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 本日は、私たちの研究報告会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。お時間となりましたので、ただ今より始めさせていただきます。

 本日報告させていただく研究内容は『人間の精神を崩壊させる手段とそのプロセス』です。私たち夫婦は、二十年前にこのテーマをいただき、苦楽を共にしながら、研究に打ち込んでまいりました。今日という日を無事に迎えることができ、万感の想いです。支えてくださった皆様には、本当に感謝しております。

 さて、遅ればせながらで恐縮ですが、簡単に自己紹介をさせていただきます。

 まず、あちらに座っておりますのが、この研究の主任であり、私の夫であります、西風館(ならいだて)保一でございます。

 専門分野は人間心理学、行動学で、一応心療内科医の免許も取得しているようですが、勤務経験はありません。家で研究ばかりしていないで、資格を活かして働いてくれれば、と以前はよく考えておりました。
 
 主な著作には『いくらで人は動くのか。お金と人間の心の関係』、『生育過程の差異による集団的同調への影響』、『死刑囚の心理』、『犯罪に及んだその瞬間、何を考えていたか』という、いかにもなラインナップが並んでおりますが、一番売れたのは『人気芸人の生態 ~なぜ人は笑いを与えることに命を懸けるのか~』というものでした。

 ご覧の通り、偉そうに髭などを蓄えておりますが、家ではよく家事も手伝ってくれる、良き夫です。こんな顔をして、虫が苦手なんですよ。おかしいでしょう?

 さて、この辺にしておかないと怒られてしまいますので、夫についての紹介は以上とさせていただきます。まあ、喧嘩になっても私が勝つんですけどね。

 続いて、私、西風館ちゑと申します。こう見えても一応研究者ということになっておりまして、工学が専門です。暇な時には常に一人で機械をいじっています。ロボットもこれまでに百体くらい作りましたね。夫と息子には人口過多だ、と言われて今は物置に眠っています。

 著作はありません。論文も書きませんので、研究成果と呼べるものはまだありません。その代わり、様々な企業からの依頼をこなして、生計を維持して参りました。ね、あなた?

 無反応のようです。気まずい時には聞こえないふりをするんです。

 私たちは、二十年前に夫婦となり、息子を養子に迎えました。つまりは、これまでの夫婦生活は、子育てと研究に明け暮れた日々だったと言えます。

 忙しい毎日の中で、私は夫のことを徐々に理解し、今では誰よりも信頼しています。おそらく、夫も私を信頼してくれているでしょう。あ、頷いていますね。良かった。

 それでは、早速内容に入っていきましよう。まずは、研究の概要を説明いたします。

 今回の研究は、タイトルの通り、人間の精神崩壊のプロセスを探るものであります。どのような状況下において、また、どれだけの負荷がかかれば、人間の精神は壊れるのか。そのことにスポットを当てたものです。

 手法としましては、ある被験者に対し、様々な心理的ストレスを与え続けました。肉体的ストレス、つまり物理的な攻撃に頼らずに、いかにその精神を崩壊に導くか、それが本研究の大前提となっています。

 肉体への過度の負荷が、人間の精神を酷く歪曲させ、最終的に崩壊にまで至らしめることは、これまでの研究でも充分に証明されている、いわば周知の事実です。そのため、肉体に対する直接的な暴力はもちろんのこと、過度の超過労働や、非合理な作業などが禁止または制限されることとなった経緯についても、皆様ご存知のことでしょう。

 肉体ではなく、精神を対象にしたストレス実験も過去には行われ、実際に精神に異常を生じさせたケースもございます。ですが、これまでのやり方はあまりにも基準やプロセスが曖昧で、はっきりとした結論に至ってはいないと、我々は考えています。

 例えば、ブラジルで行われた実験。これは、眠りに落ちる瞬間に大音量を鳴らし、眠れないようにするというものでした。正直に言いますが、笑ってしまいますよね。これは単なる肉体攻撃に過ぎません。ちなみにこの実験、どれくらい昔に行われたと思いますが? 百年前? 五十年前? いいえ、何と、十三年前なのです。つまり、こういったものまでも、人間は未だ精神攻撃として認識してしまっているのです。
 前置きはいいから、早くその実験の内容を話せ、という声が聞こえてきますが、申し訳ありません、あと一つだけ、過去の例を紹介させてください。

