証言者 005 ≪ 宙を踏む女

文字数 4,297文字

 



■ 練馬春陽高校2年3組の生徒
  椎名(しいな) 未森(みもり) ── Said




 無難に定年を迎えたはずの父親が、わずか1ケ月のブランクを経て、いきなり経堂(きょうどう)のスーパーマーケットに勤めだした。

 そのせいで、今、椎名未森の家は少しだけ静かな状態になっている。兄妹の賑わいに古今は問われないが、家庭のリーダーである父母が沈黙してしまったのだから、湿っぽい兄妹たちはできるかぎり順応せざるを得ない。

 母親はどうやら、父親の定年退職を機に働きたいと考えていたようである。生みも生んだり8人の子供を抱え、働き盛りといわれる30代からずっと家内を守ってきた女丈夫。しかし、心の奥底では常に、世間を股にかけるワーキングガールを夢見ていたらしい。もはやガールと呼ばれるには羞恥すらもおぼえるような老年となったものの、それでも、ようやく昔日の夢を叶えられると密かに喜んでいたらしい。

 それがどうだ。隠遁してほしくてたまらなかった夫が、なにを血迷ったか第3の人生を世田谷区の経堂に据えてしまった。練馬区内の一軒家をまたもや放ったらかしにし、よりにもよって小田急線沿いの経堂なんかに。

 母親は、底なしの糠床(ぬかどこ)へと落胆した。

『俺は働き蜂だ。働かない俺など羽根をもがれた餌に過ぎん』

 父親はそう言って主張したが、母親にしてみればそんな比喩が美々(びび)しく思えるはずもない。いっそ餌になって土に還っちまえと祈っただろうが、半歩さがって夫を立てるばかりの人生が裏目に出たか、ついに激しい口撃には至らなかった。

 相も変わらず帰宅すれば疲れた疲れたと嘆いて動かなくなる父親と、浮上できない重石(おもし)の落胆を抱えて溺れるように口数の減った母親。そして、そんなリーダーたちを横目にできるだけ明るく振る舞おうとする湿っぽい兄妹たち。この家に引っ越して俺らで切り盛りするから存分に働けば?──長男夫婦の親孝行な提案も、なにを意固地になっているのか却下される始末。当然、かつてのように明るくなる道理はどこにもない。

 椎名家は、今、前代未聞の静寂に(むしば)まれているところなのである。

(B型夫とA型妻の典型だわね)

 手も足も出ない末っ子の椎名には、血液型人間観察術とかいう都市伝説を元手にして納得を勝ち取ることしか術はなかった。

 家にいても楽しくない。だから椎名は意気揚々と登校している。中学生の時までは苦痛でしかなかった登校だが、授業容量も倍増、ときめく男性教諭もいない高校なのに、今では通学路に出た瞬間から宙を踏んでしかたがない。燻製(くんせい)になりそうな真夏にありながら、透明な鼻歌さえも(くゆ)らせて。

 宙を踏む要因は他でもない、

「男を男だと思っていられるうちが最大のチャンスだよ」

(でました!)

 

にあった。

「信念や主張ではなく、あくまでも意識の問題としてだよ」

 ワクワクするのである。

「信念なんてタカが知れているからね」

 ドキドキするのである。

「意識した瞬間になにができるのか、その瞬発力が信念を築くのだから、頼るべきは信念ではなく意識のほうにこそある。金魚すくいだってそうだよ。意識してからのコンマ数秒の瞬発力が勝敗を分ける。信念ごときでは、(ポイ)なんてあっという間に破れる」

(さすがは詩帆(しほ)さん)

 いったいどのようなロジックが展開されるのだろうかと期待してしまうのである。そしてそれは、そこに居合わせる女子のすべてもまた等しく思っていることだろう。

 この少女は、サッカーだけの少女ではない。

 事の発端である河田映美(かわたえみ)も、同じようにキラキラとした期待のまなざしを少女へと注いでいる。その才能をいち早く発掘し、努力に努力を重ねて交流へと漕ぎつけ、周囲に喧伝して回り、椎名にも平等に紹介してくれた、まさに恩人ともいえるムードメーカーである。

 今日もまた、椎名たちの輪の中へと音もなく顔を覗かせた少女。彼女の得意分野が発揮されて場が荒れる前に河田の手腕でもって巧みに誘導され、こうして、どこにでもある退屈な風景に革命的な風を投じる送風機(ブロア)となっている。

 意識した瞬間にはすでに動いている少女だから、河田が曰く、タイミングを間違わなければ誘導も難しくないらしい。容易なことではなく失敗も多いそうだが、だからこそ、努力を怠らない河田のことを椎名は尊敬(リスペクト)している。

「信念に頼って瞬発力を失うぐらいならば、そんなものはドブに捨て、意識した刹那の瞬発力の質を永続させられるように努力したほうが未来は明るい」

 革命の風が頬を叩く。

 ──それは、なんでもない光景だった。どこにでもある一般的な光景であり、口にすることはなくとも、誰の胸の中においても退屈でしかない光景だった。

 愛の深さをテストするつもりで、河田が彼氏に別れを告げてみたのだそうである。すると彼、急にムスッとしたかと思うと、友達全員に飲み会の催促メールを送信しだしたのだという。なに、どういうこと?──詰め寄る河田。しかし彼は、ムスッとした表情を崩すことなく、むしろ詰め寄る河田を完全に無視(シカト)し、送信の勢いのままに飲み会へと馳せ参じたのだそうである。

