第1話

文字数 12,029文字

 人は死ぬと何になるか。
 子どもの頃、よくそんなことを考えた。
 幽霊? 銅像? ライバルの哄笑? あるいは絶対的な無?
 神話によれば鳥だという。死者の魂が身体を抜け出して空に向かって飛んでいくというイメージは、幼い頭にもすんなり入ってきた。死は天空への旅立ち。ふとんに潜って、闘いに敗れた戦士の魂が夕焼け空に舞い上がる光景を想像したものだ。
 あれから時が経ち、三十二歳の今になって原田幹夫の脳裏にあのときのイメージが甦ってきた。神話は正しかった。人は死ぬと空を飛ぶのだ。ただしなるのは鳥ではない。
 保険金の請求書だ。
 生命保険の加入率が世界最高水準のこの国では、たいていの人は死ぬと一枚の紙切れになるのだ。そして保険会社へ向かって飛んでいく。遠い記憶の中の鳥は白く輝いていた。当然だ。請求書は白い紙なのだから。
 ――ふん――
 くだらないことを思い出した。マウスを乱暴に操作しながら原田は胸の中で毒づいた。鳥だろうと虫だろうと知ったことか。人の死はただの入力データ。ここでの仕事はそういうものなのだ。
 毎朝オフィスに届けられる大量の請求書類を、百人以上の事務処理部隊がその日のうちに査定し、端末で処理していく。そうしないと着金が遅れて苦情になる。病気、事故、自殺。死因や年齢はさまざまだが、悲惨な事故も子どもの難病も、ここに十日もいれば慣れてしまう。日々際限なく繰り返されるルーティーン作業に、いちいち感情移入などしてはいられない。
 ――うんざりだ――
 事務処理なんて誰がやっても同じ。だったらその他大勢の連中にやらせておけばいい。どうしておれがやらなくてはならないのか。
 早く営業の第一線に返り咲きたい。
 ――理不尽な人事め――
 原田はエンターキーを叩きながら、我が身の不運を呪った。

 確かにちょっとやりすぎたかも知れない。今になって原田はそう思う。
 営業で高級住宅街を回っているときに小金持ちのばあさんを見つけた。狙い通りだった。さっそくさまざまな「営業技術」を駆使して、大口の契約に「ご加入いただいた」。
 その月、原田は営業成績部内トップで表彰された。
 部長主催の表彰パーティへの招待、高額の販売手数料、そしてライバルたちの嫉妬と羨望のまなざし。仕事で他人に勝つというのは何度味わってもいい気分だ。数カ月間の不調の後だったから感激もひとしおだった。
 味をしめた原田は、それからの三ヶ月間で同じばあさんから合計五件の大口契約を得た。連続のトップ。収入がかなり上がったので彼は欲しかった腕時計を買ったものだ。
 ところがその数カ月後、ばあさんの息子と名乗る男が本社のコールセンターに電話をしてきて、預けた金をそっくり返せと言った。変額年金なんてリスクの大きい金融商品に自分の母親が加入したのは何かの間違いだというのだ。
 通常、契約が成立した後でそんなことを言ってきても無駄だ。たいへん申し訳ありませんがご希望には沿いかねます。中途解約ならお受けできますが、ご加入直後だとだいぶご損になりますよ。電話に出たオペレータは、マニュアルにしたがって丁重に門前払いを食わそうとした。
 しかし息子は引かなかった。うちの母親は歳が歳だし、少しだが認知症も始まっている。複雑な金融商品の内容を理解できるわけがない。おたくのセールスは、顧客に商品のリスクをきちんと説明し、理解させなければいけないのにそれをしていない。だから契約は無効だ。キャンキャン吠える子犬みたいにそうまくしたてた。
 じつは息子の言う通りだ。元本割れリスクのある金融商品を販売する業者には、顧客にそのリスクを十分理解させる義務がある。これがなされていないと契約は無効になる。そんなことを知っているのだから、この息子は保険業界かそれに近いところにいる人物に違いない。そう察知したオペレータはいったん電話を切り、再びマニュアルに従って、担当セールスである原田のところに連絡をよこした。
 ――まずい――
 なんて思わなかった。
 何しろ書類はばっちり揃っているのだ。「リスクを承知した上で申し込みます」と書かれた書面に実印までもらっている。相手の言うことが事実だとしても、証明なんかできやしない。たとえ訴えられたってこちらが負けることはない。
