第2話

文字数 9,006文字

 白い部屋の中で白髪交じりの男は写真を見ている。
 僅かばかり疲れを感じされるしかし鋭い目は、写真の中にある些細な違和感も見逃すことがないように何度も何度も同じ場所を往復し、時折視線を外すのは目の疲れやこびり付いた影を追い払うためではなく、机の上に乗っかっている紙を見る為だというのは誰しもが知っている事だ。
 男は再度、白黒の写真に視線を戻して一人頷く。
 そして溜息に似た風に空気の塊を吐き出してから、すぐ近くに座っている人物の方を向いた。
 「うん、特に問題は無いようだね。」
 トントンとレントゲン写真の一ヵ所を叩き、安心する笑みを浮かべて見せる。
 宮古原病院は福森家、祖父母の家から車を一時間ほど走らせた場所にある病院で三笠は術後の経過を見てもらうために定期的に訪れている。
 担当医の宮古原先生は昔、大きな病院にも努めていたらしく、腕は手術を行った大病院からもお墨付きの優秀な医者だ。そんな先生がどうしてこんな田舎の方で開業医を行っているのかは分からないが、そんな事は三笠にはどうでもよい事だ。
 病院に閉じ込めておくのではなく、祖父母の家に泊まる事を賛同してくれた先生。
 それだけで信頼するには十分だった。
 「まだ体を動かすのは辛いかい?」
 「はい。杖を使えば立ったり歩いたりは出来るようになりましたが、それでも直ぐに息が切れるし、喉が苦しくなります。」
 「うん、そうだろうね。でもそうやって動けるようになったって事は、着実に三笠君は元気になっているって証なんだ。何しろ一月前、酷い時はベッドから一人で起き上がるのも難しかったんだから。焦らずじっくり体力を付けていこう。」
 「はい。ありがとうございました。」
 念のためにと宮古原先生はいくつか薬を出すと言った。
 忘れず飲むようにと念を押すのは、自分の判断で薬を飲むのを止めてしまった患者が再び病院を訪れると言う事が比較的多いからだそうだ。
 診察室を出ると三笠は祖父の待つロビーへ向かう。
 そわそわと落ち着きのない皺くちゃの顔は、待ちわびた姿を見ると明らかに安堵したように表情の曇りが取れ、続いて再び思い出したように心配そうな顔に戻る。
 「三笠君、病気の方はその――」
 隣に腰を下ろすと小さな声で祖父が聞いた。
 「特に問題は無いって。」
 「そ、そうか!」
 喜びのあまりこの場に適さない大声を上げたばかりに周囲から、それこそ受付けの方からも視線が集まってしまい、祖父は顔を真っ赤にして伏せる。
 「……それは何よりだ。」
 今度は気を使いすぎているくらいに小さな声。
 この僅かな時間の間にも既に回りの関心は失せていると言うのに、少々気にし過ぎではないかと思わなくもない。
 呼び出しと会計、薬の受け渡しを終えて外に出る。
 薬を見て祖父は話が違うと言わんばかりに困惑していたが、念のためだと何度も言い聞かせることで完全にとは言えないが、それなりに落ち着きを取り戻させることができた。
 車の低い唸り声が体を揺らす。
 エンジンの回る音に対してゆっくりと進む小さな軽トラックは、少し気を利かせ過ぎた冷房のお陰で快適だ。祖父は夏場、空調をあまり使わないので少し肌寒そうにしているが、気を使わなくていいと言っても聞かないのは既に何度も試したから分かっていた。
 我慢できない程なら上に何か軽く羽織るとのことだ。
 道を進むにしたがって車の数は減り、道路はちっちゃなデコボコのある黒から削れて平らになったちょっと白茶けた姿に変わっていく。
 ところどころにある継ぎ接ぎな修復後がつくる凹凸に時折大きく揺られつつ、三笠は徐々に減っていくコンクリートと増えていく緑をボンヤリ眺める。用水路からの水が堰き止められて水の枯らされた田んぼでは湿った土から青々とした稲が力強く立ち、畑の中には既に収穫が終えられた剥き出しの土も見えた。ビニールハウスは濁った輝きを放ち、休憩も忘れて蝶やトンボが飛び回っている。
 「……昨日は。」
 沈黙に耐えかねたように祖父が口を開いた。
 「昨日は、いったい遅くまで何処に行っていたのかな。ああいや、責めているとかではなくて、三笠君が何か楽しい事を見つけたのか気になってね。」
 「分かってる。でも、大したことは無かったよ。ただ少し散歩して、森を歩いてみただけ。」
 「そうか……。」
