第3話

文字数 11,014文字

 弁護士が帰った後、原田は書類を父親に突っ返して放っとこうぜと言ったが、荒川は家族一人ひとりと直接会って話を聞こうと主張した。
 あのな、と原田は言った。
「いくら高額だからって、一件にそんなに時間かけてどうすんだよ。考えてみろ、父親はもう受取人じゃないんだから、今ある請求書は言ってみりゃあ不備だ。つまりだな、正式にはまだ請求が来たわけじゃない。おまえの大好きな保険約款には、『保険金は請求に基づいて払う』と書いてあるだろうが。請求がこないうちは払っちゃいけないんだ。そして、請求してこないのは客側の勝手だ。放っときゃいいって」
「被保険者が死亡したことを知ったのだから、会社は保険金を支払わなければならない。これは自明だ。受取人が請求権の発生を認識していないなら知らせるべきだ」
「しなくていいことをするのは事業費の無駄づかいだろう。会社の金は契約者全員の共同財産だぞ。無駄なコストをかけて、他の契約者に損をさせるのか」
「会社の義務を果たすためのコストなのだから無駄ではない。今日まで見てきたところ、総じて君の態度は職務を放棄しようとするもので、信義誠実の原則に反していると思う」
「シンギ……何だそれ」
「知らないのか。民法第一条第二項。権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。君の態度はこれに反していると思わないか」
「反していたらどうなるって言うんだ。逮捕されんのか」
「特段の罰則はない」
「罰則がない規則なんて、作ったやつだって本気で守らせようと思ってねえよ」
「基本概念だから直接の罰則がないだけだ。個別の条項にはちゃんと盛り込まれている。行動の基軸をどこに置くかは、人間にとっても会社にとっても極めて重要な問題だ。信義のない人間は信用されず、誠実でない企業は永続しない。ぼくたちは社会人また企業として、信義誠実の原則を行動の基軸に――」
「ああ、わかったよ。あとは好きにやってくれ。もうおれは降りるからさ」
「原田」
 声に背を向け、原田はたばこ部屋へ向かった。
 ――ややこしいことに巻き込みやがって――
 二本吸った後は、終業時刻までずっと喫茶室で時間をつぶした。

 プールに寄った後、外食が面倒になったので自宅近くのコンビニで弁当を買った。帰りついたのは午後十時過ぎだった。隅田川にほど近い単身者用マンションの十二階。都会を見降ろす眺めがいい。
 ソファ前のコーヒーテーブルで缶ビールと弁当を広げ、テレビを見ながら平らげた。シャワーを浴びた後、体を拭きながら、またテレビをつけたが、薄っぺらいニュース番組にうんざりしてすぐに消した。
 ――こんな番組で何も解決しない――
 この手の番組で出演者がしきりに使う「きっちりと」「しっかりと」「本当に」という類の副詞が原田には耳障りでしかたがない。使わずにしゃべってみろと思う。そうしたらいかに発言に中身がないかがわかるだろう。
 この問題はしっかりと検討しなくてはいけませんね。当たりまえだろう。どんな問題だって検討はしっかりとすべきだ。検討すると言ったらそれはしっかりと検討するということなのだから、副詞など要らない。副詞は印象操作。副詞を多用するのは、そのコメントに大して中身がないからだ。そのことに当人も気づいているからだ。
 ベッドに横になったが、目が冴えてしまった。しばらく眠気はやってきそうもない。
 マンションの前は幹線道路が走っている。車の音と光が地下を流れる川のように、はるか足の下を流れていく。天井を見つめながら、ふと大金を残して死んだ青年のことを考えた。顔など知らないが、ぼんやりと痩身で蒼白い容貌を想像した。
 ――おまえ、何がしたかったんだ――