 ひどい話? そうだろうか。相手だって勝手なものじゃないか。母親がだまされたと思ったのならなぜすぐに言ってこないのか。運用成績が好調だった三カ月間、何も言わずに放っておいたのは一体どういうわけなんだ。
 変額年金とはようするに投資信託みたいなものだ。株式や債券でできている。価格は相場次第で、一年で三倍になることもあれば一週間で半分になることもある。早期に解約すれば解約控除というペナルティもつく。
 そんな複雑な内容を七十代半ばのボケかけた年寄りが十分に理解できるわけがない。それは息子の言う通りだ。説明するだけ時間の無駄。だからこそ原田はパンフレットの大きな字だけを拾い読みして、「定期預金みたいにしっかりした商品で、心配なんてありませんよ」と、ごくごく簡単に説明をしたのだ。時間を節約してやったのだ。
 じゃ、あとはお名前書いてくださいね。はいはいここですか。相手は孫の自慢話をしながら笑顔で署名し、いそいそと実印を出してきた。それで完了。楽勝だ。そう思ったのに。
 息子との電話は水掛け論に終始した。すると相手は戦法を変えてきた。ある消費者団体に苦情を持ち込んだのだ。これはうまいやり方だ。団体は本社のお客さま相談室に事情照会をしてくる。そんなところから訊かれたら会社も優先的に対応せざるをえなくなる。
 相談室はここでまたマニュアルに従って迅速に対応した。すなわち苦情対応専門のスタッフを息子のもとへ差し向け、いくばくかの金を渡して黙らせたのだ。餅は餅屋。まったく鮮やかなものだ。長引いたら面倒だと思っていた原田の心配は杞憂に終わり、あっけなく解決した。苦情そのものは。
 数日後、原田は人事部から呼び出しを受けた。
 めずらしいことじゃない。会社が苦情に金を払った以上、経緯を記録に残さなければならない。所定の手続きだ。
 殺風景な会議室で、妙に腰の低い男が調査担当だと名乗った。髪を七三に撫でつけ、黒ぶちの眼鏡をかけていた。緊張していた原田はちょっと拍子抜けした。黒ぶちは忙しいのにごめんねえを連発しながら、型通りの質問をしてきた。原田は神妙な顔で私はちゃんとご説明しましたと答えた。
 これだって嘘じゃない。少しばかり小さな声だったかも知れないが……。認知症なんて全然気づきませんでしたし、理解されていないなんて思いもしませんでした。だってお客さまは書類に実印までついているんですよ。こんな論法は保険のセールスなら誰だって心得ている。黒ぶちは、うんうんなるほどそうだよねえ、としきりにうなずいた。――これは単なるセレモニー。今後は十分注意してよねえ、そんな小言をもらっておしまいだと原田は思った。
 ところが予想外のことが起こった。黒ぶちは件の契約の申込書類をばさりと机の上に抛り投げると、ある箇所を差してこう言ったのだ。
「ここの○印だけどさあ、やけに筆圧が高くて、きれいな形をしているよねえ。まるで七十五歳の女性ではなくて、三十代の男が書いたみたいだ」
 その通りだった。ばあさんの動作があんまりとろいものだから、苛ついた原田が代筆したのだ。その日は女との約束があった。
 次の瞬間、黒ぶちは急に鋭い口調になった。
「これはおまえが書いたんだろう」
 豹変に気圧された原田は、つい認めてしまった。それが決め手になるとは思いもせずに……。
 じつはこの時期、株価の下落による変額年金の元本割れをめぐる苦情が全国で多発していた。これに対し、監督官庁である金融庁が実態調査に乗り出す構えを見せたので、あわてた営業管理部門が社内ルールを改正していたのだ。○印一つでもセールスが代筆すれば『不適切な募集手続き』に分類されるように。
 一週間後、人事部から処分通知が届いた。原田は目を疑った。
 ――減給。
 解雇、降格に次ぐ重い処分である。減給の額は知れているが、処分が下ったという事実が重い。東西生命での原田の経歴に決して小さくない×印がついた。
 それと同時に、例のばあさんからもらった五件の契約はすべて取り消し――つまりなかったこと――になり、合計で約三千万円に上る保険料は全額返金されることになった。
