第6話

文字数 12,628文字

「よーう、原田。ひっさしぶりぃ」
 六本木にあるベトナム料理店。照明はやや暗いが、店に入ると相手はすぐにわかった。フランス植民地時代風の装飾をほどこした店内で、全身から開放的なオーラを放っている。そよ風もさわやかな金曜の夜、店内は楽しそうな客たちであふれている。
「ご無沙汰しています。遅くなってすいません」
「元気そうじゃないの。ビールでいいか。ベトナムの」
 言いながらウェイトレスを呼びとめ、もう勝手に注文している。
 テーブルにはスパイスの効いた煮魚料理が並んでいる。一人で始めていたらしい。
「電話くれて懐かしかったよ。五年前のOB会以来かな。おまえ今は東西生命にいるのか。たしか前は車とか株とか売ってたよな。いまは保険か。ふうん」
 長田悟朗は大学時代のサークルの一つ先輩である。メンバーが最も多い時期に二人で運営を切り盛りした。やや丸い体型は今もあまり変わっておらず、育ちのよさからきている大らかな性格もそのままのようだ。変化といえば、頭髪が少し薄くなったくらいか。
「長田さんも変わりませんね。元気そうだし」
「そんなことないよ。太っちゃったし、こないだの会社の健康診断で血圧と中性脂肪の値が高いなんて言われちゃってさ。おれ、まだ三十四だぜ。冗談じゃないよなあ。でもうちのじいちゃんが血圧だったんだよね。怖いよなあ。ジムとかもめんどいしなあ。保険とかちゃんと入っとかなきゃなあ。そうか、原田に訊きゃいいんだ。何かいいのある?」
 そう言いながらも箸を止めない。鯛に似た魚の煮つけをほぐし、いかにもうまそうに口に運ぶ。無防備に思えるほどの人懐こさ。対外的な折衝を担当する原田に対し、長田はサークル内部の雑事をさばいていた。内輪でトラブルが起きても、そのキャラクターで何となく収めてしまう。そんな人物だった。
「そういう方にぴったりの保険がありますよ。医療保障に重点をおいた割安の保険。今ご説明しましょうか」
「ごめん、やっぱやめとく。原田に勧められたらきっと入っちゃうもん。勝手に保険なんて入ったら女房に怒鳴られちまう」
「残念だなあ。ほんといい保険なんだけどなあ」
「原田はまだ独身なのかい」
「誰も寄りつきません」
「そんなことないだろう。いいよなあ。自由で。原田も結婚したらわかるよ。家族ってのは窮屈でさ。金もかかるし」
「そんなこと言って、ほんとは幸せ太りなんでしょう」
 ビールが届き乾杯をした。ひと通りむかし話をしながら、フランス風に洗練された東南アジア料理を腹に収めた。
「で、今日はどうした?」
「ええ、じつは……」
 本題に入る。原田は、長田先輩の取引先の外資系生保の人事担当者を紹介してもらえませんか、と切り出した。
 長田は独立系中堅証券会社の創業者の孫だ。今の社長が父親で、自身も役員に名を連ねている。不景気でかつての勢いはないが、時代の流れを巧みにとらえ、堅実に生き残っている。
 学生の頃から財界人や著名人との人脈があった。着ているものや通う店のランクが周囲の学生とは明らかに違っていた。それが嫌味でなかったのは人柄のおかげだろう。両親ともに町田の教師の家庭に育った自分など、絶対に足を踏み入れることのできない世界でこの人は生きている……学生時代にそう強く感じたからこそ、原田は彼を尊敬し、同時に屈折した劣等感を抱いてきた。
 自分はこの人みたいに環境に甘やかされてはいない。自分の力で登ってやる……。
「それで困ってるの? 転職するにしても、原田みたいに優秀だったら行き先に困ることなんてないんじゃないの」
「転職ってのはタイミングが大事なんです。人事として採りたい人材がいても、人件費には予算があるから、一人採るには一人やめさせなきゃならない。正社員一人を辞めさせるのがどれだけたいへんか、経営側である長田さんならよくわかるでしょう」