 再び車の中は沈黙に包まれる。
 道に迷ったとか、お社や黄蘗の事とか、下手に話せばきっと心配させてしまうだろう。
 なら、もう少し落ち着くまで。
 もう少し祖父たちが気を遣わず接してくれるようになるまでは黙っていた方が、きっといい。
 視界の端の祖父は何だか寂しそうだった。
 秘密を仲間外れにされて教えてもらえなかった時のような、そんな顔だ。
 なんだか申し訳なくなり、何か話題を探すように三笠は外を見つめる目を動かす。
 「あ。」
 「どうかしたかい?」
 三笠の視線の先、一枚の壁と屋根だけのバスを待つ場所。
 塗装はとっくの向かいしに禿げて剥き出しとなった板は黒っぽく変色していて、根元の方は草が生い茂って隠されているが腐りかけの部分があることだろう。バス停の看板は屋根の下ギリギリの所にあり、雨の日でも近づきすぎなければ濡れることなく時刻を読み取れるようになっている。
 車の速度を落として三笠と同じようにバス停を見ても、特に変わった場所が見つかるわけでもなく祖父は首を傾げた。
 「アレがどうかしたかい?」
 「あ、いや……バス停のあの建物、木造なんだなって。」
 「そうだよ。やっぱり都会の方では違うのかい?」
 「場所によるけど、金属とかプラスチックの屋根があるところもある。」
 「そうかそうか。やっぱり田舎とは違うんだなぁ。」
 言いたい事とは違う話をしてしまい切り出しにくくなる三笠。
 そのまま車は走り、終わりがドンドンと近寄ってくる。
 祖父は三笠の事を少しでも知ることができて嬉しそうに質問行い、三笠はそれに対して自分の昔の位を思い出しつつ答えた。交差点を曲がり、なだらかな坂道を上り、舗装されていない脇道が増えて、いよいよ福森家の建物が姿を現す。
 敷地へ徐行して入り、車は駐車スペースへ。
 エンジンが回転を止めて静寂が訪れる。
 「着いたぞ。」
 祖父の言葉で扉の取っ手へと手をかけた。
 しかし、中々出ようとしない三笠の姿に祖父は首を傾げる。
 「じいちゃん。」
 「なんだい?」
 「僕さ――釘が打てるようになりたいんだ。」
 祖父は驚いた顔をする。
 「何か欲しいモノが? それならおじいちゃんが作ってやるぞ。」
 「そうじゃなくて、できるようになりたいんだ。」
 「それは何でまた……。」
 「別に大した理由じゃないけど。でも、そういうのは一人でも出来るようになりたいから。」
 ダメかな、そんな気がして逃げるように扉を開こうとする。
 しかし、その手は「そうか!」と嬉しそうに張り上げられた声で止まった。
 振り返るのと、やる気に溢れた祖父の顔が少し怖いと感じるのは同時だった。

 別に難しい事はない。
 祖母が何事かと最初に顔を出したときに三笠の前で釘を適当な廃材に容易く沈めて見せた祖父はそう言っていたし、見た限りはどこも難しそうには見えなかった。
 だが現実は何とも厳しいものだ。
 十本目にもなろかという、折れ曲がり中ほどまでしか木に刺さっていない釘をみて三笠は大きく息を吐く。別に嫌気がさしたからではない。その方が余計な力が抜けるからだと祖父が言っていたので実践したのだ。
 釘の一番先をほんの少し板に差し、それを摘まむようにして支える。釘の大きさはせいぜい人差し指の半分程度、普通の大きさだ。一番上の平らな部分に軽く金槌を当てるようにほんの少し叩き、先の方が板に沈み込んでいくのを指に感じる。間もなく訪れた釘の太い部分に差しかかると、もう簡単には奥へ入って行かない。ここから先は金槌にそれなりの力が必要だ。
 指を離して先ほどより振りかぶりを大きくし、一点を目指して振り下ろす。
 「それじゃ上手くいかないよ。もっとこう、手首を柔らかく使うんだ。」
 釘に当たりもせず板の表面をへこませただけの三笠に、祖父はそうアドバイスをした。
 同じ事を既に三回も言われているが、それはつまり自分が注意されても直せていないと言う証拠だ。
 まだ釘は曲がっていない。
 深めに息を吸って、緊張も巻き込んで吐き出すように一気に肺の空気を押し出す。
 軽く金槌を持つ手首を振ってみて、こんな感じかと素振りを行ってからいよいよ目の前の釘に視線を向けた。
 ここに振り下ろすのだ。
 そう言い聞かせるように金槌を釘の頭に当てる。
 それから少しだけ腕を上げて、金槌を持ち上げるように手首を無理のない範囲で曲げ、自然落下に任せるように振り下ろす。