 無論、原田の手数料も会社に返上である。一回の給与では精算しきれないというので、分割で天引きされることになった。明細にあのパーティの料金まで含まれていたことが原田の神経を逆なでした。後には不名誉と、高級腕時計代の引き去り記録だけが残った。
 人事処分が社内で公表されることはない。しかし大きなケースの情報はどこからともなく漏れていく。人事が見せしめのためにリークしたという噂もある。
 コンサルティング営業推進部のエースが処分されたというニュースは、またたく間に本社ビル内を駆けめぐった。気がつけば、数ヶ月前には目に嫉妬の色を浮かべていたやつらが、今はうす笑いで原田を見下していた。
 一年後輩に原田とトップを争う内田精二がいる。派閥が趣味のギラギラしたやつ。彼が廊下ですれ違いざま、歪めた口でこうつぶやくのが聞こえた。「ふ。ざまぁ」。
 原田は誓った。
 ――見ていろ。すぐに挽回してやる――
 ところがそうはいかなかった。処分は減給だけで終わらなかったのだ。何と異動が決まった。営業の第一線から、事務サービス部門へ。
 ――馬鹿な――
 部長から手渡された異動通知には、見慣れぬ部署の名が書かれていた。
 職種は総合職員なのだから、人事制度上はあらゆる部署への異動がありうる。しかし自分は営業枠での中途入社だ。経歴や適性、入社の経緯を考えれば事務部門への異動など本来はあり得ないはずだ。
 たしかに数カ月間、不振が続いていた。普段は大口の企業保険ばかり募集しているのに個人契約に手を出したのは、背に腹は代えられないほど成績が苦しかったからだ。その月はあてにしていた大口の二件がほぼ同時にポシャった。
 とはいえ入社から三年、会社には十分に貢献してきたつもりだ。誰もできなかった大口の新規開拓をいくつも成し遂げた。他社の縄張りに食い込んで大きなシェアを奪いとった。そんな例ならいくらでも挙げられる。不調はあくまでも一時的なもの。誰が見たって明らかだろう。それなのに、役所からの風圧が少し強くなっただけでこの仕打ち。
 ――辞めろということか――
 唇をかんだ。
 原田は、東西生命が三年前に新設した大卒男性による法人向けセールス部隊「コンサルティング営業推進部」の一期生だ。
 バブル崩壊以降、生保各社は既存の主婦中心、いわゆる保険のおばちゃん部隊に頼った営業モデルに限界を感じ、販売ルートの多様化を進めてきた。コンサル営推の設立もその一環だ。おばちゃん部隊に比べて待遇が格段によいかわりに、一人あたりのノルマも大きい。得意先も大企業や経営者層が多い。
 原田はかつて自動車販売会社でセールスをやっていた。営業手腕を買われて証券会社に転じ、さらにスカウトされて東西生命に移った。転職のたびに収入は上がっていった。
 会社というのは何かしらモノを売って成り立っている。車や電化製品のように形のあるものだろうと、保険のように形のないものだろうと、本質はあまり変わらない。そして売るためには、顧客と会社をつなぐ営業の機能が不可欠である。
 つまり営業とはあらゆる会社に必要な機能なのだ。だからこそ真に優秀なセールスはどんな不景気になろうと仕事にあぶれることはない。
 一方、事務仕事はその補助に過ぎない。重要性、難度、使える経費の額、どれをとっても営業のほうが上だ。会社に収益をもたらすのは社外との接点である営業以外にありえず、事務組織はそれを支える裏方だ。少なくとも原田にとってはそうだった。
 ――その裏方に回れだと――
 冗談じゃない。原田はただちに転職の準備を始めた。真っ先に考えたのはライバル生保だった。国内の大手はどこも似たような大卒男性の営業部隊を持っている。
 卒業以来セールス一筋で三十歳を超え、金融それも生命保険は肌に合っていると感じていた。実績も固定客もあるのだから転職なんて簡単だ。そう思って立て続けに二社の面接を受けた。ところが結果は芳しくなかった。一社からは直前に枠が埋まってしまったと告げられ、もう一社はボーナスの算定方法について折り合いがつかなかった。
 転職はタイミングが大事である。不本意にも異動日までに内定が出なかった。いっそ辞めてしまって転職活動に専念することも考えたが、直前の職業がプータローでは履歴書の見栄えがよくないし、現在の高給を条件交渉で使わない手はない。
