第一章 探偵はたぶん死んでいる ②

文字数 1,740文字

 絶景とまではいかないが、心に響く光景だった。
 
 太陽に溶ける海――詩人が見つけた永遠は、おそらく夕日であったのだろうが、溶けた海から姿を現すそれもまた、永遠を感じさせるものだった。

 死ぬには悪くない場所だ。
 コートのポケットに手を突っ込み、そんなことを考える。
 スマートフォンを取り出しアラームを止めた。手元には指先一つですぐにつながる通信手段、しかし彼に焦りは見えない。

 破滅は覚悟のうえか、いやだね、(しがらみ)のない独り身は。

 内心でため息を吐きつつスマートフォンをポケットに仕舞(しま)う。再び手先が隠れるかたちになったが、やはり今度も彼は反応しなかった。

 詰みに近い状況だった。
 (あらが)(すべ)なく、逃げる(すべ)なく、残った道は、諦めるか、あるいは諦めさせるかだけ。
 素手での抵抗、なんてものは考慮するだけ無駄だった。仮に虚を()けたとしても、五秒と持たずに制圧される、無論、銃など使わずにだ。

 現状、こちらから起こせる行動(アクション)は何もなかった。そして彼もまた、絶対的優位に立ちながら動くことが出来ずにいる。
 動きの止まった二人の間を木枯らしが吹き抜けていった。訪れにさえ気づかれないまま、秋が立ち去ろうとしていた。
 彼の分厚い手は、この程度の風で(かじか)んだりはしないだろう。冷え始めた両手を伸ばした袖のなかに隠し、そんなことを思う。
 見つめるさき、銃口の向こう側には見知った男の見たことのない表情(かお)がある。
 その歪んだ顔を照らしながら、昇り始めた朝日が闇を払い尽くそうとしていた。あの半円が綺麗な火輪を描くとき、私は果たして生きているだろうか。

 出来れば生きて見たいものだが――

 生存への道筋は(おぼろ)げながら見えている。しかしプライドが、羞恥心が邪魔をして、最善策を選べずにいる。
 生き残ったその先に、夢や希望の一つもあれば、容易く腹も(くく)れるのだろうが、生憎そんなきれいなものは、生まれてこの方一度も持ったことがない。
 希望はない、夢もない。けれども多少の未練はある。
 探しつづけた獲物の居場所をようやく見つけたところなのだ。保険は一応かけてある。しかし

が私の死後、どう動くかはわからない。
 ならば私がやるしかない。そのためなら、プライドくらいは捨ててやろう。

 足掻く理由は見つかった。心の準備が整った。
 幸いにして、時間はこちらの味方だった。
 殺意は燃える炎が如し、薪がなければそれはつづかず、そんな言葉を思い出す。
 沈黙、停滞、この場はずっとそれらに支配されてきた。
 二人が対峙して以降、彼の炎に()べられた薪はただの一つもない。
 怒り、失望、正義、義務感、そんなものをかき集めて、必死に起こしたその殺意(ほのお)、今の火力はどの程度だ。
 気づいているか、公務員。
 日差しは殺意を(やわ)らげる、時は決意を鈍らせる、人は(やす)きに流れるものだ。殺す理由と殺さぬ理由、この数分でどちらが増えたか。止まらぬ震え、苦悶の表情、答えは聞くまでもない。

 覚悟を決めたつもりの男は、いまだ躊躇(ためら)いのなかにいるようだった。
 正義、社会秩序、彼は守るべきもののため、私に銃を突きつけている。そして同時に、矛盾を突きつけられている。
 殺すべき者、守るべき者、目の前の(ソレ)はいったいどっちだ。
 その自問こそが袋小路の入口だった。
 人を(あや)める覚悟はあろう、罪人(つみびと)()ちる覚悟もあるだろう。
 しかし足りない、私を()るにはまだ足りない。私を殺すということは、倫理の壁を叩き壊すということだ。

 彼は気力を振り絞り、銃を握った右腕にどうにか力を込めようとしている。目の前の壁を乗り越えようと、ただ懸命に足掻(あが)いている。そのやり方では届かぬと、彼自身とうに気づいているはずなのに。

 お前は

だった、喜ぶことだよ、それは。

 相棒と呼べるほどの関係ではない。それでも共に、修羅場を潜った仲ではある。
 最後は私が引導を――それが情けというものだ。

 S&W (スミス&ウェッソン)、 M3913――獣のような咆哮とともに、彼は両手でそれを構える。そして私は今日この場所で、最初で最後の言葉を放つ。

 三文字だ――

 多くを語る必要はない。この三文字でお前の心をへし折ってやる。

 遠く南の街の方からサイレンの音が聞こえてきた。私はコートのフードを被り、両手を挙げて小さな一歩を踏み出す。そして彼は――
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