 カン、と気持ちの良い音が聞こえて釘が数ミリ沈み込んだ。
 曲がってもいない。
 小さな成功に安堵するも、まだ一回目で喜べる段階ではない事は何も言わず見守っている祖父の姿からも明白だ。
 再び集中して、同じ要領で二度三度と釘を打っていく――。
 「綺麗に出来たじゃないか。」
 祖父に褒められた釘は確かにしっかりと木の板に打ち込めていた。しかし、お手本である祖父のものと比べると少し傾いて出っ張ってしまっているのと、板にへこみが出来てしまっている点から見栄え悪い。
 素人ならこんなものなのだろう。
 そう自分に言い聞かせて、後ろ向きになりそうになった気持ちを抑え笑顔を作って見せる。
 「少し休んだらどうです?」
 そう提案したのはお盆を持ってきた祖母だ。
 二つの湯飲みからは湯気が立ち、一口大に切り分けられた水羊羹がつやめいている。
 「でもまだ始めたばかりだよ。」
 「いや、言う通り一息入れよう。婆さんは体調管理の名人だからな。」
 「褒めても何も出ませんよ。」
 ニコニコの祖母が部屋へ入り、祖父と三笠も縁側から立ち上がって後に続く。
 いつの間にか用意された手拭いを受け取って手を綺麗にし、まずは楊枝を羊羹に突き刺して一切れ頬張った。
 飴のような甘さと小豆独特の風味。
 歯に少し力を入れれば簡単に崩せ、ざらついた感触が舌に伝わる。
 驚いたのは、数日前に食べたのと比べるとひどく美味しく感じた事だ。それだけ知らぬうちに疲れが溜まっていたのか、それとも心の問題なのか。どちらにしても今美味しく食べられるのはありがたい事だろう。
 熱いお茶は空気と合わせるように少しずつ啜る事で火傷しないというのは、祖父母の元で生活するようになって直ぐに覚えた事だ。
 恨み言を心で唱えつつ、感覚の鈍った口で食べたご飯に懐かしさを憶える。
 「それで、何を作るつもりなのかは存じませんが、上手くいきそうですか?」
 「それはワシじゃなく三笠君に聞いてくれ。」
 二人の視線が自分に向いたのを感じた。
 口の中身を胃に流し込んで三笠は一息つく。
 「分からないけど、何とかなると思う。直ぐにできなくちゃいけないわけじゃないから。」
 答えを聞いた祖父は嬉しそうだ。
 いままでも何かと気遣ってくれていたのだが、三笠自身の態度もあって力になれている実感が無かったのだろう。だから、ちゃんと助けになっている事が分かって喜んでいるのだ。
 「そうかそうか! ワシは大工じゃないから難しい事は教えられないが、分かる事なら何でも聞いてくれていいからな。」
 「そう張り切らないんですよ。私の時みたいに良いところを見せようとして、孫の前で怪我なんてしたら大変な事ですからね?」
 祖母からの注意を受けて祖父は少し苦い顔をする。
 しかし、何も言い返せないのはそれだけの経験があるからなのだろう。
 二人の間でどのような事があったのか興味は尽きないが、しかし今は怪我をしないためにも目の前の事に集中すべき。
つまり、火傷せずにお茶を飲み干すのだった。

 古くなった電灯が黄色がかった光で照らす部屋。
 福森重助(ふくもり しげすけ)は煎餅のような座布団に腰を下ろし膝をさすった。
 年のせいか、膝が稀に痛む時がある。立てない程ではないから別に病院で診てもらう必要は無いだろうと軽く見ているのだが、妻の佳苗(かなえ)は良い顔をしていない。
 重助はすっかり冷めてぬるくなった湯呑の中を空にし、改めて熱いお茶で中を満たした。
 「あの子は?」
 「ああ、もう眠ったよ。」
 今日の家事を一通り終えた佳苗が部屋に入ってくる。
 背筋がシャンと伸びており、歩く姿も危なげな様子は何処にもない。
 知り合いたちから年齢を若く見られることが珍しくないのは、その年を感じさせないキビキビとした姿のためだろう。
 「昨日、何があったんでしょうね。」
 「さあな。」
 「急に釘を打ちないなんて、誰かと何か約束でもしたのでしょうか?」
 「なんでも構わんさ。あの子が元気で明るい顔をしてくれるならなんでも。」
 「そうですね。ところで、随分熱心に教えていましたがアナタはいつ、あんな事を覚えたのですか?」
 佳苗が聞いているのは三笠に素人大工として見せた技の一つの事だろう。