 ――少しの我慢だ――
 原田は結局、腰かけのつもりで異動に応じた。異動先は保険金部・支払サービス課。そこでの仕事は、朝から晩まで請求書類の記載通りにデータを端末に入力していくことだという。そんな仕事が面白いわけがない。
 ――すぐにいなくなってやる――
 それが二〇〇九年の春の終わりのことだった。空は高く、街をさわやかな風が吹き抜けていた。そのさらりとした風のように、東西生命・支払サービス課での職務経験は、原田幹夫のサラリーマン人生の中でもっとも印象の薄い数カ月間になるはずだった。
 そこにあいつがいなかったら。

 荒川直樹は、入社以来十年間を保険金部だけで過ごしてきた課長代理である。
 人事異動のはげしい保険業界で一か所に十年はめずらしい。社内のみならず、業界他社でもけっこうな有名人らしいが、それは在任期間の長さのせいだけではなかった。
 五月十一日、異動初日。原田ははじめて荒川と顔を合わせた。
「よろしく」
「こちらこそ」
 必要最小限の単語だけを発し、そのままつい、と行ってしまう。およそ愛想というものがない。年齢不詳のつるりとした顔立ち。どちらかといえば端正な部類だが、無表情で、鳥が驚いたみたいな目をしている。視線が強く、見られると訳もなく威圧を感じる。
 ――営業向きじゃないね――
 それが第一印象だった。
 支払査定には、実務に加えて医学や法律に関する専門的な知識が要るから、新入りはまず表層的な研修を受ける。十人ほどの新入りが会議室に集められた。退屈な数時間の後、最後に講師として荒川が出てきて言った。
「相手によって対応を変えてはいけません」
 硬質で突き放したような口調。会議室の気温が少し下がった――気がした。
「多くの請求の中には払えないものもあります。約款上の支払い要件を満たさない案件です。支払えないと伝えるとほぼ全件が苦情になります。しかし、だからといって査定結果が変わることはありません。相手が反社や警察官、芸能人や総理大臣であろうと、払ってはいけないものは絶対に払ってはいけない。脅迫まがいの圧力を受けたり、訴訟を起こされてもです。それが保険事業の根幹をなす契約者間の公平というものです。保険料つまり掛け金は年齢、性別、健康状態などのリスクに基づいて公平に算出されているのですから」
 ――沈黙。
「会社に届いた請求書類はスキャン室で機械に読み込まれ、査定担当者あてに画像データで送られてきます。査定は端末の画面上で行います。通常は必要項目を順番通りに入力していけば、機械が自動的に計算と振込みをしてくれます。中には高度な知識やむずかしい判断を要するものもありますので、迷ったら指導担当に相談してください。ただし、間もなくみなさんも独り立ちしていただきます。そのときのために覚えておいてください。査定の基本は三つです。厳正な本人確認、隙のない検討、そしてルール通りの事務」
 原田はあくびをかみ殺した。
 ――相手によって対応を変えてはいけないだと――
 営業の世界では考えられない。顧客一人ひとりのニーズや経済状態はもとより、性格や趣味、家庭環境、その日の天気まで配慮したアプローチを行い、次々と立ち現れる障害をいかにクリアして契約をもらうか、臨機応変の課題解決こそが仕事の醍醐味じゃないか。
 マニュアル仕事しかするなというのは、担当者の個性を認めないということであり、裏を返せば誰でもできる仕事だということだ。その他大勢の一人になれということだ。コンサル営推で成績トップの、このおれに。
 ――馬鹿馬鹿しい――
 初日の夜には歓迎会のようなものが企画されていたが、原田は適当な理由をつけて断った。五時半頃に仕事を終え、転職サイトを見ながら帰ろうとオフィスを出たところで、スマホが震えた。営業企画部の津田次長だった。
「今日からだったよな。どうだ、新しい職場は」
「ごぶさたしています。別にどうということもありません」
 津田次長は三年前のコンサル営推部立ち上げのときの責任者だ。証券会社にいた原田を東西生命に引っ張ってきた張本人である。原田が初めて部内一位を取ったときは、お祝いだと言って銀座で散財してくれた。