 関心が高額の保険金そのものに向かわないのが、われながら不思議だった。営業にいたら、次の一件を狙って受取人にとり入る方法を必死に考えていただろう。しかし今の部署では募集しても成績はつかない。手数料ももらえない。保険金の支払いを事務処理としてみた場合、百万円でも一億円でも手間は大して変わらない。同じ会社でも部署によって案件に対する関心はこれほど違うのだ。
 ――誰にも渡したくなかったのか――
 弁護士の話からすると当人は変人だったようだ。お勉強はたいへんよくできたのだろうが、人格にいくらか問題があった。家族と折り合いがよくなかったのではないか。それどころか激しく憎んでいたのだとしたら。
 金など渡してやるものか――だからこんなややこしい仕掛けを考えた。こうしておいて自分が死んでしまえば、受取人は判明せず、保険金は永久に払われない。家族は大金を目の前にしながら決して受け取ることができない……。
 ――違うな――
 三人が話し合えば払われてしまうのだ。金を渡すのがいやなら解約してしまえばいい。そもそも加入しなければいい。やはりショーちゃんにはこの世に一億の金を残す意思があったと考えるべきだろう。その相手は誰なのか。
 ――わかるわけがない――
 何しろ本人がもうこの世にいないのだ。それにショーちゃんと三人がどんな人間なのか、おれはまったく知らない。ただ一つはっきりしているのは、三人のうち誰が受け取るにせよ、それは激しい争いの種になるということだ。
 どんなに温厚な人でも、大金の存在をすぐそばに感じ取った瞬間、火のような守銭奴と化す。そんなケースを原田はいくつも見てきた。
 以前、こんなケースがあった。
 契約者は東北の小さな印刷会社の社長。東京の顧客からの紹介による遠方契約だった。
 この社長が、真冬の早朝、吹きすさぶ吹雪の中、自宅から片道二時間もかかる漁港まで車を走らせ、海に転落して命を落とした。
 調べてみると会社は倒産寸前だった。死の二週間後には二度目の不渡りが出ることがほぼ確実で、手形を落とすには約三百万円の金が必要だった。
 この社長の生命保険契約には、死亡保障二百万円のほかに、災害割増二百万円の特約がついていた。災害割増とは、病死や自殺ではなく事故で死亡した場合に支払われる特約である。つまりこの契約の場合、自殺なら二百万円、事故死なら四百万円が支払われる。支払い査定ではこれが最大の争点となった。
 状況からして自殺の線が強いが、証拠がなく目撃者もいない。警察の現場検証でも決め手がなかった。
 加入手続きのとき、原田は一度だけ社長夫妻に会いに行っていた。契約までに顧客と一度は面接をしなければならない決まりだ。
 夏の盛り。セミの声に包まれた作業場の入り口で風鈴が鳴っていた。遠いところをようこそ、と言って麦茶を出してくれた妻は、見るからに善良そうな初老の女性だった。エプロンのような前掛けについた油のシミが蟹のように見えたことをなぜかよく覚えている。
 その妻が当然のように事故を主張してきた。本社は調査担当者を派遣した。そのときのメモが募集担当者である原田のところまで回ってきた。
 ――なぜ社長はあの日、取引先もないあの町に、二時間もかけて行かれたのでしょう。
 ――以前に、家族で旅行に行ったことがあるんです。海のきれいなところでした。きっとなつかしくなったのでしょう。
 ――二月の未明、しかも吹雪の中ですよ。景色など見えない。それにノーマルタイヤのままです。社長はいつもこの季節は、ご近所を回るときでも、スリップが怖いからと、車を使うのは避けておられたというじゃないですか。
 ――慎重に運転すればだいじょうぶだと思ったのでしょう。
 ――失礼ですが、会社の経営が苦しいときに、ただ思い出に浸りに、危険な雪道を走って行かれたということですか。ご家族にひと言の断りもなく? 