 「器用なのは知っていましたけど、まさか組み木まで出来るなんて知りませんでした。」
 「あんなの付け焼刃の偽物だ。本物はもっとピタッと、まるで初めからそのために生まれて来たみたいになるもんなんだよ。」
 「でも、私は立派なものだと思いましたよ。」
 重助は赤くなる顔を見せんとそっぽを向く。
 組み木は知り合いの大工から教わったものだった。
 元々は二十年ほど前、佳苗の誕生日に長持ちする小物入れを作ってやろうと思い相談したところ、「長持ちってんなら釘は使わねぇ方がいい。」とか、「こっちの方がずっとハイカラなもんができる。」などと捲し立てられて、気が付いたら半ば弟子のように通う事になっていたのだ。
 結局、腕が上がる前に誕生日が訪れてしまった為、簡単に凹凸を組み合わせ釘の代わりに“のり”を使って固定した、なんとも恥ずかしい代物をプレゼントする事になってしまった。その後、これで終わりというのも情けない、そう思って満足のいく腕になるまでその後も教わり続けていた結果だ。
 なお佳苗は未だにその小物入れを使っているため、重助はそれを見るたびに何とも恥ずかしい気持になった。
 真実を言えるわけもなく、重助は話題を変えるように咳払いをする。
 「そうそう明後日は暇があるから、ワシはあの子とちょっと出かけようと思うのだが――。」
 「はいはい、お弁当はちゃんと作っておきますよ。」
 心の中を読んだかのような正確な返答。
 長く一緒にいると、時折このような阿吽の呼吸とでも呼ぶべきことが珍しくなくなる。
 昔は、言葉が足りない、一言多いと喧嘩もしたものだが、それも今では懐かしい。あの事の自分がちょっと羨ましく思うこともある程度には良い思い出だ。
 「あの子、好きな物は何かしら?」
 独り言と共に佳苗は考えている。
 三笠は良い子過ぎるのだ。
 時折癇癪を起すように怒る事もあったが、常に周囲の目を気にして余計な手間を取らせまいと演技をしているようだった。
 だから、どんな料理が出ても黙々と食べていたし美味しいかを尋ねても同じ返答しか返ってこない。なんとも不甲斐ない話である。可愛い孫の好きな食べ物一つ分からないのだから。
 「まぁ明日がある。分からなければ聞けばいいだろう。」
 「それもそうですね。」
 分からなければ聞く。
 無知を晒すようでいつもなら気の進まない方法だが、恥の一つで喜んでもらえるようになるなら喜んで飲み込もうというものだ。
 熱いお茶を喉に流し込み、ほおっと一息つく。
 ようやく一歩だ。
 ずっと心を閉ざしていた三笠がほんの僅かだが、心を開いてくれた。
 誰がきっかけを作ってくれたのかは分からないが、心の底からの感謝を行う。
 ありがとう。と。
 
 祖父は何やら集まりがあると言うことで日の出少し前からの農作業を一通り終えた後、太陽がようやく山から完全に体を出し切った頃に、車に乗って出ていく祖父を見送って三笠は家の中に戻った。
 特に何か手伝いと呼べるほどの事は眠っていたので出来ていないが、せめて見送りぐらいはしたかったのだ。
 今、家にいるのは祖母と三笠だけ。
 いままでより少し早い朝食の後、少しの疲れと痛みが残る手に金槌を握って昨日と同じように釘を打つ練習をする。
 手首のしなりは良くなっている気がするが、しかし相も変わらず釘の頭に上手く当てるのは難しい。二本、三本と繰り返して徐々に感覚が戻ってきたところで、思い切ってもう少し大きな釘に挑戦してみることにした。
 一本を曲げ、一本は斜めに刺さり、三本目に取り掛かろうとしたところでジッとコチラを見て微笑む祖母の姿に気が付く。
 カン、カン、と釘を打つ音しか無いと言うのも気まずい。
 「ばあちゃん、これから少し変な事聞くけどいい?」
 「なんでしょう?」
 唐突な切り出しに首を傾げる祖母。
 「こう、頭から動物の耳みたいなのが生えてて短くて黒い髪で、身長は俺よりも低くて、それでなんだか偉そうな言葉遣いの女の子って、知ってる?」
 言ってみると、何とも奇妙な姿ではないか。
 本物の獣の耳を持つ女の子など、白昼夢か厳格化、はたまた何かと見間違えたとしか思われないに決まっている。ただでさえ気を使わせているのだから、これ以上何か心配事を増やすようなことは避けるべきだ。
 驚いた様子の祖母に、「今の無し。」と取り消そうとしたところで、続く何とも嬉しそうに微笑んだ顔に言葉がしぼんでいく。