「よく残ってくれたな」
「どこも拾ってくれませんから」
 津田はハハ、と明るく笑った。
「君に限ってそんなことはないだろう。とにかく少しの我慢だ。風向きが変わればすぐに現場に戻してもらえるさ。会社だって君の適性はよく理解している」
 煩わしいと思った。理由は二つ。
 一つは自分が相手の期待を裏切ったという後ろめたさ。もう一つは相手の保身の心理が見えたこと。津田は、原田の不祥事が自分の責任問題になることを恐れている。採用したのが自分だから……。
 問題なんか起こしやがって。これ以上おれの顔に泥を塗ったら承知しねえぞ。この電話は暗にそう釘を刺すためのものだろう。銀座の店では、おねえちゃんたち相手に原田のことをさんざん持ち上げ、自慢しまくっていたというのに……。
 ――さすがだねえ――
 そうでなければ有能とはいえない。サラリーマンなのだから保身だって仕事のうちだ。
 四十代半ばで営業企画部の次長というのは悪くない。もっと上を狙える。つまらない石ころなんかにつまずいてはいられない……。
「とにかく元気そうで安心したよ。何かあれば連絡してくれ。いつでも相談にのるよ」
 思いつめて変な気を起こすんじゃねえぞ。転職するなら事前に知らせろ。翻訳すればそういうことだ。
「ありがとうございます」
 採用のとき、彼は何度も原田のところにやってきて新組織のビジョンを熱く語った。次の時代のビジネスモデルをぼくたちで作ろう、そう言って原田を口説いた。青臭いと思ったが、その熱意に動かされたのも事実だ。それだけに今は色あせて見えるものがある。
 スマホを切ると、地下鉄の入り口はすぐそこだった。この季節、この時間の日差しはまだ十分に明るい。そのまぶしい光のせいで、地下への階段は奈落に続く暗い穴のように見えた。
 ――たかが減給――
 階段を下って行く。目はすぐに慣れる。いつもと変わらぬ地下の世界。そこで働くやつらだっている。
 ホームに立ち、到着した列車に乗り込む。津田の電話は別におかしなものじゃない。しょせんはみな自分が可愛い。ただ、相手の言葉の裏を読まずにいられない自分の性分が、少しばかりうっとうしいだけだ。
 動き出した列車の暗い車窓をにらみながら思った。
 齢をとることは幻滅の積み重ねだ。
 特に、自分に対する。

 異動二日目から新人は執務フロアに移り、実際に査定をやらされた。指導担当には荒川がついた。
「マニュアル通りに入力してください。わからなかったら指導担当まで」
 むずかしいことは何もなかった。もの覚えの悪いやつらが何回も荒川を呼んでいたが、原田は一度も呼ばなかった。午後にはベテラン連中によるチェックがなされ、原田はミスなしと告げられた。当たりまえだ。この程度の事務がこなせなくてどうする。
 他の新任者たちのチェックが行われている間、原田は手持ち無沙汰でぼんやりとフロアを見回した。
 自然光をふんだんに採り入れた清潔感あふれるオフィス。OA機器の発する低い音がいかにも現代的な執務空間を作り出している。
 ――ここに日本中の死が集まってくる――
 四方八方から飛んできた無数の白い鳥たちが、ビルの上空を旋回している光景が頭に浮かんだ。やがて分厚いコンクリートの天井が、ゴウンゴウンと重厚な音をたてて開くと、鳥たちは一斉に、このフロア目がけて舞い降りてくる……。
 めぐらせた視線が荒川をとらえたとき、原田はへえ、と目を見張った。
 荒川は指導の合い間に自席へ戻り、査定案件を処理していた。そのスピードがとてつもなく速いのだ。背筋をピンと伸ばしたまま、指先だけを目にもとまらぬ速さで動かしている。無駄のない動きは機能美という単語を思い起こさせた。
 時おり、若手職員が書類をもって何かを相談しに来ていたが、彼は手を止めずに応じていた。話の内容までは聞こえないが、相談に来た若手の困ったような顔が、ある瞬間にぱっと明るくなるのは共通していた。荒川は面倒そうな素振りも見せず、えらそうにするでもなく、ただ淡々と応じていた。
 ――鉄仮面――
 違うな。やつの顔を覆っているのはそんな重々しいものじゃない。もっと薄い天然素材だ。皮膚と一体化した、あるいは皮膚そのものが変化した絶対にはがせないやつだ。