 ――そ、そういえば、前日に出かけると言っていたような……。
 ――本当ですか。どうして止めなかったのですか。危険だとは思わなかったのですか。
 ――ですからそれは……。何ですか、さっきから聞いていれば、まるで私が保険金をだまし取ろうとしているみたいに。ひどい。私は客ですよ。客が、主人が亡くなって失意のどん底にいるというのに、そんな疑いを……。保険会社っていうのは本当に血も涙もないところなんですね。とにかくあれは事故です。夫が自殺するなんてありえません。ええ、私にはわかるんです。絶対に事故です――
 会社の査定は自殺となった。つまり支払いは二百万のみ。春に訴訟になり、秋に会社が勝った。遺書があったのだ。災害割増を受け取るために妻が隠していたことが判明した。
 支払い手続きのために訪れた会社の担当者に向かって、妻は激しい形相で、金を払え絶対にあきらめないぞと怒鳴り散らしたという。傍らにいる自分の弁護士に、控訴審を戦う材料はありませんとなしなめられると、泣き崩れたそうだ。
 亡くなった社長には気の毒だが、判決が出る頃には会社はとっくにつぶれていた。手形が不渡りとなったのだから当然だ。
 小さな工場には、たちまち債権者が押し寄せたに違いない。彼らだって資金繰りの厳しさは同じようなものだろう。殺気立つ連中を妻は何と言ってなだめたのか。たしか中学か高校の子どもがいたはずだ。親子そろって申し訳ありませんと冷たい床に額をこすりつけたのだろうか。
 その後、遺族がどうなったのか原田は知らない。多額の保険金をだまし取ろうとした悪質な受取人の行く末など、会社は関知しないのだ。
 生命保険会社の保険金部とは、この手の話が日常的に転がっている場所だ。
 紛争案件の資料は分厚いファイルに綴られ、保険金部フロアの北東に位置するキャビネットに保管されている。現代的なフロアの中で場違いなほど旧式の、ダイヤルを備えた黒くて大型の鉄庫である。過去のやり手社長が保険金部長だったころのもので、当人はとっくに退任し亡くなっているが、師と仰ぐ役員が多いために撤去できないでいるという。それは昭和の時代から、人間の欲と嘘を呑み込んで身じろぎもせずそこにただずんでいる。
 保険会社は巨大だが、その金は大半が契約者のものだ。いずれ保険金を支払うための準備金なのである。その意味で荒川は正しい。払ってはいけないものは絶対に払ってはいけない。一方で、
 ――遺族は強欲――
 これも真実だ。遺族はなんとかして保険会社に、払ってはいけないものまで払わせようとする。
 みなそれぞれ事情はあるだろう。だが保険業は道楽でも慈善事業でもない。彼らに安易に同情して余分な金まで払っていたら保険ビジネスは成り立たない。そんなことは小学生にだってわかる。
 高額の保険金が欲しいなら、最初から高い保険料を払って高額の契約に入ればいい。それが荒川のいう契約者間の公平ってやつだ。不正な請求をしてくる受取人はもはや大切な顧客ではない。その瞬間から排除すべき敵に変わるのだ。
 虚偽請求の件数はたしかに全体から見ればわずかだ。すべての受取人が保険金詐欺を企てるわけではない。しかし、それは企てる余地がないからに過ぎない。東北の案件だって、死因が明らかであれば、妻が余計な欲をかくことはなかった。
 ほんのわずかでも増額を主張できる隙があれば、遺族は必ず主張してくる。その根拠が見え見えの嘘だろうが、子どもの寝言みたいな屁理屈だろうが、例外はない。
 保険金詐欺は犯罪である。虚偽だと知りながら請求をしてくれば、失敗しても詐欺未遂だ。しかし彼らに罪の意識などない。保険会社が客を訴えたりするわけがないとたかをくくっている。つまり彼らにとって保険会社とは、騙して当然の相手なのだ。
 ――信義誠実の原則だと――
 そんなものを守ってどうする。不誠実なのは客のほうじゃないか。
