つきあい方がわからない

文字数 1,638文字

起こったことに対する感じ方は自由なはずだ。放っておくと、心は勝手にさまざまな反応を示す。
私は怒りや憎しみなどを感じないようにするため、心の感度を下げていた。
それはマイナス、と呼ばれる感情を感じにくくすると同時に、プラス、と呼ばれる感情をも殺すことを意味する。
私は怒りに肩をわななかせたり、泣き叫んだりすることをしない一方で、楽しくて笑い転げたり、喜びにジャンプしたりすることもなかった。湧き立つ感動に鳥肌を立てたり、放心して涙を流れるままにしたりすることもない。
淡々と日常は流れていた。
色を持たぬ日々は私の心をますます殺し、生きる意味を見出しかねるほどになっていた。私は苦しかった。

「鈴原さんて怒ることあるの?」
取引先の沖田という男に聞かれた。
私がよく言われる言葉だった。
「当然。ありますよ」
私は笑いながら答える。
ただしそれは遅れてやってくるのだ。
その分私は己の不甲斐なさという、本来感じなくて済んだものまで受け取らざるを得なくなっているのでは、と考えるようになった。

怒りの感情をあらわにしないことで、人間関係は波風の立たぬ平穏なものになっているのかもしれない。
他人を無碍に傷つけぬ、人当たりのいい人物として、高い評価を得られているかもしれない。
それでもそれが自己犠牲の上で成り立っているのなら、私は考えを、やり方を、改めた方がよいと思えた。

意識を集中し、心を解放する。
初めはスマホで写真を撮ることから始めた。
それからちょっとしたことを書き留めたり、感嘆符を声を出して言ってみたりした。
私は生まれた感情を察知したなら、殺さず逃さず、捕まえるように努めた。

それが卵だったのかにわとりだったのかはわからない。
私は沖田という男が気になり始めた。私の歩みは一気に進む。
彼の一挙手一投足に、心が激しく揺れることが増えた。
姿を見かけただけで鼓動が激しくなった。話す時は笑顔になり、体温が上がるのがわかる。
私の心は一気にいきいきと脈打ち出した。

「鈴原さんも行きませんか?」
沖田に誘われて、飲みに行くことになった。
私は朝から完全に浮かれていた。
服を選び、メイクをして髪を巻く。
生きてる、と思う。私は生きてる。
突如町は色を持ち、風は優しく頬をなで、日の光がこの世を祝福する。

三寒四温の日々だったが、気温も高く風のない、穏やかな夜だった。
沖田に指定されていた居酒屋ののれんをくぐった私は、がっくりと肩を落とす。
二人きり、だとまでは考えていなかったが、そこでは大勢の同世代の男女が騒がしく酒を飲み交わしていた。
学生の、飲みサークルのような雰囲気に、デートに誘われたくらいの勢いだった私は萎える。ただし、ここではっきりと落ち込む自分の感情を察知できたことは、私にとっては遥かなる進歩だった。

沖田は細やかな気遣いのできる、優しい男だった。ユーモアのセンスもあり、彼の周りは笑い声が絶えない。
彼が人気なのは当然だった。
私は彼に話しかけられては居酒屋の天井を突き破って舞い上がり、宇宙の果てで空中遊泳を楽しみ、彼が他の女と話すのを見ては、居酒屋の床を掘りおこし、地球の奥深くで石油にまみれてどろどろになることを繰り返した。
そしてついにやってしまう。感情を持て余した私はわっ! と泣き出し居酒屋を飛び出してしまうのだ。

誰も私のことなど気にしていない。
明日のことなど気にするなよ。
いくら言い聞かせても、あとからあとから後悔は湧き出て、羞恥心でいっぱいになる。私は自室のベッドの上で、ごろごろとのたうち回っては、起こったことを反芻した。
酒が入っていたとはいえ、とんでもない失態だった。
最小限に固定されていた心の感度のチューナーを、調節するのは難しかった。この世の地面との着地点を定めきれない。

より多く、より深く感じるようになった心の動きは、確実に私の日々に色をもたらし、さまざまな営みの価値を高めることに貢献した。
ただつきあい方がわからなかった。
打ちのめされ、途方に暮れた私は、再び何も感じない私に戻りたくなる。
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