怒ってはいけません

文字数 1,371文字

――怒ってはいけません、悲しんではいけません、なぜならそれらは醜い感情だからです。いつでも微笑みを絶やさず、明るく周りを照らしていなければなりません。
怒鳴ってはいけません。泣いてはいけません。なぜならそれらははしたない行為だからです。
ものごとを楽しんで、笑って喜びなさい。すると周りもまた笑って喜ぶでしょう。
そうして幸せに生きていきなさい――

ずっと母からそう言い聞かされて育った。
いや、言い聞かされてなどいない。実際には母はそんなこと一言も言わなかった。
私は母の考えていることが自分のことよりもよくわかったから、言われなくともわかっただけだ。
別に母は感情ダダ漏れで情動のままに突き動かされ生きていたわけでもなく、私が取り立てて敏感だったというわけでもない。
ただ、この母の教えはいつでも勝手に私の心の中に流れ込んできては私に訴えかけてきた。
私の気のせいかもしれないし、受け取り方の問題かもしれない、もしかして全くの勘違いだったかもしれない。
それでも母は、私が機嫌良く絵を描いていると頭を撫でてきて、私が笑いながら音楽に合わせてくるくる回ってみせると、拍手をして、動画に収めようとまでした。
一方で、妹が私のアイスを勝手に食べて私が怒ると、何事もなかったかのように食卓に箸やグラスを並べ出し、お気に入りの人形の首がもげ、私が泣くと、すっと立ち上がりベランダの洗濯物を取り入れ始めるのだった。
よって、受け取り方は正解だったんじゃないかと思う。次第に私は母の教えに忠実になっていった。
マイナス、と呼ばれるような感情をないものとし、プラス、と呼ばれるような感情だけを所持して生きていくのだ。
私はうまくやっている、つもりだった。

その晩私は眠れなかった。
予約した時間に歯科医院まで行ったのに、私のつめものが準備できていなかった。
完全に向こうの手違いだったが、受付で笑いながら軽い調子でその事実を告げられ、予約を取り直して私は帰らされた。
門前払いのような形で謝罪の言葉はなく、私が勘違いしているかのような扱いまで受けた。
時間休まで取って、慌てて駆けつけたところでの顛末だった。仕事の段取りで大変な思いをし、職場に迷惑もかけた。歯科医院までの交通費もかかっている。
それでも私のしたことといえば、そんな些末なこと、私は気にしないのでどうかそちらもお気になさらず、と笑顔を貼り付けて、へこへこと頭を下げてさっさと医院をあとにすることだった。

また別の晩私は眠れなくなる。
役所で手続きをするのに、一人の職員に言われた通りに私は手順を踏んだ。ところが後からやって来た別の職員に文句を言われる。
やり方が間違っており、手間が余計にかかった、勝手なことをされて仕事が増えた、他の人の順番を抜かしてズルをしたとまで言われた。
ほとんど罵倒だった。
何がそこまで、と驚きはしたが、やっぱり私のしたことといえば、申し訳なさそうな顔をして謝り、なんとかその場を収めることだった。

いつでもその場には間に合わず、素知らぬ顔して遅刻してくる。
アイツは後からやって来て、私を眠れなくさせた。
ふつふつと湧き上がる憤怒、私は怒ってもよかったのではないか。
何より私が憤慨するのは、ぼんやりとやり過ごす、自分の感情に蓋をして、麻痺させて自分をないがしろにする、怒ることのできなかった自分自身に対してだった。
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