 セールスは顧客の信頼を得なくては仕事にならないが、だからこそ相手の本性を知っておく必要がある。そのうえで、顧客と会社がもめた場合には、どちらにも悪い印象を与えないようにうまく立ち回るのだ。それには神経を使う。自分が募集した契約でもないのに、巻き込まれたら丸損じゃないか。
 ――あいつにやらせときゃいい――
 そこまで考えて、ようやくうつらうつらとした。いくつか夢を見た。
 倉田遥香が出てきた。白い風景の中でこちらに背を向けて立っていた。それから場面が変わって、一億円の受取人候補である家族三人と吹雪の海で死んだ社長がいっしょに現れた。三人がどんな人物なのか原田は知らない。社長の顔だってもう覚えちゃいない。それでもその四人だとわかった。
 顔のない四つの黒い人影は、音もなく原田の部屋に滑り込んでくると、ベッドの周りに並んで立ち、覆いかぶさるように、眠りこむ原田をじっと見下ろしているのだった。

「あの……」
 次の日、朝一番で、笹口佳奈子が背後から声をかけてきた。昨日よりさらに不安そうな表情だ。
「すみません、原田さん。お客さまからお電話です」
「おれに?」
 心当たりがない。自分の顧客には携帯の番号しか教えていない。
「間違いだ。君、出といてよ」
 くるりと椅子を回し、背中を向けた。ところが笹口佳奈子はすがるような声で言う。
「駄目なんです。私じゃ全然お話にならなくて……」
 原田は面倒くさそうに答えた。
「どうせ支払いが遅いとかだろう。事務的なことはおれじゃわからないから、後で荒川からかけ直してもらってよ」
 たまたま荒川は席を外している。
「それが、今すぐ説明しろって、すごくお怒りなんです。どうかお願いします」
 必死の表情で頭を下げる。
「何でおれなんだよ」
「昨日、原田さんと荒川課長代理がお話ししていた、あの名義変更のお客さまなんです。青木さまの、元受取人であるお父さま。私、たまたま取って、昨日お二人が話していたお客さまだって気づいたからご説明したんです。このままじゃお支払いできないようですって。そうしたら、すっごく怒り出して……」
「君が説明したの?」
 こくん、とうなずく。
 ――余計なことを――
 こんな小娘に電話口で言われたい話じゃないわな。
「ごめんなさい。でも私、電話を取ったんだから、自分でやらなくちゃって思って……」
 泣き出さんばかりの表情。ちっ。
「しょうがねえな……」
 原田がそう言うと、笹口佳奈子は顔をぱっと輝かせて、
「ありがとうございまーっす。保留三番、お願いしまーっす」
 スキップのような足取りで去って行った。
 ――何だ、あいつ――
 豹変ぶりに唖然としながら三番を押す。
「はい、お待……」
 まともにしゃべれたのはそこまでだった。

 故人の父、青木健吾は、通話の最初から最後まで激しい口調で怒鳴りまくった。最後には「今すぐ説明に来い」、プツン。原田はやれやれと肩をすくめた。
「どうでした?」
 背後で声がした。ぎょっとして振り向くと、いつの間にか笹口佳奈子が戻ってきている。
「聞いてたのか」
「私が取った電話ですから気になって」
 と言うわりには心配しているふうではない。原田が苦情対応に苦慮する様子を見て楽しもうとしていたのだろう。
「この程度の苦情なら山ほど経験してる」
 原田は過去に、中堅スーパーの社長の屋敷に呼び出され、半分やくざのような連中に事実上軟禁されたことがある。丸一日かけて折衝し、帰るときには大口の紹介を二件ほどもらってきた。ようするにやり方次第ってことだ。
「へえ。さすがですね」
 つまらなさそうな口調で言い、自席へ戻っていく。
 ――この女、要注意だぞ――
 電話を切った後、一応課長に報告した。一応のつもりだったのに、じゃあ君が行けと言われて頭に血が上った。
「支社の仕事でしょう」
 課長は百キロをゆうに越える巨漢だ。上半身をふんぞり返らせて言った。