 これは、昨年にアメリカで発表された実験結果です。異なる十の職場から、険悪な人間関係の原因となっている人物をピックアップします。いますよね、どこの職場にも。輪を乱して、自分さえ良ければ、という人。もう死語かもしれませんが、膿とか、癌と呼ばれる人たちですね。そういう人たちを、実験のために用意した企業に出向という形で送り込み、全員を一つのチームに配属させます。もちろん、仕事にならない、ストレスで精神に異常をきたす人が続出する、という結果を誰もが予想するでしょう。しかしながら、彼らはぶつかりながらも、最終的には、一人も欠けずにプロジェクトをなんとか成功させてしまいました。

 実験はそこで終了のはずだったのですが、この後に興味深い出来事が起こりました。なんと、彼らが元の職場に戻った途端、周囲のスタッフに退職者が出たのです。しかも、十社中六社も。

 この実験を行ったマーガレット・デイビス氏は、次のように結論づけています。
『強力なストレス原因である人間の精神は、通常の個体よりも強靭である』
『人間を原因とする環境の変化、とりわけ落差は、人間の精神に多大なダメージを与えることがある』

 失礼とは思いますが、なんだかパッとしませんね。当たり前のことのような気もします。前者は要約すれば「個人差がある」ということですし、後者に至っては、彼らが戻ってきたことが原因なのか判断するだけのデータもありません。

 何が言いたいかというと、人間の精神のみを攻撃してそれを崩壊させるという研究は、まだまだ始まったばかりということです。

 今回の実験では、環境変化によるストレスをできるだけ少なくするように心がけました。特殊な環境下では、そのストレスが大きく、効果が正確に把握できなくなります。ごく一般的な生活の中で、被験者に様々な精神攻撃を与えました。

 まず一つ目は、裏切り。親友や恋人から裏切られた時、人間の心はどのような反応を示すのか。

 二つ目は、理不尽。自尊心を傷つけられ、尊厳を否定され続ける辛い日常に、どれだけ耐えることができるのか。

 三つ目は、未来の喪失。被験者は突然病魔に襲われ、余命宣告を受けます。信じて疑わなかった自分の未来が消え失せてしまうと、人はその後の人生をどのように生きるのか。

 そして最後に、トラウマ。被験者の行動が原因で、目の前で大勢の人が死んでしまいます。その時、彼にどのような変化が現れるのか。
そう「彼」。被験者は男性です。それでは、被験者の詳細について説明させていただきます。

 はい、皆様見えますでしょうか。今見ていただいている、写真に写った男性が、今回の被験者です。名前は西風館友和。そう、私たちの一人息子です。写真を引いていきますと、ほら、私たちの姿も写っていますね。これは友和が十八歳の時の家族写真です。今から二年前になりますね。

 友和の身長は175センチメートル、体重は65キログラム。まさに現代におけるこの年代の日本人の平均身長と体重に一致しています。被験者としては申し分ない体型と言えるでしょう。一応言っておきますが、これはそのように調整したわけではなく、自然生育の結果であり、つまりはただの偶然です。私たちは本当に恵まれていたと思います。

 一方、知能の方は優秀になり過ぎないよう、若干調整を加えました。地元であるI県の国立大学に危なげなく合格することができるレベルです。と言っても、大学のレベルはピンからキリまでありますので、わかりやすくするために、ランキングを表示いたします。この赤字表記になっている「I大学」という大学です。どうでしょう。伝わりますでしょうか。まあ一言で言えば、中の上でしょうか。

 もちろん、その大学を受験するように仕向けました。実験を進めるにあたり、どの大学でも良いというわけにはいきません。彼の行動や反応を把握するためには、私たちの目が届く場所である必要がありました。それに、I県が良い意味で中途半端な環境であることも理由の一つです。人口からすれば東京都が最多ですので、その環境下にある人間を研究するのが今後応用する観点からも良いように思えますが、平均的な人間を作り上げるには外部刺激が多すぎます。その点I県であれば、里山の風景を残しつつ、東京からの風を取り入れ、大きな流れには乗りながらも、独自の文化を守っている。これは、成長過程における劇的な変化、つまりは外的要因が少なく、平均的な人格形成に適していると考えたのです。

 その結論に至った私たちは、すぐにI県に移住し、間もなく入籍しました。友和を養子に迎えたのは、その十日後のことです。

 友和を選んだ理由は、言いにくいのですが、私の独断でした。並んでいる小さな赤ちゃんを順番に見ていって、最も私への反応が良かったのが友和でした。データを見比べていた夫には、研究者として信じられないと言われてしまい、それは私もその通りだと思います。ですが、私が頑として譲らなかったので、夫が折れてくれました。結果的には、大正解だったと思っています。ですよね、あなた?