「わかるわかる。組合もうるさいしなあ」
「外資系の生保なら、ぼくの力を最大限に発揮できると思うんです。ふつうに中途採用に応募してもいいんですが、面接を一つずつこなしていくのは結構な手間と時間がかかります。こう言うとえらそうですが、ぼくは生保の営業としてはよくやる方だと思いますし、大口の顧客もついています。今は、さっき言ったようないきさつで事務にいますが、ここではお客さんへの情報提供も満足にできません。放っておいたら顧客が別の会社に逃げてしまうでしょう。こんなことをする東西生命の人事はおかしいと思うんです。だから、できるだけ早く転職を決めてしまいたいんです。お客さんのためにも」
 長田は少しの間、うーんと考え込んだが、
「うん、わかった」
 と、あっさり言ってくれた。
「本当ですか」
「USライフとアトランティック生命だったら人事部に伝手がある。結果は約束できないけど紹介はできる。でも、どっちもノルマがきついことで有名だ。それでもいいかい」
「もちろん」
「じゃ、明日にでも履歴書とセールスとしての実績がわかる資料をメールで送ってくれよ。ああ、それから……」
「はい?」
「一つ確認しておくけど、原田が今の部署に行かされたのは、例の不払問題による会社の理不尽な人事政策のせい、本当にそれだけなんだよな。原田のほうに理由はないのに、会社が本人の意向と適性を無視して無理やり移した。そういうことで間違いないんだよな」
 長田は経営者の目になっていた。
「……そうです。ベストの事務体制を作るには、営業の視点も要ると判断したんだと言っていました。ぼくは最初、断ったんですけど、人事の意向がとても強くて……」

 ユミちゃんとのアポは週明けの月曜日だった。原田は朝から気分がよくなかった。晴れて暑い陽気のせいばかりではない。この案件は、何故か関わるほどにゆううつになってくる。
「何が心配なんだ」
「貧乏ってのはな、感染するんだよ」
 誰かが金に困る。ふつうはまず家族が助けてやる。そんな借金はたいてい返済されないから、家族もその分貧乏になる。次いで親戚、友人、知人。だんだん薄まってはいくものの、身近に貧乏人がいるほど人は貧乏になりやすいといえる。
 人間関係が濃いほど感染しやすいという意味で、貧乏はスマホのアドレスブックの利用頻度の順に感染していくのだというのが原田の持論である。
「論理的とはいえない」
 と、課長代理はいつものように一刀両断にしてくれるが、青木家でいえば家族四人のうち三人までが金に困った状態だ。残る一人だけ経済状態がいいはずはないではないか。どんなに仲が悪くたって、実家や家族の番号を登録していないというのは考えづらい。
 ところが出かける前、荒川はインターネットで検索したページを印刷して持ってきた。
「へえ。有名人なのか」
「そのようだ。ここに出ているのはある女性誌のインタビュー記事だ。ライターの主観と思われる部分を除外して事実だけを抜き出すと、以下のことがわかる。由美さんは四年前から青山で友人と共同でイタリア料理店を経営している。雑誌やテレビで紹介されていてけっこうな人気店のようだ。住まいは麻布のマンションと書いてある」
 事実なら経済的な苦境にはない可能性が高い。紙面では気の強そうな女性が、画素の粗い写真の中で微笑んでいる。
「おまえ、ひまだな。苦情の客は全部そうやって調べてんの」
「ネットは重要な情報源だ」
「妹ちゃんはマジであの家族の一員かって感じだな。開業資金はどうしたんだろう」
「大学時代に株や為替の取引をして作った資金だそうだ」
「金があるなら工場を助けてやりゃいいのに」
「家族だからといって援助をする義務はない」
「ケンちゃんだって、娘に頼れるくらいならとっくにそうしてるはずだ。父娘の関係はよくないと見ていいな」
