第8話

文字数 10,753文字

 今日も森はいつもと変わらない。
 役目を終えた葉が枝から落とされ地面に重なり、すぐ隣には新しい芽が顔を出し始めている。空は砂粒のように小さく、不規則に散りばめられるように木々の覆いから唐牛で見える程度で天の状態など雨の日くらいしか知ることはできない。
 昨日も同じだった。その前も、その前も同じだ。
 何も変わらない。
 新しい者が現れて、古い者は忘れ去られていく。
 当然の自然の摂理だ。
 永遠など何処にもありはしない。
 ボウっと見えない空を見上げて黄蘗はいつもと同じように、無駄で無意味で無価値な時の流れを消費していく。
 抗いようのない忘却はとうに受け入れた。
 だというのに、どうして自分はあの子供に声をかけたのだろうか。
 「酔狂にも程があるというものだな。」
 自嘲気味に笑う。
 最後に何かしてやろうなんて考えてもいなかったのに。
 始めて三笠を見た時、放っておこうと思った。
 関わったところで大したことが出来るわけでもなく、わざわざ自分の寿命を削る危険を冒す意義も見いだせなかったから。しかし不安に駆られて泣きじゃくり誰もいないというのに悲痛な声を上げられては、流石に見過ごすことは出来ないというものだ。
 それほど余裕があるわけでもないのに手を差し出して、期待などしていないのに神らしく加護を与えてやった。
 幸運にも三笠は信仰心を抱いた。
 小さなもので、とても真摯であるとは言い難いも無くはない程度ではあるが。
 おかげで余計に抜け出せなくなった。
 どうせ成長すれば忘れられるのだ。
今までと同じように、全ては夢であったと自分に語るようになる。
 そうと分かっていても己の元に来た信徒を無下にするわけにもいかず、得られる分以上の力を持って約束を守っているのだから律儀なものだろう。
 「神は嘘を付けないからな。」
 再びクックと笑う。
 「何が『無病息災の恵みを与える事など造作もない。』だ。消えるのが怖くて溜め込んでいた力を切り崩さなければならない程、この身を支える信仰はもうか細いというのに。」
 これでは良い笑いものだ。
 もはや笑う相手など何処にも居はしないのだから、別に構わないと言えばその通りなのだが。
 「さて、花火と言ったがどうしたものか。」
 先ほど立ち去った二人、物好きにも自分へ多少なりの信仰心を持っている困り者たちの会話を思い出して困ったような嬉しいような顔になる。
 ハッキリ言ってしまえば不可能だ。
 特に今、迫ってきている厄介なものが三笠から立ち去るまでは。
 その身を護るために今も着々と力は減り続け、余計な浪費を避けるため祠からは一歩も動くことは出来ないし、姿を見せて会話をするなどもっての他だ。例え厄介なものが去ったとしても、力の失われた状態では果たして今のように明確な形を持って接する事が出来るか怪しい。
 病は気からとも言うように、三笠の精神が落ち込めばそれだけ厄介なものの力は強まるから、下手に断っても不味いと来た。
 一度目は誤魔化せたが、二度目も姿を現さないまま言葉の一つも無いとなれば、何かしらいらぬ心配をし始めたり、最悪の場合は勝手に見放されたと絶望しかねない。
 そうなれば今の努力も水の泡と言うものだろう。
 「何か良い言い訳を考え、なるべく余計に力を使わずに伝える方法を考えなければなぁ。
 非情に面倒な事だ。
 しかし残念なことに考えるのには何の力も必要ないのである。
 強いて言えば甘いものが食べたくなるぐらいで、それも気分であり生物のように食べなければ死んでしまうということもない。
 「何も考えずボウっとしているのも、あまり嫌いではなかったのだが。」
 時間に制限があるから、そうも言っていられない。
 空を見上げる。
 木々が遮る分だけ森の中は暗くなるのが早い。今はそろそろ昼も過ぎて世の人々は食後の休息やら菓子の類を楽しむ頃合いだろう。遅く起きて来た者が昼食を食べ終える頃合いと言っても良い。
 日の光りがほんの少し弱まった事から正確に黄蘗は時間を把握する。
本番が明日の晩である以上、今日はそれほど遅くまで祭りの会場にいるとは考えにくい。そろそろ名案の一つでも思い浮かべておかないと厳しい。
 僅かな、ほんの少し楽しい焦りを抱きつつ黄蘗は考え始めた。
 「ここがあの少年たちの来ていた場所のようですね。」
 何か大切なことを考え始めると邪魔が入るのは世界の理らしい。
 聞きなれぬ、なんとも不快な気持ちになる声をした男が立っている。周囲には風評被害甚だしい狐憑きというものとはこういうものなのだろうと思わせるほど、目をカッと開いている女と何を考えているのかサッパリ分からない不気味な大男。
 どう考えてもお供え物を持ってきた客人には見えない。
 「いやはや、まさかこんな場所にまで邪教の巣が根を張っているとは、この国を侵している病はどうも根が深いようですね。」
 「忌々しい、ああ忌々しい。我らの崇高な神を冒涜する邪悪な存在。アレらさえなければ、全ては万事うまく回るというのに。アレさえなければ私たちは幸福の都へと神に導かれ永遠の安らぎを得られるというのに。」
 「焦ってはいけません。我々はただ使命を果たせばよいのです。全ては神が御心のまま、その通りに動きさえすれば最初の信徒として祝福の道を歩めるのですから。」
 「まさにその通りでございます。」
 なんとも異様な連中だ。
 何を崇め、誰を崇拝しようが個々人の自由だと黄蘗は考えるが、どうも彼らは違うらしい。