 「そうですか、キハダ様に会ったんですね。」
 「キハダさま?」
 「ええ。この辺にずっと昔、私が生まれるよりも前から暮らしている不思議な女の子。」
 思い出すように、懐かしむように祖母は話す。
 「この辺で遊んでいるとね、いつもいつの間にか混ざってきてね。追いかけっこでは風のように早く走るし、相撲を取れば横綱が葉っぱみたいに簡単に投げられる。物知りで、でも知らない事には興味津々。泣いている子がいればそっと寄り添ってくれるし、喧嘩が起きるとお父さんやお母さんみたいに叱ってくれた。それで仲直りしたら、みんなで美味しい木の実がなっているキハダ様しか知らない場所に連れて行ってくれるのよ。友達のようで、兄弟のようで、親のようで、それでいていつも寂しそうにしていたわ。」
 その目はこの世界のどこよりも遠くを覗き細められ、声は自分に聞かせるように優しい。
 「皆キハダ様が大好きでね。そうそう、ある雨の日にね、子供が流されちゃった事があったの。その時は大人たちでも、足が届かないほど水かさが増してしまっていて、流れも非常に早くなっていた。誰も、どうにもならないって諦めていた時にキハダ様が飛び込んで助けてくれたのよ。大人たちにはキハダ様は見えていなくて、でも私は確かに、びしょびしょになりながらも凛とした顔で川を魚よりも早く泳いでいた姿を確かに見たわ。その子は今はずっと遠くへ行ってしまったけど、大きくなってからもずっとキハダ様に感謝していたのよ。」
 祖母の話す黄蘗の話は、どれも出会った時の彼女の姿からは想像できない物ばかりだった。
 しかし、想像は出来ないも“そんなわけがない”と言えるようなものでもない。
 むしろ彼女ならやるだろうと思えるようなことばかりだ。
 「みんな大人になって、子供たちの前にも現れなくなって、何処か遠くへ行ってしまったのかと思っていましたけど。そうですか。キハダ様はまだここにいたのですね。」
 ホロリと雫が一粒落ちる。
 三笠は何も言わず、ただジッと音を立てないよう座っていた。
 幸せな思いに浸っている時に邪魔をされるのは、とても腹立たしい事だと言う事を知っているから、祖母の顔がとてもとても嬉しそうだったから。
 お昼は素麺だったが、機嫌の良い祖母がテンプラも用意してくれた。
 出来立てで歯で押すたびにパリパリと小気味よい音を立てて崩れ、素麺の汁に付けると僅かにふやけるも、塩気がちょうどいい塩梅になりとても美味い。
 ペロリと三玉平らげて、膨れたお腹をさすって食休みをしながら祖母の洗い物の音を聞いた。
 お腹が程よくなったところで三笠は釘打ちを再開する。
 四本、五本、六本――。
 何本目か数えるのを辞めた、おそらく両手で数えられるだろう本数目のうちに少し痺れの出て来た手を振って作業を終えることにする。
 日はまだ高いが、不慣れなのに力も入れにくいとなれば怪我の元だ。
 いそいそと開かれた工房を畳み、軽く手を叩いて気持ち汚れを落とす。
 それから一言、祖母に出かけてくることを告げて外へと出た。
 向かう先は当然一つ。
 車の無い道路を歩き、杖を器用に使って丸太橋を渡り、そして一日ぶりの森の中へと足を進める。相も変わらず木々は生い茂り、足はフカフカの土が優しく受け止め、外の喧騒から隔離されている世界。
 道を憶えているわけでもないのに、動く足は躊躇なく動く。
 やがて、木々の隙間から見覚えのある小さな祠が見えて来た。
 祠の上には獣の耳を持った少女が一人。
 ボウっと退屈そうに空を見上げて、何の感情も感じられない空っぽの瞳は、祖母の話を聞いた今だと胸が痛くなるような気持ちにさせる。
 三笠は少しだけ急ぎ足で祠へ近寄っていく。
 ピクリと耳が動き、視線を落とした少女は始め、三笠の姿を見ても能面のような顔のまま固まっていた。それから、目の前に立っている者が何者であるかを思い出すにしたがって、驚きに染まっていく。
 「なんだ、また来たのか?」
 「うん、約束したから。」
 「人間にしては殊勝な心掛けだな。」
 やはり偉そうだ。
 しかし、その耳が嬉しそうに動いている事を三笠は見逃さなかった。
 「それじゃ、まずは掃除の続きから始めましょうか。」
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