「記事によれば、彼女は自分の意見をはっきり言う、行動力のある女性だということだ。自立心が強く、高校生の頃から将来はビジネスの世界で自分の力を試したいと思っていた。幼い頃から、周囲からちやほやされる兄への対抗心をバネにして事業を成功に導いた」
「ってことはだな」
 お兄ちゃんの残したお金なんていらないわ、ってな展開があるかもよ。冗談のつもりでそう言ってみたら、
「望ましい。受取人候補は母親と弟に絞られる」
「んなわけねえだろう。有能な商売人がこんな機会を逃すかよ。それに、もしこの妹ちゃんが当選ってことになってみろ。あとの二人が黙ってないぞ。あいつはもう金を持ってるじゃねえか、ってな。たぶんそれが一番厄介なパターンだ」
 そして今、静かなクラシック音楽が流れるシティホテルのティールームで、受取人候補ナンバー・スリーのユミちゃんは二度、三度と深くうなずいている。
「そういうことだったのね」
 大理石を基調とした硬質なインテリアに彼女の明るいグレイのスーツはよく似合っている。義理の母親とは違って、こちらはどうやら今年の最新モデルだ。注文した飲み物はロイヤルミルクティー、一杯一、五〇〇円也。
 初対面の男二人からいきなり免許証の提示を求められたうえに、あなた一億円が当たったかもしれませんよと告げられたにしては、ずいぶんと落ち着いた物腰だ。
 全体的にすらりとした体型。キツネ顔の造作は十人並みの少し上くらいだが、ファッションと化粧と表情――勝気と自信――が加点要素になっている。原田の好みではないが。
 いいぞ。どうやら色ボケ母さんや駄目ガキ弟くんとは違って、妹ちゃんはまともに話のできる人物のようだ、と原田は思った。
「何かあると思ったのよ。昨日、母が急に突然電話してきて、元気なの、みたいなことを言ってたわ。何を探ろうとしたのかしら。馬鹿みたい」
 またしても母親の話題が最初だ。原田は言った。
「お名前をネットでお見かけしたことがあります。人気店のようですね」
「お世辞はけっこう」
 妹――ユミちゃんは目線を抑えて薄く笑った。ここから荒川。
「この保険金を、お兄さんがどなたに残そうとしたのか、お心あたりはありませんか」
「面白い人ね。私に聞くの?」
「事情をご理解いただいたようなのでお訊ねするのです」
「ふうん……」
 ユミちゃんはあごに指をあてて考える仕草をして、わからないわね、と言った。
「そんな保険があることも知らなかったし……」
 そこで荒川は先の二人にしたのと同じ説明をした。ユミちゃんはうなずき、質問があると言った。
「東西生命としては、この件ではとくに誰が有利という見解はないのね。つまり、誰が代表になるかは、現時点ではまったく白紙ということね」
「その通りです。判断材料は見つかっていません」
「もう一つ。兄は、どうして保険になんて入ったのかしら」
「私どもにはわかりかねます」
「恋人か婚約者がいたんじゃないかしら」
 ふむ。それは今まで考えてみなかったな。
「そのような方がいらっしゃったかどうかは不明です。たとえいらっしゃっても、保険金はあくまで契約上の受取人にお支払いするものなので、今回は無関係と思います」
「兄が加入のときにどんなことを話していたのか、会社に記録は残っていないの」
「募集担当者なら当時のことを覚えているかもしれませんが、すでに退職済みで連絡がとれていません」
「……やっぱりわからない」
「何がでしょう」
「加入理由よ。兄は子どもの頃からとても身勝手な人だった。周囲の迷惑なんて関係なく、自分のやりたいように振る舞っていた。そんな人が自分の死後、誰かのことを心配してお金を残したなんて、私には信じられない」
 ユミちゃんの話はこうだった。
 彼女とダイちゃんの兄であるショーちゃんこと青木省吾くんは、幼稚園の頃から近所でも評判の神童だった。勉強がとんでもなくできるばかりでなく、運動をやらせても学校代表くらいのレベルにはすぐになってしまう。彼は幼い頃からずっと周囲の賞賛を一身に集めて成長した。