 ずっと昔にも、だいぶ昔にも、昔にも、それなりに昔にも、少し昔にも、このような思想を持ってよからぬ活動を行っていた者たちは多くいたが、そんな連中でさえ相手を懐柔し取り込むまでの事しかしていなかった。
 それは信徒を下手に敵に回すより利点が多かったからであるが、彼らの様子を見る限りそのような理性が残っているとも思えない。
 これから何が行われるのか、嫌な汗が背を伝っていく。
 「おや、おやおやおやおや、まさかまさかですな。」
 唐突に男は立ち止まり、大げさな身振り手振りで驚いた様子を表現した。
 その目の先にいるのは――。
 「――貴様、見えているな?」
 「お初にお目にかかります、お名前は……まあいいでしょう。どうせ聞いても意味のない事ですから。」
 男は黄蘗が見えている。
 大人どころか、信仰心を持つ子供すら見えない今の黄蘗を、男は見て話せるのだ。
 「驚きましたよ。」
 困惑した様子で狼狽える二人を手で制しながら、男は本心から言っているようだった。
 「それはこちらも同じだな。……なぜ妾が分かる? どのようなカラクリだ?」
 「随分とおかしな質問ですね。いえ。当然かもしれませんな。私も“残っている”場所は初めてなものですから、少々取り乱してしまいました。」
 「貴様の乾燥などに興味は無い。妾の問いに答えろ。」
 「ふむ……。まぁ隠す事ではありませんから良いですかね。」
 もったいぶった様子、驚いていると言いながらもそこには畏怖も何も存在しない。
 人ならざる者を見たのは初めてではないのだろう。
 「実はわたくし、神の血を引いていましてね。」
 「ほう?」
 「ああ、神と言ってもあなた方のような存在ではありません。遥か太古の昔、この国に文明が芽生えるよりも古い時代に、一人の神が確かにいたのですよ。高天原に新しき神々が降りるよりも更に昔の事です。神は人々と共にあり、自然と共にありました。互いに愛し、愛し合い、人々は神との間にのみ子孫を育んだのです。生物を超越した神は如何なる存在にも平等でありましてね。己を愛する相手となら誰とでも子を作ることが出来ました。そして、生まれた子もまた神を愛し、神との間に子を残し――そうして私の先祖たちは大いに栄えたのです。」
 「ふん、随分とまあ変わり者もいたものだな。」
 「彼らもそのように考えたのでしょう。新しき神々は我らの先祖を次々と滅ぼしていきました。神の子と言っても人は人、生まれは違えど神に敵う道理はありません。そしてついに滅びを待つ時であった我々のために我らが神は立ち上がり、勇ましく戦いました。」
 「だが負けた。」
 「いいえ、負けてなどいませんよ。神は確かに力のある外の神々の力により硬く暗い穴の中に封じられ、上に乗せられた石は今なお如何なる手法を用いても取り除くことは出来ていませんが、神は唯一現代に至るまで生き残った子孫である私に神託を行ったのです。『我、この地穢しし神の力弱まり給えば今一度封を破り永久の愛を全ての者に齎さん。』と。」
 「神の力が弱まる。」
 「ええ、新しき神々であっても信仰という力に支えられている事実は変わらない。つまり、その信仰心を、信仰の元を絶てばおのずと我らが神を封じる力は弱まり、そして復活を果たすときが近づくのです。分かりますね?」
 「分かりたくもないね。」
 黄蘗は狂った男の狂言を吐き捨てる。
 「お前が私の姿を見、言葉を交わせることは確かに奇妙ではあるが、そのような与太話を信じるほど私は弱ってはいないぞ。」
 「残念です。真実をお話ししたのですが。」
 いちいち動きが大げさなところが不快でたまらない。
 力のあった時代ならば今すぐに蹴りの一つでもお見舞いし、隣の山まで突風により吹き飛ばしてやれたのだが、時の流れというのは残酷なものだ。
 「まぁ私もアナタのような存在に話すのは初めてでしたから、きっと上手に伝えることが出来なかったのでしょうな。」
 「その言葉、まるで他の社などを訪れたことがあるような口ぶりだが。」
 「ええ、訪れましたよ。人々に忘れられ、己の姿も、形も、自我さえも失って無へと帰ってしまった存在たちを、かつて奉っていた場所を。いくつも。」
 右手を左の胸に、左手を天へと突きあげて、男は嘆きの言葉を騒々しいカラスよりも下品な声で賛美歌を歌うように紡ぐ。
 「ああ、なんと悲しい事か! どれほど人と共にあろうと努力しても、そこには愛がない! 愛が無いゆえに人は忘れ、去っていく! 世界はなぜこうも残酷なのか――。」
 「ハッ、中々良い顔をするじゃないか。」
 ニチャア、と醜く顔を歪めた満面の笑顔。
 それは最早人とは呼べない悍ましい怪物の顔だ。不幸で腹を満たし、悲しみの涙で喉を癒し、嘆きの言葉を子守唄にする邪悪な化物の姿そのもの。
 海を越えた先で語られる悪魔と言うのは、まさに今目の前にいる男を指す言葉に違いない。
 潮が引くように男の顔は無表情に変化していく。
 それまで機嫌よく話していた口も閉じ、目は虚ろでここではない何処か遠くを見つめているようだが、それがまともな状態でない事は誰であろうと一瞬で分かる。これを「能面のよう。」と言い聞いた者が十人いたならば、能面の方が豊かな表情を浮かべていると答える事だろう。
 スゥっと挙げられた手、一本だけ伸ばされた人差し指は黄蘗を、その下にある祠を指す。
 「やれ。」
 たった一言、その一言で控えていた二人は水を得た魚のように、首輪を外された狂犬のように猛烈な勢いで社へと迫り――。
 