「一億だぞ。支社に任せるような案件じゃない。これは君の担当案件なんだから、君が行くんだ」
 ――法人営業部長に対しては、あんなに卑屈だったくせに――
 この男はおれに敵意をもっている、と原田は思った。そういえば初日からそうだった。研修会場で、斜に構えて研修を受けている原田のほうをずっと陰険な視線で睨んでいた。
 ――邪魔に思っているのか――
 ただ部下の増員を喜んでいればいい部長クラスとは違って、実務を取り仕切る課長クラスにとって、畑違いの営業要員など管理上のリスクにしか思えないのだろう。異動の経緯も聞かされているに違いない。しかし仕事でヘマはしていない。単におれが嫌いなのか。感情で部下を評価するのは論外だし、それを当人に見透かされるのも管理職としての資質を疑う。――わざとやっているなら別だが。
「しかしですね」
「業務命令だ」
 ――くそ――
 明確にそう言われると返す言葉はない。課長を一瞬にらみつけてから、原田は出かける準備を始めた。席に戻ってきた荒川に事情を話すと、ではぼくも一緒に行こうと言う。――何だと。
「指導担当はいいのかよ」
「山下に頼む」
「最初っからそうしろよ。だったらおれは――」
 行くのやめるぞと言いかけて、思いなおした。
 ――こいつでだいじょうぶか――
 苦情対応には事務的にやっていいものと、そうでないものがある。この案件は間違いなく後者だ。そして苦情対応は初動が命というのは荒川も言っていた通りである。初期対応をしくじると長引く。
 ここにいる超事務的な理詰め野郎を高血圧じいさんのところに一人で行かせるのは、どう考えても得策じゃない。で、こいつが話をこじらせた後はどうなる。担当を変えろという話になり、名前を知られているおれが指名されるに決まっている。
 ――くそ。はまっちまった――
「おまえ、わかってんの? これって苦情だぞ」
「そう認識している」
「嫌じゃないのかよ」
「嫌かどうかは関係ない。仕事だ」
 ――つくづく変なやつ――
 こうして、一億円を受け取り損ねた父親のもとを荒川と二人で訪ねることになった。

 いまや「元」受取人となった父親・青木健吾は、外見はまるで七十歳すぎだが、繰り返し語られる過去の苦労話から逆算すると、実年齢はどうやら六十そこそこのようだ。
 しわだらけの頬を紅潮させ、電話のときの罵倒口調をずっと維持している。痩せて小柄な身体のどこにこれほどのエネルギーがあるのだろう、と原田はひそかに感心した。
「払えないとはどういうことだ。誰の名前で受け取るかなんてあんたらには関係ないだろう。家族だぞ。そんなことで揉めるわけがない」
 声がでかいのはまだまだ元気な証拠。何よりだね。せいぜい息子の分まで長生きしてね――腹の中でそんな軽口をたたきながら、原田はうわべで恐縮の表情を作っていた。
 ショーちゃんの実家は大田区にある小さな機械部品工場だった。どんな会社か調べないといけないと思っていたが、興信所に頼むより現地調査が先になった。おかげで感じがよくわかった。弁護士が言っていた通り典型的な零細町工場だ。不景気の影響は隠しようもなく、周囲には平日の昼間からシャッターを閉めた工場が多く並んでいた。
 二人は工場に隣接する狭い事務所の奥の、これまた狭い応接スペースで、社長・青木健吾と向き合っていた。町工場特有の、オイルと金属の匂いがあたりを覆っている。
 ――よくねえな――
 通された瞬間に原田はそう思った。途中の作業場には誰もおらず、ガラスの応接テーブルはすすけたように曇り、革張りのソファの端はだいぶ擦り切れている。
 バブル崩壊以降の不景気を今日まで生き残っているのだから、それなりのしぶとさはあるのだろう。しかし壁に飾られた区長からの感謝状は、はるか昭和の時代のもので、陽に焼けてだいぶ黄ばんでいる。
「これまでに三度ご説明いたしました通り、息子さんは生前、名義変更の手続きをされていました。ですから、お手元の証券の表示はすでに無効になっているのです」