「そんなふうに言うと、落ち着いた優等生を想像するかも知れないけど全然違ったわ。気まぐれで飽きっぽくて、いつもきょろきょろしていた。自分のことしか考えず、他人の痛みには徹底的に鈍感だった。何かに興味を持つととことんそれに集中して、ごはんも食べずにやってる。でも飽きたらそのおもちゃは放り出して二度と見向きもしなくなる。たとえばそれがギターで、すばらしい演奏をしてコンクールで一位になったとしても、すごいねなんて言われる頃には、本人の興味はもう昆虫採集に移っている。ギターのことは覚えてもいない。ほめられてもその意味がわからずにぽかんとしてる。たしかに天才ね。それは認める」
 このへんの証言は弟くんのそれとだいたい一致している。ただ印象は正反対だ。そんな兄をもつ妹と弟は、当然のようにある災厄に見舞われた。
「クラスメートに、おまえはお兄ちゃんとくらべて全然駄目だな、ってそればっかり言われたわ。そういう発言をしている当人よりも、私の成績のほうが五十番も上なのよ。それなのに何故か私は低く見られた。自分のことを棚に上げて、私と兄の関係だけを見て、私のほうが下だって指摘して満たされる心理って何だろうってずっと考えたわ。そう言ってるあんたは私の足元にも及ばないじゃない。兄貴、私、それからずうーっと下にあんた。そういう順番でしょう。下の者が上の人間に向かってえらそうな口きくんじゃないわよ。そう言ってやると、相手は不当な非難を受けたような顔をする。先に理不尽な攻撃してきたのはどっちよ。ねえ」
 こんなことが中学を卒業するまで延々と続いた。自分は言い返していたけど、弟はただ言われっぱなしで、ただへらへらと笑っていた。それが見ていて歯がゆかった。
「中学の頃、私の成績は学年で三番から下になったことはなかったわ。でも誰もほめてくれなかった。兄がずっと一番だったから。私の作文が都のコンクールで入選しても誰も読んでくれなかった。その前の年に兄の水彩画が全国コンクールで金賞をとっていたから。そんなふうに、ぜーんぶ先回り。私の業績は誰も認めてくれない。せいぜい、さすがあのお兄ちゃんの妹さんだねって言われるくらい。そんなのかえって屈辱だわ。私はずっと兄の陰にいるしかなかった。私は兄の出来そこない。二番煎じ。そう思いながら育ったわ」
 まるで刑罰のようだったとユミちゃんは言った。終わることなく延々と続く、マッタクオマエハアニキニクラベテの刑。
「ようするに自分勝手で、一種の社会不適応者なのよ。周囲の賛辞を一人占めしておきながら、兄自身は無感動だった。冷淡といってもいいくらい。成績がよくて誰も口出しできないのをいいことに、周囲の迷惑なんか無視して、次から次へと好き勝手なことをしていただけ。算数の授業で黒板の前で問題を解けないで困っている子をひどい言葉で泣かせたり、音楽の時間中にふと抜け出して日が暮れるまで校庭の隅でじっとアリの巣を見ていたり、あんなのちっとも立派じゃない。他人を振り回して馬鹿にしていたのと同じよ。私はそんなところが大っ嫌いだった」
 吹き抜けのロビーの天井高くまで、絹糸のような弦楽四重奏が静かに流れている。その優雅な空間の底で、ユミちゃんは家族の過去を呪っていた。
「勝手っていえば、一度、兄が犬を飼いたいって言いだしたことがあったわ。大騒ぎしてた。たしか小学校の高学年くらいのとき」
「犬ですか」
「そう。うちは小さな町工場で、犬を飼うスペースも、世話をしている時間もなかった。なのに兄は泣きわめいて親に頼んだ。何日も何日も、本当に寝ているとき以外はずっとわめいていた。私も弟も、お兄ちゃんはどうしちゃったんだろう、って怖くなったくらい。父はとうとう折れて、どこかから子犬をもらってきた。工場の一部を片づけて犬小屋を置いて飼い始めた。雑種だけど人懐こくて賢かった。テックって名づけた」
