第3話

文字数 2,263文字

「レム」
 麦畑で大人たちが声をかけてきた。
「こんどの魔法使いは、どうだい?」
 まさか最悪とは言えず、レムは曖昧に笑ってみせた。
「まあ、トルグさんがいい人すぎたから」
 説教めかして言う人もいた。
「ちょっとは辛抱するんだな、レム」
 少しだけならね。レムは無理してうなずいた。でも、あいつは大嫌いだ。
 嫌なことは忘れようと、レムは夢中で身体を動かした。
 大人たちが刈り取った麦束を運んで、長く張り渡した棒に架けていくのがレムたちの仕事だ。空は明るく晴れ、陽射しはもう夏を思わせた。数日こんな天気が続けば、麦の穂もよく乾くにちがいない。
 日が高くなるにつれ、頭の上がちりちりしてきた。怒りにまかせて出てきたので、帽子を忘れてきたのだ。汗をぬぐいながら、レムはため息をついた。家に戻るのも面倒だった。今日は我慢するしかないだろう。
 風向きが急に変わったのはその時だ。丘から吹き下ろす風が森からのものになり、みなの顔を涼しくなぶった。一抱えの麦を棒に架け終えたレムは顔を上げた。風にのって、なにかが飛んできた。それはゆらゆらと下降して、レムの頭にぽんとのった。つばの広い麦わら帽子だ。
 まわりの子供たちがどっと、歓声をあげた。
「すごいな、レム」
「魔法使いが届けてくれたんだ」
「らしい」
 レムは肩をいからせて、麦わら帽をかぶりなおした。ひんやりした風は時々森から吹いてきて、みなの汗を鎮めてくれた。

 夕刻、レムは仲間たちと別れて家路についた。フォーヴァの顔を見るのも嫌だったが、しかたがない。
 とりあえず、帽子の礼は言わなければ。礼儀知らずと思われては、トルグさんに申し訳ない。
 家に入るとフォーヴァはいなかった。二階にも、どこにも。
 レムは、家のまわりをぐるりと探した。
 広い庭の一角は香草畑になっていて、いまはラベンダーが真っ盛りだ。ミントが思うさま領域を広げ、その間でカモミールやオレガノ、チェリーセージが可憐な花をつけている。丈の高いローズマリーの茂みの向こうに森が見えた。その手前に〈穴〉がある。
 レムは、〈穴〉の縁でフォーヴァを見つけた。
 フォーヴァは、両膝をつき、身を乗り出すようにして〈穴〉を見つめていた。
 レムが近づいたのも気づかない。膝の前に両手をついたまま、ぴくりとも動かなかった。
「フォーヴァさん」
 レムはそっと声をかけた。
 フォーヴァは応えない。
 もともと表情のない顔がことさら面のように見えるのは、瞬きひとつしないせいだ。フォーヴァの目は、じっと〈穴〉の奥に向けられていた。
 〈穴〉は、さながら虚無の湖。フォーヴァの姿など映さない。かわりに、フォーヴァの薄灰色の瞳が〈穴〉を映してすっかり黒くなっていた。
 白眼のところですら影を帯び、目そのものが、いまにも暗い虚になってしまいそうだ。
 レムは、ぎょっとした。
「フォーヴァさん」
 フォーヴァは答えない。
「フォーヴァさん!」
 レムは、とっさにフォーヴァに体当たりした。
 二人はどさりと倒れ込んだ。
 フォーヴァは瞬きした。レムは彼に覆いかぶさったまま、その顔をのぞき込んだ。
 とらえどころのない薄色の目がレムを見返した。レムはほっとして彼から離れた。
 フォーヴァは身を起こした。
「大丈夫? フォーヴァさん」
 フォーヴァは、ぼんやりとうなずいた。
「〈穴〉を調べていた」
「わかった? なにか」
「いいや。捕まったのは、わたしの方だった」
「トルグさんは誰も近づけないように〈穴〉のまわりに結界を張っていた」
「自分も近づかないように」
 フォーヴァはつぶやいた。
 レムは、うなずいた。 
 トルグの言っていたことを思い出す。
「〈アンシュの呪い〉について、わかっていることはごくわずかだ。深くつきとめようとする魔法使いは、反対に呪いに囚われてしまう」
「囚われると、どうなるの?」
「アンシュのように、自分の力だけを追い求めるようになる。魔法というのは、人々の生活に役立つことだけに使われるべきものなんだ。自分の欲望のために使ってはならない。決して」
 トルグは小さくため息をついた。
「くやしいが、わたしは呪いに対抗できるほど強くはない。わたしにできるのは、ただ〈穴〉を見張ることだけだ。誰にも危険がないように。それと、心得違いの魔法使いが誘惑されないように」
 〈穴〉をのぞいた時、レムも引き込まれそうな気がしたけれど、魔法使いはもっと別の何かを感じるのかもしれない。トルグは、確かに〈穴〉を怖れていた。
「知ってたくせに」
 レムはフォーヴァに言った。
「どうして」
「自分の力を試してみたかった。まだまだだな」
 フォーヴァはゆっくりと立ち上がった。
「助かった。ありがとう」
「いえ」
 フォーヴァが素直なので、レムは拍子抜けをした。
「帽子とおあいこということで」
「そうか」
 にこりともせずフォーヴァは言い、歩き出した。
 ふと立ち止まり、
「すまない。夕飯を作っていなかった」
「朝の残りでいいですよ」
「温め直そう」
 自分の力を試してみたかった、とフォーヴァは言った。それ自体が欲望ではないのだろうか。
 フォーヴァの細長い背中を眺めながらレムは考えた。
 フォーヴァは〈穴〉に誘惑されたのか? 
 心得違いの魔法使い。
 レムが見つけなければ、フォーヴァはどうなってしまったのだろう。あの目はそのまま黒に染まり、〈穴〉そっくりの虚となって──。
 レムはぞくりとした。大人のくせに、妙なあやうさがフォーヴァにはある。
 もう少し彼の様子を見ていよう、とレムは思った。
 トルグも、それを望んでいるかもしれなかった。

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