 事務的な荒川の口調は何回目だろうと変わらない。これはこれで大したものだ。うっかりすると尊敬しちまいそうだ。
「そんなことは知らん。だいたいだな、東西生命は三年前に融資の手続きを間違えたことがあるだろう。おかげでうちは不渡りを出しかけたんだ。それを忘れたのか。今度はうちの息子が残してくれた保険金を払わないだと。ふざけるな」
 この話も四回目だ。支社が来たがらなかった理由はこれだろう。よほどひどい苦情だったに違いない。
 ――しゃべるほどに自分の言葉に興奮していくタイプだ――
 この手の輩にはまず頭を冷やしてもらう必要がある。ちょっと時間がかかるな――原田はげんなりした。
「てっきり金を持ってくるのかと思ったら、電話の話と同じじゃないか。受取人がわからないだと。そんな寝ぼけた話があるか。証書にはたしかにおれの名前が書いてあるんだ」
 よれよれになった保険証券のコピーをこめかみのあたりで振り回す。
「社長、落ち着いてください。よろしければ私どもから直接、奥さまやお子さまたちにもご説明を――」
「そんなことはしなくていい!」
 父親が応接テーブルをバン、と叩くと細かいほこりが舞い上がった。原田は身をすくめて見せた。
「家族にはおれからちゃんと話す。まったくあの野郎、死んだ後まで面倒ばかり……。子供たちは独立しているんだ。今さらこんなことのために、いちいちハンコだの承諾書だの、面倒なことはさせられない。だってそれはあれだろう、実印だろう。子供たちは役場へ行って印鑑証明をとって来なきゃならない。そんな面倒はさせられない。送った書類でじゅうぶんだろうが。そうやっていやがらせをして、結局は払わないつもりか。よし、訴えてやる。こっちは腕のいい弁護士を何人も知っているんだ」
「訴訟は費用も手間もかかるので――」
 原田はあわてて押しととどめた。
「社長、誤解なさらないでください。これはお支払いをするための手続きなんです。私たちも、一日も早くお支払いをしたいんです。それにはあと少しだけ書類の整備を……」
 訴訟なんて煩わしい。転職活動に支障が出る。
「払いたいならさっさと払えばいいじゃないか。あんたらの言うことはさっぱりわからん」
 父親は煙草を取り出し、落ち着かない様子ですぱすぱとやりだした。
 ――ここはいったん引くか――
 父親――ショーちゃんの父親だからケンちゃん――にしてみれば、おそらくは資金繰りが苦しいところへ、天から降ってわいたような一億に小躍りしていたのだろう。それなのに笹口佳奈子のアニメ声で、うーんとあれはねゴメンナサーイあなたのお金じゃないのよーと告げられ、頭に血が上っているのだ。
 今日はもうこれ以上話しても無駄だ。とりあえず飛んできたという誠意の足跡は残せた。いったん引き揚げよう。時間を置いて少し頭を冷やしてもらえば、結局はこちらの言う通りにするしかないことがわかるだろう。
 見たところ、メンツや筋論を重んじる古いタイプの経営者だ。この手合いはプライドを傷つけないことが何より大事である。このままでは無理だとうすうす気づいてはいるのだが、いったん大きな声を出してしまった手前、引っ込みがつかなくなっているのだ。
 だから『相手が折れてきたから聞いてやった』と言える状況を演出して、振り上げたこぶしを下ろすきっかけを作ってやればいい。原田は困り果てた表情を作って、深く頭を下げた。
「――社長、この通りです。どうか私どもの立場もご理解ください。今どきは役所の指導がとてもきびしくて、とくに保険金のお支払いのところは、書類上も完璧にしておかないと、検査のときに何を言われるかわかったもんじゃないんです」
 眉の形をいっそう情けなく歪めて、