 「やめろ!」

 ――声は当然、届かなかった。 

 最初に大男によって祠が蹴り飛ばされた。
 傾いていたぐらいだから、しっかりと固定されているわけでもなく支える柱も酷く痛んでいたから、さぞ抵抗なく倒れて驚いたことだろう。
 乾いた弱々しい木の折れる音は小枝よりも小さな悲鳴だ。
 間髪入れず女は踏みつける。
 バキバキという音と共に囲っている板が、扉のようになっていた板が簡単に仲へと落ち込んだ。留め具も何も無い、しかし丁寧に木を組み作られていた扉が。
 黄蘗は悲鳴を上げる。
 決して止めることのできない惨状にではない。
 己の体が引き裂かれるが如き激痛と、祠がまた一つ壊れていくたびに。
 「おやおや、まさか御神体すらないとは。これは手間が省けますね。お礼をしなくては。」
 男の言葉は聞こえない。聞こえているのに、耳がそれを聞き取る余裕が無い。
 収まる事のない痛み、体に亀裂が入る不快感、足が手が頭が体が一つの衝撃を受けるごとに崩れていく感覚。握られた凍った花のようにグシャリと音を立ててパラパラと光の粒子が体から落ちていく。

 いくら叫んでも誰も来ない。

 誰も聞こえない、誰も助けてくれない。

 どうして? なんで? 自分はいつも駆け付けたのに――。

 常に助けていたのに、笑顔を作っていたのに、望まれるまま働き続けていたのに――、勝手に捕まえて、勝手に崇めて、勝手に役割を押し付けて――、忘れた、誰もいなくなった、ずっと一人になった。
 季節が巡る。
 春が来る。夏が来る。秋が来る。冬が来る。そしてまた春が来る。また夏が来る。また秋が来る。また冬が来る。春が。夏が。秋が。冬が。春。夏。秋。冬――、巡って巡って巡って巡って――、私はいつまで一人でいればいい。私はいつまでここにいればいい。私はいつまで怯え続ければいい。
 沢山の夢を見た。
 大人になった子供たちが子供の姿で、また一緒に遊ぶ夢を見た。遊んで遊んで、夕方になると皆大人に戻って家に帰っていく。そして二度と来なかった。花が散っても、蝉が鳴いても、葉が落ちても、雪が積もっても、ずっとずっと待っていたのに、また来ると約束したのに。
 起きるたびに泣いて、泣いて、泣くのも疲れて、眠って、そしてまた夢を見る。
 いつしか夢が怖くなった。
 眠らなくなった。
 ずっと空だけを見て、何も変わらい、いつまでも変わらない空だけを見ているようになった。
 何も考えないのが幸せだった。
 考えれば辛くなるから、何もかも空っぽにして石になろうとした。
 体の奥底、大切な物にヒビの入る感覚。
 もう疲れた。
 誰も、もう自分を見てなどいない。
 今自分を知っている者たちもやがて忘れてしまう。
 ならば、そういう者達がまたいなくなってしまう前に消えてしまうのは、きっと幸福な事なのかもしれない――。