 ゆえに河田、仲間の前でこう叫んだ。

『もうホント男ってわかんないッ!』

 すぐさま、同情と共感はクラスのターンテーブルにリミックスされた。んなのありえない、空気よめっつの、ゲスすぎる──そしてついには、

『男ってのはさぁ、実際、そういう生き物なんだよねー!』

 女子が5人も集まれば、おおむねスイーツか化粧水の品質か黒髪の男子中学生か恋愛の話題へとおさまる。なおかつ、彼氏保有者がいれば間違いなく後者へと傾いていく。ひとりでいれば花より団子のくせに、徒党を組んだとたんにコレである。ご多分に漏れず椎名も同類なのだが、しかし、そんなフォーマルなフラグのもとだけで満足していられるわけもなく、彼女たちはみな、この状態にだいぶ前から飽きていた。飽きてはいたが、開拓精神よりも保守精神である。レクリエーションごときで仲間内の空気を冷やかす胆力は誰にもなく、やむなく似たような毎日を余儀なくされていると、そういうことである。

 登校が楽しくてしかたのない椎名も、さすがにコレばかりはどうにかならんのかと思わないでもなかった。そこはやはり変遷先進国の日本に生きる女子高生である。停滞とあらば、とたんに危機感をおぼえるのも自然の道理なのである。だから、なんとか新鮮な話題を提供しようと奮い立つのだが、相手もまた新鮮なものに敏感な女子高生、提供した頃には時すでに遅し、とっくに古い話題となっており、(かえ)って停滞を助長するファクターを演じるハメに。

 妙案は、ないものとばかり思われていた。

「閑話休題」

 つまり、この少女は、彼女たちにとってマッコト健全なカンフル剤だった。とてもスリリングで、しかもビターな。

「例えばの話だが、いつかふたりが一緒に暮らすようになってだよ」

 というワンセンテンスからしてすでに、この少女的にセンセーショナルなシミュレーションなのである。計らずも椎名の意識は遠退いた。

「ふたりで一緒という状態に慣れ、男が男でなくなる顛末(てんまつ)だってあると思うんだよ」

 そして少女、黒の多い円らな瞳を窓辺へと流すと、珍しく、センチメンタルに呟いた。

「あの

だって言っている。おまえに出したい退職届け──と」

(きみまろ?)
(きみまろ?)
(きみまろ?)
(きみまろ?)
(きみまろ?)

 にわかに女子たちが狼狽する。明らかに関連性がぼやけた。

「つまりだよ」

 目と目でドヨめきあう椎名たちには構わず、短い右の人さし指をまっすぐに天空へと向けると、少女は滔々(とうとう)(さえず)った。

「男が男でなくなれば、もはや侘か寂しかないんだよ。こうなってしまっては、ふたつでひとつの懊悩(おうのう)がいかに幸せなことだったかと嘆いてみたとて覆水は盆に返らず、昔日は戻ってこないんだよ。つまり、男ナンテ、女ナンテと歯噛みすることが最も贅沢(ぜいたく)な時間なのだと噛みしめ、苛立つ瞬発力を努力してキープすることこそが明るい未来へとリンクさせられる秘訣だと思うんだよ。だから映美は、意識したそのままを武器にして彼氏と闘えばいいんだよ。彼氏を確かな男だと見込んだ上で、これが私の恋なのだと、ぶつかっていけばいいんだよ。もしも闘いの果てに映美がボロボロになってしまったのならば、また学校に来ればいいんだよ。今日のようにみんながフォローしてくれるはずなんだよ。そしてフォローされたすべてを持ち帰り、また意識するままにガッツリと闘えばいいんだよ。そう、意識するままに。そうすれば、映美さえ折れなければ、やがては勝利をものにできる摂理なんだよ」

(摂理、きたぁぁぁ!)
(摂理、きたぁぁぁ!)
(摂理、きたぁぁぁ!)
(摂理、きたぁぁぁ!)
(摂理、きたぁぁぁ!)

 当初、よもやこれほどディープな話になるとは思っていなかった。実際、こんな展開なんて特に望んでいたわけでもなかった。相も変わらぬリアルを余儀なくされるのだと、きっと誰もがドライに諦めていた。

 しかし、この革命的な風である。

 圧倒されるしかなかった。ゲリラ豪雨のはじまりに目を奪われるように、まるで為す術もなく、ただ茫然と。

 とはいえ、少女のそれは、開拓的で革命的でありながらも、実に優しい風だったのである。大地を激しく叩きつつも、その実、永遠の潤いをもたらしてくれる豊穣の嵐のよう。おかげで椎名はすっかりと酔い痴れ、事の発端である河田におよんでは涙目だった。

(パパとママに聞かせてやりたいわ)

 椎名は思うのである。両親にはもはや、男女としての意識がなくなっているのだと。だから、ああも侘か寂かに家内が蝕まれているのだと。湿っぽく、手も足も出ないセンチメンタルに。

 今や通学路に期待を見出した椎名である。裏を返せば、かつては椎名家にこそ期待を寄せていたマイペース三昧の末っ子である。

「映美。意識だよ。意識するままに動くんだよ。考えるんじゃない、感じるんだよ」

 この少女を見ているだけで宙を踏む。まるで巨翼が生えたように、軽やかに。

(これもひとつの巣立ちだろうか?)

 今の両親のようにはなるまいと、男女の意識を絶たない夫婦関係を見つけたいと、宙を踏んでいられる家庭を築きたいと、強く意識する椎名である。

(詩帆さんは、どうだろう?)

 どんな家庭を?──小さな巨人を見た。

 しかし少女は椎名の憧憬(あこがれ)に気づく気配もなく、むしろ、よせばいいのに、

「ぜったいに──」

 もうシメにかかろうとしている。

「絶対に負けられない闘いがそこにはあるッ!」

(ああぁぁぁ……ざんねん!)

 裏切らない人だと、宇宙まで踏んでしまう椎名なのである。




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