第18和  母と私

文字数 1,304文字

 長い間、駄文を書きっ放して母のことをかけていない事は
意識していた。しかし、私の記憶に残る母は死んだ日の母だけなのだ。

 母は青白い顔をしておく座敷で寝ていたという。
リユウマチを病み、手が変形し犬の子育てのように弟を口に咥えて
育てていたらしい。私が、そばに行ってよく手伝いをしたと聞くが、
何も覚えていない。

 母は、私が5歳の時、正確には4歳と11か月の9月他界した。
死の直前、母は西の離れへ移されていた。母の病んだ部屋も、臨終の
部屋も、長い間、開かずの間だったようだ。
 死因が肺結核だった事は、ずっと後になって知った。
道理で私のツベルクリン反応が、幼少から陽転していた事も頷ける。
  
 叔母が二人、母の枕辺にいて、呼ばれて中に入った。
硬い葉っぱで「口許に水をあげるよう」言われて母を見た。見ては
ならないものを見た気がした。

 叔母は母の名前を呼び、よび、泣いていたが、庭先にいる遊び仲間が
気になり、臨終の場を後にした。
 あれが末期の水か、後になって知ったが、初めて遭遇した厳粛。

 父の帰りを待てずく葬儀が始まった
 棺は4人の若者がかいて、いたはずだが誰だか記憶にない。
棺の後に、5年生の長兄、次兄、私に伯父、叔母たちが続いて回った。

 棺は一定の所に来ると住職が、みょう鉢(両手に持っている鍋の蓋に似る)
をジャジャジャン、ドンガラガーンと鳴らす。
 読経の声の中、異質なミヨウ鉢の金属音が全霊を逆撫でする。脳裏にこびり
ついているあの音。あの音はずっと嫌いだし、今も嫌いだ。

 葬儀は執り行われたが、父が帰らないので出棺できず父を待っていた。
 いたずらに時間は過ぎてゆくが、父はまだ帰ってこない。

 白衣を纏い杖をついて、父は帰ってきた。まるで幽界を抜け出したようだ。
「あれがお父さんぞ」叔母が教えてくれたが、私は近寄らなかった。

  誰かが挨拶をした。延べ送りの近隣の方々もみんな泣いていたというのに
私だけは泣かなかった。母の死が理解できなかったのか、近所の友達に泣いて
いるところを見られたくなかっなのか、その両方のように思う。これは5歳に
満たない私の魂に刻んだ母の葬儀の記憶である。母を語る言葉は他に何もない。

 吹き流しや語弊を持った講中のかたの案内で、母の柩はやっと動き出した。
母も農作業に出て通ったであろう野辺の道を、柩は黙々と通り過ぎてゆく。
途中、田の畔に彼岸花が咲いていた。あの花は何故か今も好きになれない。

 葬儀が済むと父の姿はもうなかった。
父不在の家には、曽祖母と祖母、兄弟4人が残された。

 兄たちに倣って通信簿はまず母の仏前に供えた。何があっても仏前で一人語り
するうち、母との一方通行の会話を通して来世を信じるようになっていった。
私には、育ての母がいる。それは祖母だ。祖母には感謝のほかない。
 母になり祖母になって、少し祖母に近づけた気がする。

 母の遺した衣類は、叔母が毎年虫干しをしていた。戦時中はモンペになり、そのうち
自分で洋服を作り、半纏になり、気の利いた縞は亡夫の丹前になって、大いに活用した。

 今も2部式の着物にして愛用している。「いいわね」と言われるたび「母のおふるよ」
 嬉しそうに話している。











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