 「お前ら、そこで何してんの?」

 怒り、それは明確な怒りだ。
 震えているのは恐怖からではない、あと一歩踏み込めば殺意へ変わる怒りを抑え込んでいるがために震えているのだ。
 「私たちは居間取り込み中でしてね。もう少しで終わりますので、少々お待ちください?」
 「は? アンタら、自分らが何やってるか分かってんの? それで私が大人しく、はいそうですかって待ってると本気で思ってるわけ?」
 一歩、また一歩と足音が近寄る。
 大男と女の動きは止まっていた。どうやら近寄ってきている人物の方が彼らにとっては重要らしい。
 「もう一度聞く、アンタらそこで何やってんの? 私、ここの祠に用があって来たんだけど?」
 震えを抑え込み、押し殺した声は刃の如き冷たいもの。
 「邪教徒どもに話す者は何も無いよ。怪我しないうちにさっさとどっかに行きな!」
 「ババァは黙ってろよ、私はそっちの偉そうなオッサンと話してんの。」
 「貴様っ!」
 「落ち着け、ボスが話す。」
 「そうですよ。邪教徒の言葉にいちいち心を乱されてはいけません。心を落ち着かせ、我らが神に相手が心を改めてくださるよう祈るのです。」
 真っ暗な世界に唐牛で光が差し、僅かに開けられた目で黄蘗は目の前で何が起きているかを見ようとする。
 大男と女は睨みつけるように、歩を止めることなく近寄ってくる女性を見ている。
 「に、逃げろ……。」
 聞こえもしないのに、自然とそんな言葉が口から洩れた。
 それはきっと女性が、美紀が三笠と共に一度だけではあるが祠に手を合わせてくれた人間であったからだろう。
それに相手は三人だ。
彼女がどれほどの手練れであろうと素手では勝ち目など無い。それが分かっているからこそ、男たちは余裕の態度を崩さないのだ。
 どうせもうすぐ消えるあっけない存在のために、わざわざ怪我などする必要は無い。
 「まぁどちらにしても、逃げて騒がれても面倒ですからね。彼女にもたっぷり我が神の素晴らしさを説いて差し上げようではありませんか。丁度手元に心を洗う神の薬もありますしね。」
 「流石司教様です! このような事態も想定しておいでなのですね!」
 「まこと、感服いたします。」
 「さぁ抵抗は止めて、我々の手を取りなさい。そうすれば手荒な事をせずに済みます。ああ、助けを求めても無駄ですよ? この時間帯にこの辺りに人が来ない事は調査済みですので。」
 気が付いた時には、男は美紀のやって来た方へと移動しており完全に退路を断たれた形だ。
 「ふーん、そっか。こっちは穏便にお話合いを使用って計画だったんだけど。まぁ予想通りと言えば予想通り。」
 危機が迫っているにも関わらず美紀は淡々と、吐き捨てるように言葉を続ける。
 「そっちがその気なら、こっちも相応の対応と行こうじゃねーかコラ。重吾、アレ寄越せ!」
 叫ぶように美紀が命令すると、それまで身を隠していた三人が飛び出してくる。
 脇から飛び出し一本の黒い、何やら文字の掘られた木刀を美紀に渡したのは重吾と呼ばれた者。黒服の男の後ろから現れたのは、とても荒事は得意そうに見えない電話をかけている男で、黄蘗の側にやって来たのは小柄な黄蘗とそれほど変わらない体格の女性。
 「こういうのは警察に任せるべきだと思うんだけど。」
 「るっさい、それじゃ間に合わないの! それに、今のやり取りからしてヤバい薬も持ってるみたいだし、正当防衛が成り立つっしょ。」
 「まー、ダメなら凶器でも捏造すりゃいいからな。この時間帯に、この辺りに人は来ないらしいし薬も持ってるなら十分騙せるだろ。」
 「え、怖いんだけど。普段からそんな想像してるの? ひくんだけど。」
 「いやこれは『だから気にせずに戦えるぜ?』って意味だから! てか、普段からこんな事考えてるわけねーだろ普通に考えてよ!」
 空気がいっきに軽くなった。
 三対一では勝ち目など無く逃げの一手が正しいだろう。
 だが数が逆転したなら?
 「キィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」
 耳の痛くなるような悲鳴と共に女は美紀へと迫っていった。
 人はそこまでガムシャラに動いても早く走れるのだと、余裕があれば感心出来るような滅茶苦茶な足の動かし方で、懐に右手を入れ真っすぐに突っ込んでいく。
 「美紀あぶな――!」
 「せいっ!」
 ゴツ、と良い音を響かせ、同時に女はその場に崩れて静かになった。
 「え、死んだ?」