 こいつにあだ名をつけるとしたら何だろう。表情貧乏。冷凍淡々仮面。マニュアル系岩石男。デスマスク型事務マシーン。
 そんなことを考えていると、フロアの空気がふと不穏に揺れた。見ると、法人営業部長が取り巻き二人を連れて入ってくるところだった。原田は思わず顔を下げた。取り巻きの二人を知っていたからだ。
 原田のいたコンサル営推は中途採用による精鋭部隊だが、法人営業部は昔からある生え抜きの総合職員による法人営業部隊だ。両者はいわば同じマーケットのパイを奪いあうライバル同士である。
 もっとも、実際には腕も成果もコンサル営推のほうが上だ。そうでなくては後発組織の意味がない。あの二人と競合して負けたことはない。これまで成績でさんざん見下してやった。だからこそこんなところにいるのを見られたくない。
 三人はまっすぐに部長席に向かった。幸い原田のことには気づかなかったようだ。
 ――くそ、何でこんな思いをしなくちゃならない――
 原田はまたしても自分の境遇を呪った。
 会議室へどうぞという支払サービス課長の誘いを断り、法人営業部長はいいよ、いいよここで、と鷹揚な態度でオープンの簡易応接に腰を下ろした。胸糞が悪くなるような演技。すぐにピンときた。
 ――何かミスしやがったな――
 営業サイドの不始末を事務方に尻拭いさせようという魂胆だろう。
 営業と事務では営業のほうが社内での発言力は大きい。まして本社の法人営業部となれば、扱う契約の大きさは桁違いで、業績への貢献度は別格だ。コストセンターでしかない事務サービス部門とは立場が違う。
 つまり同じ部長でも、社内での序列はあちらのほうが数段上なのだ。保険金部長と支払サービス課長があわてて立ちあがり、直立不動の姿勢で迎えたのも無理はない。
 案の定、法人営業部長は横柄な口調で次のようなことをしゃべった。
 ある大口の取引先で役員が死亡した。高額の保険金を支払う段になって、これまで払い込まれていた保険料に不足があったことが判明した。加入時に登録した役員の生年月日が誤っていたのだ。法人営業部の確認もれが原因だった。
 契約上、規定通りの保険料をもらわないと保険金を支払うことはできない。荒川が研修で言っていた契約者間の公平というやつだ。担当セールスがおそるおそる追加の払い込みを依頼したところ、先方は激怒した。確認もれは東西生命の責任なのだからこのままで保険金を払え、という苦情になった。
 すまんがそういう事情だから、先方の要望を呑んで支払ってやってくれないか、と法人営業部長は形ばかり頭を下げた。保険金部長は困った顔になった。
 そのとき自席で聞いていた荒川がすっくと立ち上がった。すたすたと簡易応接に向かうと、何かを告げた。法人営業部長が激昂した。
「当社のミスなんだぞ。それでもできないと言うのか」
「それで誤った保険料が正当化されるわけではありません。保険料率は当局に届け出たもの以外あり得ません。当社のミスは謝罪・訂正して正しい金額をもらうのが筋です」
「先方は感情的になっている。もう理屈じゃないんだ」
「保険契約の締結は法律行為であり、法律は理屈です」
 荒川がピシリと言い放つと、法人営業部長は一瞬、ひるんだ。
「し――しかしだな、払込み案内は部長である私の名前で正式に出した文書だ。今さら撤回などできるか。それに向こうはそれに合わせて資金繰りを組んでいる。下手をすれば資金ショートが起きるかもしれないんだぞ」
 さすがにそれは大げさだろう、と聞いていた原田は思った。大企業の資金繰りに影響を及ぼすほど保険料が高額になる契約などまず考えられない。法人営業部長は、立場が下のはずの事務部門から予期せぬ反撃を受け、動揺しているのだ。
「先方の資金繰りと保険契約とは関係ありません。正当な数値でない以上、誰の名前であろうとその書面は無効と考えるべきです。それに特定の契約だけ保険料を割引くのは、契約者間の公平性を損ねる行為として保険業法で禁じられています。どうしてもやるとおっしゃるなら、法人営業部長の責任でなさってください。ただし法令と社内規定に違反するおそれがありますので、私はコンプライアンス統括部に通報します」
