証言者 004 ≪ 滅入る男

文字数 4,164文字

 



■ 練馬春陽高校2年6組の生徒
  井端(いばた) 芳弘(よしひろ) ── Said




 うおおおおおお!

 グラウンドから、大地を低く這うような女子の歓声が轟いてくる。

 孤独を感じたとたんに弱い声で媚びてみたり、仲間内の人気をものにするために1オクターブも高い声ではしゃいでみせるくせに、いざ徒党を組んだとたんに欧州サッカークラブのサポーターのような歓声を出せるのだから女子とは侮れない生き物である。あの轟音をまともに浴びて、さて、虚勢を張っていられる男子がどれだけいるだろう?

(僕にはムリ)

 ただでさえ声の小さな井端芳弘である。腹から声を出せという理不尽を強要されること星のごとしで、耳をそばだてる努力を怠ける者どもを呪うことダークマターのごとし。

 あくまでも心の中に──である。

 案の定のように気弱で、滅入りやすく、隣人からの挨拶だけで一憂一憂してしまう井端である。そう、彼の辞書に「一喜」という言葉が記載されたためしはない。

 うおおおおおお!

 登校後も間もなくに気の滅入ってしまった井端、今日もまた、静かな保健室の蒼白に融和している。キヲツケの姿勢をそのまま倒した仰向けの身体に、ミカン色のタオルケットを皺もなく被せている。

『おはよ』

 クラスの女子生徒のさらっと投げかけた挨拶が、果たして誰に対するものなのか、確かに耳もとに聞こえはしたが、あるいは数m先にいる女友達に対しての挨拶だったのかも知れない、でもそれにしてはヤケに近くから聞こえたのであり、まさか自分に向けられた挨拶だとでもいうのか、ならばお返しの挨拶をするべきなのか、しかしすでに彼女はこの段階で遥か彼方、今さら挨拶をしたところで届くはずもなく、ならば大声を出して返すべきだろうか、ただでさえ声が小さいと叱られる自分がやはり腹から声を出して挨拶を返すべきなのだろうか、とはいえ数m先にいる女友達に向けての挨拶だったとしたら赤っ恥なのであるからして──などと逡巡(しゅんじゅん)しているうちに気が滅入ってしまった次第。

 とりあえず1時間目は受けたものの、滅入った気分が尻尾を見せることはなく、むしろ、より深みへと隠れていくばかり。で、底のほうを先に見つけてしまった井端は、とうとう保健室の門扉を叩き、保健教諭の許可をあっさりと獲得、今、蒼白の世界に静々と横たわっている。

 いえあああああ!

 日本男児的な歓声が米国劇場的な歓声に変わっただけで轟音であることに代わりはなく、これらの重厚な轟きの要因を井端は推理してみる。

(おおかた)

 30分前、ベッドに横たわる直前、知った面立ちの女子たちが次々にグラウンドへと向かうのを窓辺に見ていた。

 2年3組の女子である。

(勇猛果敢な脚力でトラックを駆けたか)

 ならば、そこは、

の土俵である。

(天衣無縫な胆力で根性あがりをしたか)

 不思議なほどに恵まれている少女である。

(おおかた、そんなところだ)

 いや、むしろ豊穣の女神(バステト)から強奪するようにして恵みを獲得した少女である。

詩帆(しほ)さん)

 明確な情念が芽生えるほどには有効的接点の少ない少女である。なにしろ、井端は6組であり、少女は3組。なおかつ、彼は腹から声の出ない無類の虚弱体質であり、少女は無双のカリスマである。これで接点が持てたら世界なんてあっという間にひとつになれる。

 しかし、たとえ接点はなくとも、井端の胸の中にあるナニカのドコカが気になってしまう少女である。もちろんそれは彼に限らず、恐らくは当校の男子生徒全員に同じことがいえるのだろうが。

 そう、あの少女は、我が高校のすべての生徒の気にかけられている。

 一説によると、極めて不条理な少女であるという。ウザいとも評価されかねない少女であるという。次の手がまったく読めず、神出鬼没、他人の私物を勝手に持ち出し、必ずやそのままの状態にして帰宅、翌日、マスカラの話題をドルトムントの首脳陣批判へと勝手に()り替える少女であるという。

 これが偽りのない真実であるとすれば、とんだ曲者である。

 しかし、

(詩帆さん……か)

 不思議と、人気絶頂。

 男子はもとより、不思議なことに女子からも好かれている謎の少女である。人気絶頂のカリスマが対象とあらば、すかさず影に隠れてネガティブキャンペーンを張りたがるのが俗にいう「女心」だそうだが、そうしたウェットな世知辛さを当校の巷説に聞いたためしはない。

(なんなんだろうな)

 むろん、外見の美しさもあるだろうが、

(カワイイとは違う)

 それだけが要因であるとは思えない。

 悩みどころである。じゃあなんなのだと質問されたところで、彼女はロジカルに説明してみせるための材料に薄い少女なのである。材料が不足しているという意味ではない。あくまでも「不透明」という意味である。なにせ、普通、人気絶頂にある有名人というのは材料不足には陥らせないはず。わずかでも観察すればいくらでも拾える存在なのである。しかし件の少女ときたら、拾った材料をどう組みあわせてみたところで、結局、合理的な説明には至らせない。