 「ちゃんと加減してるかた大丈夫だっての。」
 アングリと黒服の男二人が口を開けて呆然と突っ立っているのは、今起きたことが中々呑み込めずにいるからだろう。
 黄蘗も一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 それほどまでに繰り出された一振りは早かったのだ。
 持ち上げる動作も、振り下ろす軌道も、風を切る音も、何一つとして見えなかった。
 ようやく相手が只者ではない、そして最も持たせてはいけない武器を手にしている事を理解した大男は、小さく悲鳴を上げて踵を返す。先にいる小柄な女性に狙いを定めたのか、それともソチラなら逃げられると思ったのか――その判断が間違いであった事は直ぐに証明された。
 「へ?」
 間抜けな声と共に男の体は中に浮いていた。
 まっすぐ突っ込んできた勢いのまま、グルリと一回転して柔らかな地面へ強かに背中を打ち付ける。腹の中に溜め込まれていた空気は驚いたように一気に外へ飛び出し、一瞬の過呼吸を起こしてからようやく全身の受けた衝撃の痛みに呻く。
 余程の衝撃だったのだろう、しばらくそのまま身動き一つ出来ない様だ。
 「……マジで、うちの女子たちおっかないわ。」
 「女子大学生剣道全国一位と女子柔道日本代表候補だもんね。怪我して欲しくないから本当は逃げるのが最適な行動なんだけど、この場合はそうもいかないか。――逃げないでくださいね?」
 逃げようとジリジリ動いていた最後の一人は、男が懐から出した黒い“くの字”の物体を向けられると恐怖に顔を引きつらせて両手を上げた。
 「……それは偽物だろう?」
 「そうかもね、試してみようか。」
 男の何の躊躇もない言い方に何かを感じたようで黒服は慌てて止めようと口を開くも、それを待たずカチリと引き金は引かれた。
 音と同時に黒服は激しく体を痙攣させる。そしてその場にドサリと崩れ落ちた。
全身を一瞬で駆け巡った電流の影響により、倒れてからもなおビクビクと体が意識と無関係に筋収縮を行っているのだ。
「ああ、スタンガンだから安心してください。」
 「お前のその脅しでも何でもなくサラッと実行するところ、つくづく怖いと思うわ俺。」
 「私はカッコいいと思うけどな。」
 「私は?」
 「風香もカッコいいよ。」
 悩まし気に「俺しか一般人いねーのか、このサークル。」と呟きつつ、重吾は意識を失って倒れている女をひっくり返しその胸元を調べ出した。
 「……伸びてる相手にセクハラとか最低だなお前。」
 「これ以上ないレベルの紳士である俺が、そんなクズ行動取るわけねーだろ!」
 「紳士レベル?」という風香の疑問を無視しつつ黒い上着の裏、胸元に突っ込まれた右腕を慎重に引き抜くと――握られたキラリと冷たい輝きを放つ物体が姿を現した。
 「やっぱ持ってたな。」
 「知ってたの?」
 「そりゃ、脇の当たりがナイフ入ってそうな膨らみ方してたし、奇声あげながら手を突っ込んだ時も割と慎重に見えたし、それに始めて見た時から脇の閉じ方が不自然だったから、そんな気がしてたんだよ。」
 「え、ひく。」
 「なんでだよ! そこは真治や風香の時みたいにカッコいいって言うところだろ!」
 重吾が抗議の声を上げるも美紀は聞こえないと言うように耳を塞ぎ、それからまっすぐに無様な姿となった祠の前にやってきた。いや、もはや祠とは呼べない。ただのボロ板の残骸だ。
 「キハダ様、いるんですよね?」
 「おい何言って――。」
 「重吾、お口チャック。」
 「いるんですよね、キハダ様。」
 美紀は問いかける。
 黄蘗は伏していた体を起こし、座った姿勢でその顔を見上げた。
 「三笠君が大変なんです。突然倒れて、お医者さんも何が原因か分からない。とにかく対症療法で何とか乗り切るしかないって……。私たち何もしてあげられなくて。病院に来たお爺さんとお婆さんは私たちは悪くないって言ってたけど、でもやっぱり責任を感じて、どうにか出来ないか皆で考えて、それで三笠君のお婆さんから聞いたキハダ様のお話を思い出して来たんです。」
 黄蘗は顔を上げる。
 自分は忘れられたわけでは無かった。憶えてくれている者がいたのだ。
 それが自分を支えてくれている子供の祖母であれば、これは何という偶然だろう。
 「お願いします。三笠君を助けてください。」
 美紀が悲鳴に似た声で、深く深く頭を下げた。
 その顔が悲しく悲痛に見えるのは責任からか、それともこの地で出会った仲の良い友人を失うかもしれないという悲しさからか。