「いったん疑われたら隅から隅まで徹底的に調べられるんです――いえ、このご契約のことを言っているんじゃありませんよ。でも場合によってはお客さまのところまで調査が入ったりすることもあるかも知れませんし、税務署だって来るかもしれません。社長にそんなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「税務署……?」
 よし、かかった。やはりこういうときは税務署だ。このクラスの経営者はたいてい税金やら社会保険やらで苦労しているからな。
「私どもも大の男が二人、雁首そろえてお邪魔しています。それなのにお叱りを受けただけで帰ったとなれば、上の者から怒鳴られます。お願いです、社長。今日のところは本当にここまでの答えしかないんです。何しろさっきのお電話で飛んできたんですから。とにかく、帰ったら次までに、何か社長にご迷惑をおかけしないような手続きの方法がないか、よく調べてみますから」
 原田が哀願調で続けるうち、だんだんとケンちゃんの眉間のしわが緩んできた。
「うむ……」
 聞く耳を持たせればこっちのものだ。よし、これでOK。原田がそう思った瞬間、横から荒川がぶち壊した。
「いいえ、他のやり方などありません。現時点であなたはすでに契約の当事者ではありませんが、ご家族なのでお聞きするのです。息子さんが、あなた以外の三人のうち本当はどなたを受取人にしたかったのか、お心あたりはありませんか」
 原田は右手で両眼を覆った。眉を吊り上げたケンちゃんが、テーブルをがたんと揺らして立ち上がった。

 その後、ケンちゃんをなだめるのに三十分かかった。帰りの駅までの道すがら、つい原田の声が高くなり、すれ違う人たちの視線を集めた。
「おまえなあ、あのタイミングであんなこと言ったら、相手は怒るに決まってるだろう。おかげでぜんぶやり直しだ。苦情折衝ってのは、いかに引きながら言質をとるかなんだ。相手を立てながら、こっちが欲しいせりふを言わせるの。相手はようするに金が欲しいんだから、最後はこっちの言いなりになるしかない。持っていき方が大事なんだよ」
「だからといって嘘をついていい理由にはならない。名義変更の請求書が出ている以上、もう父親に支払うことはあり得ない。可能性が残っているかのような説明は誤った期待を抱かせるおそれがある」
「ただの方便だよ。そう言ってやれば向こうだって、じゃあ今日のところは帰してやろうかってなる。明日にでも、社長すいません、やっぱり方法はありませんでしたって電話すりゃいい。あっちだって馬鹿じゃない。そのときには頭が冷えてるさ」
「冷えていなかったら」
「そのときは次の手を考える。あの場面ではとにかく、上げたこぶしを下げさせることが先決だった」
 荒川は立ち止まり、原田の行く手をふさいだ。
「昨日も言ったが、ぼくたちの仕事は事務だ。公平で隙のないルールを整備し、それを遵守すること。君のやり方は誠実さや論理性に欠け、ルールを逸脱している。それでは組織としての統制がとれないし、契約者間の公平が保てない」
「苦情が拡大するほうが問題だろう」
「理不尽な苦情まで聞く必要はない」
「苦情を言ってくるやつは自分が理不尽だなんて思ってねえよ。おまえは客ってものがわかってないね」
「ぼくが電話で苦情を受けたら、同じ人からは二度とかかってこない」
「理屈じゃ敵わないから、いったん切って別の担当者にかけ直してるんだろうよ。素人を理詰めで言い負かしてどうすんだ。向こうは不満を解消しようと思って電話してくるのに逆効果じゃねえか。そうやって裁判沙汰が増えていくんだ」
「訴訟をおそれて保険金の仕事はできない」
「裁判てのは起こされる前につぶすもんだ」
 原田は荒川の脇をすり抜けて歩き出した。荒川も後を追う。やがて駅に着き、二人は無口のまま改札を抜けた。原田はずっとむすっとしていたが、荒川は無表情のままだった。
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