 法人営業部長は言葉に詰まって真っ赤になり、簡易応接のソファをガタンと蹴って立ち上がった。取り巻きとこちらの部課長が、真っ青な顔であたふたと後を追って行く。
 荒川が平然とした足取りで席に戻ってくると、デスクの電話が鳴った。コールセンターからの転送と表示されている。これは課の全員の電話機に同じように表示されるが、オペレータでは対処しきれなかったややこしい苦情が回されてきたに違いないから、誰も出たがらない。
 荒川は一直線に手を伸ばす。
「――そうではありません。約款がこうなっている以上、お母さまの場合はお支払いに該当しないということです。訴訟ですか。時間も費用もかかるので、できればやりたくありませんが、弊社がお客さまの裁判を受ける権利を侵害することはできませんから、ご自由になさってください。ただ、おそらく弊社が勝ちますから、お客さまにとっては無駄な時間と出費になるでしょう。おやめになることをお勧めします」
 相手が電話口で何か叫んでいるのが漏れ聞こえるが、荒川はかまわず切ってしまう。年配の職員が注意する。
「苦情が拡大するじゃないか」
「正しい説明をしただけです」
「それにしても言い方があるだろう」
「期待を持たせるほうが不誠実です」
 年配はやれやれ、と肩をすくめる。
 ふん。堅物もここまでくると一種爽快だ。事務の世界にもひまつぶしの見世物くらいはあるらしい。周囲の一般職がひそひそ声でしゃべっているのを要約すると、次のようなことになる。
 営業部門から無理難題を吹っかけられることの多い保険金部の、とくに若手の間では、言いたいことをずばりと言ってくれる荒川はヒーローだ。言われるほうの他部署から見れば煙たくてうっとうしい存在以外の何ものでもない。よく言えば真面目な正論派、悪く言えば融通のきかない堅物。それが荒川直樹だ。
 部課長にしてみれば、扱いづらい反面、社内で随一の知識と経験をもつエキスパートであることは間違いなく、人手不足の時期にこいつを手放す判断はないようだ。
 原田が面白いと思ったのは、本人がそんな評価に無頓着なことだった。絶賛も酷評も関係なくただ自分の仕事をしている。そういうキャラを気取るやつは大勢いるが、心底から無頓着なのはまずいない。こいつは正真正銘のほうだ。へえ。ほんとにいるんだこんな生きもの。そんな感じだ。
 課長代理といえば十年選手。最初は相当にとんがっているやつでも、組織にもまれて角が取れ、妥協と効率を覚えていく時期だ。よほど空気が読めないか、堅固な自分を持っていないとこうはなれない。
 ――こいつはその両方だな――
 こういうのが一人でもいると周囲は苦労する。とくに組織内の波風を嫌う中間管理職は。
 しばらくすると部課長が戻ってきて、むずかしい顔で会議室に入って行った。見たところここの部課長はアラカワカチョウダイリという珍獣を飼い慣らして、芸を仕込むだけのスキルを持っていない。今からさっきの案件への対応を協議するのだろうが、本音では法人営業部長の要望を飲んでさっさと収めてしまいたいに違いない。しかし先ほどのやりとりは大勢の部下たちが聞いていた。珍獣にあれだけの正論を吐かれた後で、相手を優遇してやるためのどんな理屈があるというのか。
 ――えらいやつらの困った姿ってのは愉快なもんだ――
 それが自分に降りかかってこない限りは。
 帰り際、原田は荒川に呼びとめられた。
「君は今のレベルは完璧だ。明日からはもう一段上のレベルの案件を担当してほしい」
「その前にだな」
 同じ課になったよしみで忠告してやるが、おまえは表情が乏しく、しゃべり方も冷たすぎる。とっつきにくい印象ってのは何かと損だぞ、とわざとえらそうに言ってやると、
「そんなことはない。そうだとしても仕事には関係ない」
 と、無愛想なコメントが返ってきた。人間関係づくりのきっかけにしようと思ったのにあてが外れた。
「明日からぼくの隣りの席に来てくれ」
 ――マイペースにもいろいろあるが、こいつのは他人を苛つかせるタイプだね――
 原田はちょっと反感を覚えた。
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