「よかったですね」
 ぜーんぜん、とユミちゃんは原田をにらんだ。
「テックが家に来た途端、兄は犬に対する関心を失った。次の日から、世話どころか見向きもしない。昨日までの騒ぎは何だったのよ。さすがに父は怒ったわ。このままでは命の重さのわからない人間になるとか何とか言いながら、兄を座らせて説教した。でも兄には通じなかった。兄が一度失った関心は二度と戻ってこないのよ」
「テックはどうなったんですか」
「世話したわよ! 私が」
 ユミちゃんは再び原田をにらんだ。
「兄は無視、父は仕事が忙しくて世話どころじゃない、母親――あの女――はもとから生き物なんて大嫌い。弟は要領が悪くて、テックのほうが弟を怖がって。だから私が世話するしかなかった。もちろん、兄には何度も抗議したわよ。でも駄目だった。兄はふうんというだけで、ちぎれるほどしっぽを振るテックを道端の石ころみたいに見ていた」
 気の毒な犬と妹。
「私は一人でがんばった。朝、学校に行く前に散歩に連れて行き、放課後は友だちと遊びにも行かず、まっすぐに家に帰ってえさをあげた。テックは私になついた。私が返ってくると跳びあがって喜んだ。私もかわいく思えてきた。しばらくはそれでうまくいった。でも私がかぜをひいて寝込んでいた日、テックが母を噛んだの。原因はわからないけど、きっと母が何かちょっかいを出したに決まってる。怒った母はテックの横腹をけり上げて、保健所に電話した。それで終わり。その日、私は兄と母を許さないと誓ったの」
 ユミちゃんはバッグから電子たばこを取り出して、やめていたんだけど、と言い訳しながら火をつけた。少し上を向いて吹き抜けの空間へ息を吐く。
「――母も人として失格だけど、兄はもっとひどい。あの無関心、無責任さは一種の悪だと私は思う。私はね、いい、兄に顔をまともに見られたことがないの。一度もよ。十何年も同じ家に住んでいたのに。兄にとって私たち家族はそこにいないも同然。石ころと同じ。文字通り眼中になかったのよ。当然、私たちが傷ついていることに気づくことなんてなかった。暴君ね。親たちはどうかわからないけど、私と弟は精神的な虐待を受け続けた」
 紅茶を一口飲んだ。
「天才には一風変わった方が多いと聞きます」
「理解しようと努力もしたわ。大学で心理学や教育学の本を読んで勉強した。今も頭では理解しているつもり。兄の非常識な性格は一種の病気であって、必ずしも本人のせいじゃない。でもやっぱり許せない。黙ってアメリカに行ってしまったのだって、社会人としてとんでもない非常識よね。自分勝手で、そうやって人の邪魔ばかりして……」
 邪魔。その単語で見えてくる。
 ショーちゃんには邪魔をしたつもりなどないだろう。だが妹の主観ではそうなのだ。つまり自分だって――自分のほうが――優秀なのに、兄のせいでずっと正当な評価を受けられず、不当に貶められてきた。それが彼女の思いなのだ。
 人間は常に誰かに共感してもらうことを渇望している。そうそう、それってぼくもよくわかるよ。君もさぞ辛かっただろう。そう言ってくれる人が現れるのを待っている。今ここでそれを言ってやれば、彼女の気持ちをぐっと引きつけることができるだろう。
 しかしそれはセールスのテクニックであって、事務処理を円滑に進めるための手段ではない。今回はむしろ客に深入りしてはいけない。なるべく距離を置いて、スムーズに家族で話をまとめてもらうのだ――さっさと片付けよう。
 荒川が伝達事項の念を押した後、別れ際にユミちゃんが小さくつぶやいた。
「でも、お金を残してくれたのなら、ちょっとは許してあげてもいいわね……」
 伏せた瞳がまつ毛の下でぎらりと光ったのが、原田は少し気になった。

 オフィスに戻ると、原田は言った。
「ユミちゃんの店がちょっと気になるね」