 「まったく、こんな状態だというのに無理を言いおって。」

 黄蘗はフッと力ない笑みを浮かべた。
 それは自分の愚かさ、どうしようもなさを笑った物だったが、同時に目の前から首を回して見える四つの、豆鉄砲をくらったハトのような顔を見てのものでもあった。
 「え、あの……え!?」
 「あまり大声を出すでない、体が崩れる。一時の奇跡をそんなつまらぬ事で無駄にされたくないのでな!」
 いつも小僧に話しているように、偉そうに。
 「お前たち、妾に願いがあるようだな? あの小僧を病魔から守れという事か?」
 「あ、はい。そうです、けど……。」
 「うむうむ、ならば安心するがよい。小僧との約束もあるからな、その願いは必ず聞き届けると約束しよう。――だが、一つ条件がある。」
 「祠なら直します! お祈りにも、毎日は無理だけど絶対に来ます! お供え物だって欲しいと言われればどんな物でも必ず用意します! だから――。」
 「だから大声を出すなというに。……まったく、妾はそんなどうでもよい事など条件にせん。もっとお主たちが苦労して、いつか嫌気がさすような事を求める。」
 ゴクリと唾を飲んだのは重吾かそれとも自分か、間を開けてから黄蘗は再び口を開く。
 「良いか、今年は良い。来年から毎年の明日の日、小僧と共にここで花火をしろ。人間は興味深い事にあの大きな花火を小さくしてしまったと言うではないか。妾は一度もソレを見たことが無い。見ることが叶わなかった。だから――。」
 ――ここで見せろ。
 美紀の顔が先ほど以上に驚いたものになる。
 目は真ん丸になり、開いた口は閉じるのを忘れてしまったかのようで、なんだか面白くなって黄蘗はクスリと笑った。
 「それに供え物など、どうせ無意味だ。お前たちが食べた方がずっと良い。」
 「え? それってどういう……。」
 「こういうことだ!」
 カッカ、と愉快そうに黄蘗は笑った。
 心の底から、かつて人々に崇め奉られるよりも昔。もう思い出せないほど古く、しかし今でも確かに奥底に残っていたイタズラ好きがきっとそうさせたのだ。
 パッと体が砕け散り光の粒子へと変化する。
 四方八方へ、赤に、青に、黄に、緑に、橙に、藍に、紫に――。
 光の粒子は美しく輝きながら飛び散り、その爆発の真ん中、大きな光の玉は天高く上がっていく。風は背中を押すように吹き、木々は万雷の拍手を奏で、高く高く神々しき輝きは夕焼けに赤く染まる空を切り裂き、何者にも阻まれること無く突き進み、大きくはじけ飛んだ。
 真っ白な光の粒子が花のように広がって、光の届かない闇の森奥深くを煌々と照らした。
 まるで、その時その瞬間だけは木々が枝を避けて大きな窓が出来上がったかのように。

 『約束だぞ。』

 美紀達は確かにその声を聞いた。
 そして、その声はもう一人。
 今はまだ眠っている、安らかな闇の中で一筋の涙を流した小僧にも。
 きっと――。
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