしょう。

 被験者は事務室を出て、通路の奥にある休憩室へと向かいます。都合の良いことに扉は少しだけ開いていて、薄暗い廊下に明かりが漏れていました。また、何かの音、いや、声が聞こえてきます。近づくにつれ、その声は鮮明になっていく。それは、女性の喘ぎ声でした。しかも、彼の記憶に未だ生々しく残る、楓のものです。

 この時の映像をご覧いただきましょう。

 我々は、怒った彼が勢いよく扉を開けて室内に飛び込んでいくものと想像していましたが、その予想は外れました。一度は素早くドアノブに手を伸ばすのですが、なぜかそこで動きが止まります。そして、そっと中を窺ったのです。

 いかがでしょうか。この行動については謎が多く、未だにはっきりとした結論を得ていません。最も多かった意見は「やはり情事を観察したかったのでは」というものでしたが、私はどうも違うのではと考えています。今回の実験内容に関係はありませんが、興味深かったので紹介させていただきました。話を元に戻します。

 時間にして三秒間、中の様子を窺った被験者は、扉を開けて中に入りました。気が付いた楓は悲鳴を上げ、シーツを纏い店長の後ろに隠れます。

 店長はやはり「にやにやしながら」被験者に言います。「なんだ、いつも愚図なお前がこんなに早く来るとは思わなかったぜ。だが丁度いい。わかっただろ? 彼女は俺の女なんだよ」

 被験者は混乱しながらも、楓に優しく語りかけます。「楓、一体どういうことなんだ? あれから全然連絡取れなかったから……」その後は言葉にならないようでした。

 楓は何も答えず、ベッドの陰にうずくまっています。

「だから、お前がしつこく迫るから困ってたんだろうが。少し優しく仕事を教えたらすぐ調子に乗って、飯やら映画やらに誘ったそうじゃねえか。なあ、楓」店長はゆっくりと服を着ながら立ち上がります。

 しきりに頷く楓に、被験者は絶句したまま動けません。店長は……ああ、紹介が遅れてしまいました。この店長は六角と名乗らせていまして、今回の実験では重要な役回りを二つ与えています。一つはこの店長の六角役。もう一つは、後程登場しますのでお楽しみにしていただきたいと思います。どちらも相当な演技力が必要ですので、我々の中では最も能力が高い彼を指名しました。どうです? 楓の演技も見事ですが、彼も負けてはいないでしょう?

 六角はゆっくりとした動きでカーテン付きのパーテーションをベッドの側に運び、楓をそこに隠すと、彼女の服を優しく手渡します。そして、被験者に向き直り、薄く微笑む。完璧な演技でした。

「さて、西風館。お前おかしいと思わなかったのか? なんで俺たちが突然お前に厳しくなったのか。頼まれたんだよ。お前がしつこくて怖いから、辞めるように仕向けてくれってな!」

「嘘だ!」被験者は思わず叫びました。無理もありません。愛していた彼女が自分を裏切るなど、到底信じられないのが人間の心理です。「だって、だって君はあんなに楽しそうにしていたじゃないか」カーテンの向こうにいる楓に呼びかけます。しかし答えはありません。

「楽しんでたふりだよ、ふり。断っても断っても誘ってくるし、職場で変な空気になるのも嫌だったから、仕方なく付き合ってたんだってよ。っていうか、まさかお前、楓に手ぇ出してねえだろうな?」

 被験者は答えられません。

「出したのか! おい楓、本当か!」

 ここでようやく楓の台詞となります。「嫌だって言ったのに、無理やり……」彼女の消え入るような声が、カーテン越しに聞こえてきます。

「楓!」被験者は叫びました。しかしその声で楓が怯えていることも認識し、さらに混乱を深めます。

「おいてめえ。何してくれてんだよ!」

 六角は静かに被験者に近づき、胸倉を掴みました。

「婦女暴行で警察に突き出してやろうか! ああん?」

 ここまで来れば、被験者はもう茫然自失。虚ろな目で「楓……」と小さな呟きを漏らすのみ。

「西風館さん、あなたがいると、私ここで働けないんです。お願いします。出て行ってください。そして、ここにももう買い物に来ないでください」パーテーションから出てきた楓が丁寧に言い、深々と頭を下げるのを見て、ついに被験者は座り込んでしまいました。

「ほら、荷物は事務室にまとめといたから、さっさと持って帰れや。それから、辞めたからって借金は消えねえぞ。毎月ちゃんと払えよ。いいな!?」六角は動けずにいた被験者を立たせて外に押し出すと、乱暴に扉を閉めてしまいます。ここの力加減は相当に難易度が高かったはずですが、六角は見事にやり遂げてくれました。

 被験者はやはりすぐに去ることはできず、その場の壁にもたれながら、じっと暗い廊下を見つめていました。もちろんそれも予想していましたので、六角と楓には演技を続けてもらいます。外にいる被験者に聞こえるように。

 楓が甘い声で被験者を追い返した六角を褒めそやし、六角自身も大威張りで自賛する。

 楓がもう被験者に付き纏われずに安心と言えば、六角はいつでも守ってやると答える。そして、楓の方から、先ほどの情事の続きを願い出、やがて二人が絡み合う声が聞こえ始める。もちろん演技ですので、この時は二人とも服を着ています。

 効果は無事現れました。間もなく被験者は立ち上がり、音もなく廊下を進んで行きました。もしこのままずっと動かずにいたらと思い、背中の温度が二度ほど下がるような感覚を覚えました。もちろん冗談ですが。

 被験者が回収した荷物は、大したものではありません。常備させておいた手袋や衣類など、紙袋一つに収まる量です。取るに足らないもののために、彼は大きなダメージを負うことになりました。事務室に立ち寄らずにそのまま出て行くかと思われましたが、律儀にも彼はその袋を家まで持って帰りました。

 帰宅後の様子は、これまでの中で最も酷い状態、つまりは「崩壊」に近い状態となりました。時系列的には、親友に裏切られ、なぜか理不尽な出来事が続き、余命を宣告されて落ち込んでいるところに、恋人にまで裏切られたのです。

 一切食事を取らず、我々家族とも話さず、ずっとベッドの上で眠ったり、泣いたりしているだけでした。このまま栄養失調に陥って自殺するつもりかと思いましたが、二日後からは、部屋の前に置いた食事を少しずつ食べるようになりました。

 もうほとんど人間としての能力を失っていると言える状態ではありましたが、我々が当初目指した姿とは違います。我々の目標は「何もできない状態」であり、食べること、即ち生きる意思をも失わせることでした。

 生きることもできず、自殺を選ぶことすらできない、ただ生きているという状態を目指してきました。目的達成としては自殺を選んでも成功と言えるかもしれませんが、それはこの研究とは別の問題です。そして現に、彼は自殺を選ばず、生きることを選んだ。人間の精神は強い。想像を遥かに超えていました。

 しかし我々には最後の実験が残っています。六月に起きる、被験者の所為で沢山の人が殺される事件です。

 ああ、ここまで話して、私は構成を誤った可能性があることを認識しました。やはり時系列の方が良かったのかもしれません。このままの流れでクライマックスに突入したほうが、皆さんを楽しませることができたのかもしれない。我々の思考回路は研究のことで一杯なもので、どうもそのようなことに考えが及びません。大変申し訳ありませんが、このまま、当初の予定通り進めさせていただきます。この後の実験その三「理不尽」と、実験その四「未来の喪失」については、内容を少々割愛して説明いたしますので、何卒ご了承ください。
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