「どういうことだ」
「それは――」
 説明がむずかしい。言ってみればカンだ。
 さっきの話で、彼女は人格形成期の長い年月、兄に対する恨みを抱いていたことがわかった。蓄積されたものはちょっとやそっとのことで消し去れるものではあるまい。一生許さない……それくらい根深いものだろう。彼女の感情生活の根本を成しているといってもいいかもしれない。
 それなのに面談の最後のまつ毛ぎらり発言。許すというワード。
 むかしのことは許してあげてもいいわ、お金を残してくれたのなら。それが原田にはこう聞こえたのだ。むかしのことなんかどうでもいいわ、今はお金のほうが大事だから。
「説得的ではない」
「だからカンだって言ってるだろうが。こういうことだ。レストランの経営は苦しい。でも保険会社に弱みを見せたくない。だから言わない。つまりミサちゃんと一緒だ。三人の中で主導権をとるために手続き書類を先に手に入れようとしている。おれはそう思うね」
 経営状態を確かめたいが、街のレストランじゃ興信所でも調書なんか作っていないだろう。原田はパソコンに向かった。
「やっぱり……」
 グルメサイトの書き込みなんか信用したことはないが、それにしても、
「採点は極端に高いか低いかだな。同じようなコメントばっか。気に入らないね」
「その店、最近おいしくないんですよ」
 原田の背中越しに、笹口佳奈子がパソコンの画面をのぞき込んできた。
「びっくりした。君、この店知ってるの」
「家の近所なので以前は友だちとよく行ってたんですけど、最近はちょっと……。そのお店がどうかしたんですか」
「青山に住んでるのか」
 原田が思わず言うと、はい、と笑顔で答える。荒川が言った。
「理由はちょっと言えないんだが、もう少し教えてくれ。味が落ちたというのは本当かい」
「たぶん半年くらい前にシェフが代わったんだと思います。以前は本場ナポリの、丘の上じゃなくて下町のほうの雰囲気のある素朴な味つけがよかったんですけど、今はすっかり東京のどこにでもあるような安っぽい味になっちゃって」
「客足はどう」
「ここのところ、ほぼガラガラですよ。女子狙いのお店なのにあの味だったら、もっとおしゃれで安いところがいっぱいありますもん」
 どんな案件なんですか、と興味津々の笹口佳奈子を自席に追いやり、原田は言った。
「『青山』に『丘の上』かよ。ふらふらしやがって。ひまなんじゃないか、あいつ」
「彼女は君に次いで優秀な人材だ。呑みこみが早く処理が正確で、異動二日目のテストで満点だったのは君と彼女だけだった」
「いろいろと油断できないな」
「客足が減っているというのは参考になる情報だと思う」
「同感だ。ユミちゃんは大したタマだよ」原田は唇を歪めた。「大事なお店の売り上げが減ってるんなら金は欲しくてたまらないはずなのに、あの平然とした態度」
 あーあ、最初に心配した通りになっちまった。そう言って原田はため息をついた。
「結局、全員がモージャケーキャラだ。ま、家族だからしょうがねえか」
「モージャケーとは何だ」
「金の亡者系。おれは何だかショーちゃんが気の毒になってきたな。家族運がないというか何というか」
「共同経営者がいると言っていたな」
「そいつも今頃、祈ってるんじゃねえの。金持ちの親戚か誰か、遺産を残して死んでくれないかって」
「根拠のない憶測だ」
「そうだ。この店いっぺん行っとくか、ツブれる前に」
「何のために」
「記念にさ」
「やめておこう」
「イタリアンは嫌いかい」
「嫌いじゃない。しかしトラブル案件の関係者との不自然な癒着を疑われるおそれのある行動は避けるべきだと思う」
「ユミちゃんに払わなかったら毒を盛られそうだしな」
「根拠に乏しく、かつ不謹慎な発言だ」

 ――ロンドンへ行きます。
 倉田遥香からのメールはそう始まっていた。