 頷いています。思い返してみれば、結婚生活において何事も私が優勢という図式は、この時から既に始まっていたのかもしれませんね。いいえ、何でもないですよ、あなた。

 さて、被験者である友和は、私たちの保育と教育を受け、すくすくと平均的に育っていきました。どのような子どもだったのかがわかるエピソードを、幾つか紹介したいと思います。

 まず幼児期ですが、一般的な子どもらしく、甘えん坊でした。夫は在宅していることが多かったのですが、その頃は別の研究で忙しく、朝から晩まで自宅にある研究室に籠っていました。そのため、友和は母親である私にくっついて離れませんでした。ですがその分、時間が空いた時には本当に良く面倒を見てくれて、沢山遊んでくれました。だから、友和は夫のことも大好きだったと思います。そして、そんな夫のことを、私ももっと大好きになりました。

 小学校に上がる頃には、まあ本当に元気ないたずら小僧になっていました。テレビのヒーローごっこやチャンバラ遊びでは、所かまわず自由気ままに走り回って、大暴れでした。虫取りも大好きでよく捕まえて来たのですが、虫が苦手な夫は夏になると動き方が慎重になるんです。逃げ出した虫を踏んでしまわないようにって。

 とにかく色んな物に興味があって、手当たり次第に弄り回して、たくさんの物を壊しました。例えば、枕の中には何が入っているのか確かめて、部屋中羽だらけにしてしまったり、機械を分解して戻せなくなったり。そんな時は叱るチャンスなのですが、私たちにすれば可愛いいたずらなので、あまり効果のある叱り方はできなかったかもしれません。ちなみに基本的に夫は叱ってくれないので、損な役回りは全て私でした。ですが、一度だけ、夫が激怒したことがあります。

 それは小学校四年生の時のことでした。友和と数人の友達は、所謂虐めの対象だった男の子も交えて遊びに行きました。自転車で少し遠くの山まで行って、そこでかくれんぼをすることになりましたが、その山は、初めて入る場所でした。友和たちは、その男の子を鬼にして、数を数えさせている間に山を降り、帰ってきてしまったのです。夕方になってもその子は戻らず、騒ぎは私たちの家にも届いてきました。様子がおかしかった友和から話を聞いて、山に捜索隊が入ることになりました。結局、その子は明け方に元気な姿で見つかったのですが、その報せを受けた瞬間、夫は思い切り友和の頬を叩きました。あの時のように恐ろしく、そして悲しい夫の顔を、私は見たことがありません。友和は泣きながら反省し、その男の子にも謝りました。

 私たちも、謝りました。その男の子と、ご両親に。そして、心の中では、友和に。

 なぜなら、後程私たちが友和に対して行う実験は、それよりずっと残酷なものだったのですから。

 その様な経験をしながら、友和は順調に成長していきました。反抗期もありましたし、思春期にはベッドの下からセクシャルな雑誌も発見することができました。意中の女の子もいたようで、うまく恋と、失恋を経験してくれました。

 初めて彼女ができたのは高校一年生の時。明るくて、とても可愛らしい子でした。家にも何度か遊びに来てくれましたが、素直で礼儀正しい良い子でした。ですが、友和が大学生になったら実験を始めなければいけませんでしたので、一年程経過した頃に別れさせました。

 夫は万が一彼女を妊娠させたらと心配し、即刻別れさせることを主張していましたが、私はそれに反対しました。なぜなら、少し深い関係になってからのほうが、ショックが大きいだろうと思われたからです。友和にはこの後、恋人に裏切られるという実験が待っています。そのためにも、純朴でいてもらわなければなりません。沢山の女性と軽々しく付き合っては別れることを繰り返し、女性慣れしてしまっては、実験による攻撃の効果が薄れてしまうと考えたのです。実際に友和は非常に落ち込んで、その後実験まで彼女を作りませんでした。

 しかし、突然彼女と別れなければならなくなったことに動揺し、落胆しながらも、私たちには心配をかけまいとして、友和は明るく振る舞っていました。本当に優しい子です。

 このように、特に大きな問題もなく、友和は大学生になりました。そして、私たちの実験が始まったのです。

 それでは、ここから実験の詳細に入りますので、夫にバトンタッチしたいと思います。

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