 どうやら、理論的に語らせる少女ではないらしい。感覚的に「I Guess」と呟いて語尾を濁させる少女であるらしい。

 いや、話してみればわかるのだろうか。

 問題なのは、理路整然と話しあえるかどうかである。もしも件の少女が噂どおりの人物であるとすれば、井端の畑ではないサッカー談義に始終し、手玉に取られて翻弄されることは火を見るよりも明らか。だいいち、彼は腹から声の出ない虚弱体質なのであるからして、カリスマと対話するよりも前に自分の脆弱さに滅入って保健室へと逃げこんでしまうことは明々白々。

 まことに悩ましい。

(あぁいや。まぁ気にするな。どのみち接点なんてないのだから)

 井端は、強引に忘れてしまうことにした。余計に気が滅入って透明人間になりそうである。とはいえ透明人間のポテンシャルを活かす度量もない。実は見えていたりして──必ずや葛藤し、今度は魂のほうが滅入るはず。

(眠れ。眠ってしまえ。眠って思考をリセットしてしまえ)

 そう決意した直後、

 うおおおおおお!

(おおかた)

 再び、女子が轟音をあげた。

破邪顕正(はじゃけんしょう)の極意でソフトボールを蹴ったか)

 気を滅入らせるには打ってつけの真夏である。時雨れるどころか雷雨の勢いで蝉は鳴き、追い払ってくれる風もない。ここ数日、(なぎ)である。ところが、学校サイドは遠慮なく節電の意向で、ただただ衣類を不埒にさせるばかり。例えば風鈴のひとつでもあればモチベーションも変わるだろうに、根性論を優先する当校は風流さえも許さない。これで健全なる青少年の育成を唱えているのだから本末転倒である。

 膝の裏が汗に濡れているとわかる。しかし、拭ったところで湧くものは湧く。やむなく井端は、まっすぐな姿勢で目を閉じた。

 グラウンドでは相変わらず2年3組の女子たちがやいのやいのと賑わっている。夜祭の賑わいである。しかし(わずら)わしさはない。むしろ、なんとなし癒しの波長さえも感じる。スイカを手に、ずっと遠くから届けられる祭囃子を聞くでもなく聞いているかのような、そんな郷愁の響き。

 自然、井端の表情筋は弛緩。

(ソフトボールを足で打ったのならば)

 朦朧(もうろう)とする鼓膜には、蝉の声と女子たちの賑わいとを(ぼか)した心地よい静寂(しじま)だけ。

(保健室に搬送されはしないだろうか?)

 例えばの話、件の少女から腹から声を出せと言われ、理不尽に思うだろうか?

 気になる存在から──である。

 理不尽だとは思わないのかも知れない。気になる存在である以上、井端のほうに腹を立てる理由はない。

 ただし、少女を落胆させてしまったかも知れないとして気が滅入ってしまうことはあるのかも知れない。腹式呼吸を命ずるほどである、少女のお眼鏡に適っていなかったというわけであり、ゆえに自分の腑甲斐なさを呪うことはあるのかも知れない。

 そう、例えばの話、件の少女が保健室に緊急搬送されてきたとする──右足の甲を打撲して。ところが、少女は神出鬼没である、ひとッ所にはとどまらないかも知れない。もしや、かたわらに横たわる井端の存在に気づき、この枕もとに立つかも知れない。そこで何気ない会話が為されたとして、しかし虫の息のように小さな井端の声にムシャクシャし、腹から声を出せと命令することがあるかも知れない。

(若い男女が、保健室で)

 ラノベのような展開である。しかし、せっかくのドラマがたかだか声の大小で破綻してよいものなのだろうか?

 滅入ったあげくの最後の逃げ道として、この保健室は存在するのである。仮に、これ以上に気が滅入ってしまったら、井端にはもはや癒着のオアシスが存在しない。

 つまり、せっかくのドラマ、ものにしてナンボという理屈になるのである。

(できるのか? ものにできるのか?)

 声の大きな人は話題も豊富なはず。喉が鍛えられるほどの情報量と話術とを擁しているはず。すなわち、声の小さな井端に、果たして曲者少女を(ぎょ)するだけの潤沢なキャプテンシーがあるのかどうかである。

 友達はおらず、徒党も組めず、恋人などいようはずもない井端に、果たして。

(ムリ)

 やはり、彼の辞書に「一喜」はない。

(眠っていたほうが幸せだろうか?)

 枕もとに立たれる僥倖(ぎょうこう)を爆睡によって砂にしたとしても、虚弱体質を露呈して落胆させるよりはまだマシな気もする。

 と、不意に、詩帆さん足はやめてぇぇぇ!──女子の悲鳴が流れてきた。裏切らない少女である。

(本当に担ぎこまれるかもな)

 ソフトボールの硬さを知らないでもない井端である。朦朧としながらも、自然と、

「ん。ううん」

 喉の調子を整えている。

 これが恋心というものなのか、片想いというものなのか、井端には判然としない。あるいはそのいずれでもなく、アイドルに対するものわかりのよい羨望なのかも知れない。ゆえなる妄想であり、ゆえなる(せき)払いなのかも知れない。

 しかし、井端の真夏は寝返りを打つことも知らず、相も変わらず()いだまま。どれだけ僥倖のラノベを妄想し、腹式呼吸のできる可能性へと喉を整わせたところで、この凪のリアルは永遠に変わらない。

 それが証拠に、

 うおおおおおお!

 無情にも、女子たちは叫ぶのである。

 詩帆さんナぁイスサーブ!──って。




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