 ――返事はたぶんもらえないだろうと思っていました。本当は会って話したかったけど、無理みたいなので、メールでお伝えします。
 私は今月末で会社を辞めて、ロンドンへ法律の勉強をしに行くことにしました。予定は二年。ひょっとすると、もっと長くなるかもしれません。
 じつは数年前から考えていたことなんです。
 就職氷河期に、何とか大手の女性総合職に潜りこむことができたけれど、正直言って仕事は面白くありませんでした。
 就職浪人になった同級生からは、ぜいたくだって叱られそうだけど、とくにやりたい仕事でもなかったし、女だからということ以外にも、会社って理不尽なことが多いところだと思います。
 そう感じるのは入社したばかりだから。そのうち慣れて仕事が面白くなってくるから。一生懸命そう思おうとしたけど、結局だめでした。
 去年くらいからは、自分の立っている場所や、向いている方向すらわからなくなって、夜、わけもなくベッドで泣けてきちゃったこともあるんです。言わなかったけど……。
 そんなときに原田さんに出会って、いいからこっち来い、って引っ張って行ってくれるような頼もしさを感じていました。ぶっきらぼうだけど繊細で、気配りのできるやさしい人だなって思いました。
 仕事ができて、そういう自分に自信をもっているところがかっこよかった。きっと自分にぴったりの仕事をしているからなんでしょうね。すごくうらやましかった。
 原田さんといると安心できました。精神が安定しているのが自分でわかるんです。弱いところを見せても大丈夫と思ったのだけれど、その点はちょっと違ってましたね。私、重かったみたい。
 ごめんなさい。わかっていたんです。でも言っちゃった。もっとうまくできたかもしれないって後悔も少しあるけれど、もうしかたないですよね。これ以上嫌なことを言って迷惑はかけません。それに、自信たっぷりな原田さんを見るたびに、私自身はこれでいいのかなって思っていたのも事実だし、原田さんとだめになってロンドンへ行く決心がついたんです。
 社会人になって五年間、ずっと霧の中に立っていたけど、今ようやく足もとから伸びる道を見つけた感じです。そういう意味で感謝しています。ありがとう。
 私が帰ってきて、もしまたどこかで会えたら、それまで私のことを覚えていてくれたら、とてもうれしいです。――遥香。

 画面を閉じた。
 バーテンの視線を感じる。グラスが空いていますがどうしますか、と訊いてきている。原田はまだいい、という視線を返した。それで会話が成立する距離感が好ましい。
 ――ぴったりの仕事か――
 好きで営業になったわけじゃない。子どもの頃は、絵を描いたり映画を見たり、音楽を聞くのが好きだった。小学校の頃、本を作ったり物語に関わる仕事につけたら楽しいだろうなとぼんやり思ったことを覚えている。
 おとなしく内向的な子どもだった。それがあるときから軽薄で社交的と評されるようになった。時期がきて就職活動を始めてみると、就職氷河期の厳しさは想像をはるかに超えていた。書類選考で落とされるケースがいくつも続いた。そのたびに人格を否定されたような屈辱を味わった。
 原田が通っていた大学は、都内では中の上クラスの私立だった。学校名はそれなりに知られているが、特に成績がよかったわけでもなく、有利な資格を持っているわけでもない文系学生の履歴書が、一流企業の人事担当者の関心を引くことはなかった。
 第一志望だった大手の出版やマスコミからはエントリーの返事すらもらえなかった。メーカーや金融も門前払いに近かった。最初は会社を選んで応募していたが、まもなく業種も規模も関係なく、どこでもいいから片っ端にという就職活動になった。
 三十社を越えても内定は出なかった。つらかった。体力よりも気力が折れかけた。
 改めて新卒で就職活動をするために留年するか、卒業してフリーターになるか。母親からそれとなく前者を勧められ、甘えそうになったが、一年で何も変わるまいと思い、活動を続けた。落ち続けた。
 疲れ果て、あきらめかけたときに、名古屋にある自動車販売会社の営業社員の募集広告を見つけた。使い捨ての鉄砲玉セールスをかき集めているのがひと目でわかる広告だった。東京を離れるなどそれまで考えたこともなかったが、なかば自棄で応募したところ、三回の面接を経て内定が出た。
 うれしくて涙が出た。使い捨てだと思うとためらいも湧いたが、実際に内定通知を手にした後で、過酷な就職戦線に戻って行く気力は残っていなかった。
 知らない土地で死ぬ気で頑張った。休みなどなかった。最初は失敗もしたが、地道に知識とスキルを身につけ、人脈を築き、やがて運に恵まれた。気がつけば、百人近く入社した同期は三年で十五人にまで減っていた。原田はトップで生き残った。
 あれから七年。今ではセールスは天職だと信じている。企業の名前と手厚い雇用契約に守られた生え抜きの連中などとは違って、自分の腕一本で渡ってきた自負もある。大げさにいえば、自分の存在意義みたいなものをセールスという仕事に感じている。
 それでもやはり、なりたくてなったわけではない。自分だって行けるものならあちら側へ行きたかった。ぬくぬくとした生え抜きの側へ。だからあれだけ必死に就職活動をしたのだ。
 何を今さらと自分でも思う。今から別の職種に就くなど考えられない。それでも、
 ――ぴったりの仕事なんかじゃない――
 そういう思いは体のどこかに残っている。
 これは迷いだと思う。三十を過ぎて感じることが多くなったのがその証拠だ。
 二十代は仕事を覚え、生き残るのに必死だった。すぐ前の足もとしか目に入らなかった。外資系で稼いでいる頃だって、腹の底では、いつライバルに出し抜かれるかとびくびくしながら生きていたのだ。
 三十歳を過ぎてようやく少し余裕が出てきた。経験を積み、次と、その次くらいに起こることを予測できるようになった。足もとから少し視線を上げ、先の景色を見ることができるようになった。そうして気づいてしまった。自分の未来が過去と現在の延長線上にしかないことに。
 子どもの頃にぼんやりと考えた本やお話をつくる人に、もう自分はなれない。もっと幼い頃にテレビで見て憧れたスーパーヒーローや、伝記で読んだ偉人にも、自分はもう決してなれない。
 世界はとてつもなく大きくて広いのだ。自分などちっぽけな存在で、子どもの頃に思い描いていたよりずっと小さな人生を送る。それで終わってしまう。
 ――これでいいのか――
 迷いながら日常に絡めとられ、自分の凡庸さを少しずつ思い知らされていく。三十代とはきっとそういう季節なのだ。
 家庭を持てば別の景色が見えるという人もいる。しかしそこまで深入りした女はもういないし、新しい恋愛を始めるにもエネルギーが要る。先の見えないこの時代に、わざわざ大きな責任を背負い込むのも馬鹿らしい気がする。
 結局、金を稼ぐことが一番正解に近いと感じる。自分の能力を最も効率的に金に換え、先々に備えておくこと。
 ――間違ってなんかいない――
 逆境を言い訳にせず、自ら行動してチャンスをつかみ取ったのだ。努力して階段を上ってきたのだ。偉人ではないにしても凡人なんかじゃない。原田幹夫は成功者。周囲の嫉妬が何よりの証拠じゃないか。
 なのに、倉田遥香のメールは思いがけず原田の心を叩いた。
 うらやましいと思ったわけではない。彼女はこれからも迷うだろう。遠い異国の地で、自分の選択が本当に正しかったのかと悩み、孤独に震える日が来るだろう。
 それでも、今この瞬間、彼女は自分の道を見つけたと信じている。その選択を誇らしげに原田に伝えてきている。
 その決意がまぶしかった。
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