2章 直感が薄れる時

文字数 4,076文字

 あの日以来、ジャグルする時、変な力が入り始めているのにハルは気がついていた。自分の芸に進歩がなく、スランプに落ちそうな気配がする。新記録を出すか、何か新しいことをやらないと。あれから8個のボールを回す勇気がなくなっている。今日も7個止まりで、マンネリな芸を終えて休憩に入り、コンビニへ向かおうとした。そしてその時、見知らぬ若い男から声をかけられた。
「ねえ、俺と組まない? 俺もジャグラーなんだ。」
 髪を後ろに小さく束ねた、小綺麗とは言えない、でも小汚いとも言えない、イケメンではないけれど不細工でもないこの男の顔を見て、ハルは好かんと感じた。
「ふたりで一輪車に乗りながら、ボールを投げ合ってジャグルするっていうのどう?」
 こいつ好かんとお腹で感じたのに、新しいアイデアが欲しいと考えていたハルには痛いところを突かれているようで無視できなかった。コンビニへ行くのをやめて、ふたりで試してみた。ジャグラー同士である。しかもふたりとも一輪車を体の一部のように操れるので、外から見るとまるで息のあったコンビというように見える。ボールを次々に増やしていっても回ってる。いいかもしれない、という考えが電気のように体の中を走った。ふたりでコンビニへ行って、おにぎりを食べながら相談した。午後、ハルがいつも演技をするスポットで、ふたりでジャグルした。いつもとは違う演技だからか、人は多く立ち止まってくれた。一輪車に乗り前に進みながらふたりでボールを投げ合いながらジャグルし、最高8個までできた。次に、今度は一輪車を行進しながら同じことをした。拍手はいつもより大きく聞こえる。ひと通り終わり、稼ぎを見ると、ハルのバイオリンケースにはいつもより倍以上のお金が入っている。やったーと思ったが、こいつと山分けになるわけだから、つまりはいつもと変わらない稼ぎということだ。それでも少なくなりそうなところを乗り越えられたみたいだから、いいとしよう。この後、カズというこの青年が今日の成功の祝いと今後の成功を願って一緒に飲みに行こうと誘った。ハルは次に山口さんのところへ行かないといけない。2時間ほど待ってくれと言って、近くの居酒屋で待ち合わせることにした。上手くいって興奮状態だからかもしれない、心の奥でこいつ好かんという気持ちがまだあることをハルは見逃している。

 山口さんの家に行くと、いつもとは違う空気を感じた。家には誰もいないように感じる。ベルを鳴らしても、やはり返事がない。狭い隙間のような庭に廻って呼んでみたが、シーンとしている。隣の人が出てきて、「山口さんなら居ないのよ。いつも買い物してあげてる方よね?」と声をかけてきた。
「山口さん、昨日脳梗塞で倒れて、ちょうどここの庭に私は出ていて、バタンって何か倒れたような音を聞いたんで、山口さあん、って声をかけても返事がないから、何かあったかなって様子を見に行ったら、山口さん、倒れてたの。怖かった。急いで救急車を呼んでね、、、。」
 隣人は前日の出来事を事細かに、緊迫した状況を話してくれた。
「山口さん、どこの病院にいるんでしょうか?」
「救急車を呼んだのは私なんだけれど、一緒に乗って付き添うまではしてないから、どこに運ばれたかはわからないの。あっ、でも、今日、息子さんが来てたわ。着替えとかを病院に持って行ってあげたんじゃないかな。」
 おばあちゃんが疎遠だって言ってた息子さんがちゃんと来てくれたんだ、ならよかったと安心した気持ちになれた。バッグに入っていた小さなノートに簡単な自己紹介と携帯電話の番号を書き、どこの病院に入院しているか教えて欲しいと書いて、その息子さんが読んでくれることを祈ってノートを破り、玄関ドアの隙間に挟んだ。そして、カズと約束している居酒屋に向かった。

「ハル、ここ、ここ。」
 店に入ると、カズが馴れ馴れしく自分の名前を呼びながら手を振っている。こいつ好かんが腹の奥でぐるぐる回っている。
「ビール飲む?」
 カズは、ハルにもビールを頼み、すでにオーダーした枝豆や唐揚げを勧め、もっと料理を頼もうとメニューを眺め始めた。ビールが来たところで、もう3品追加し、ジョッキーを掲げて、「まずは、今日の俺たちの成功に乾杯」と大きな笑顔でハルと乾杯した。もうビールが回っているのだろうか、カズはひとりで話していて、ハルはただ聞いているだけだった。おばあちゃん、大丈夫かな。嬉しそうに喋っているカズの言葉は半分以上は上の空で聞いていたが、ある時カズの声のトーンが微妙に変わったので言葉が耳に入った。「今夜、うちに泊まらない?」直感力が薄くなり始めると、判断力も鈍くなる。ハルは言われるままに、カズのアパートまで行ってしまった。

「ねえ、俺と沖縄行かない?」
 カズが布団の中でこう言った。
「沖縄で何するの?」
「ふたりでジャグルするんだよ。」
「わざわざ沖縄行って?」
「青い空と、青い海のそばでふたりでジャグルするんだよ。いいと思わない?」 今のハルはそれがいいのかどうか判断できない。沖縄なんて行ったことないし、行きたいと思ったこともない。青い空と青い海だけは心に響いた。

 その晩、ハルは夢を見た。青い空の下、白い海岸に立っていた。誰もいない。青い海は大きな波を立てていた。すると大きな亀が波から出てきて、ハルの目を見た。自分の背中に乗れと言っているのが言葉を発しなくてもわかった。ハルはこのまま乗って海の奥に行ってしまったら、浦島太郎になってしまうのではと思い、一緒に行くのは嫌だと思った。亀はハルの気持ちがわかったようで、ウィンクをして海に戻って行った。

 朝、目を覚ますと横にカズがいるのでびっくりした。徐々に昨日の出来事を思い出し、携帯で時間を見ると、もう8時だ。シェ・ルミーに行かないと。急いで昨日の洋服を身につけ、台所で顔を洗い、持っていたハンカチで拭き、歯ブラシはないのでとりあえず口を水でゆすぎ、出勤途中にコンビニでガムを買えばいいやと考えた。ハルがバタバタと動いている物音で、カズは目を覚まし始めたが、まだ起きれない。ハルが大きな音で玄関のドアを閉めた時、初めて昨日の出来事と今ハルが出て行ってしまったのに気がついた。

 「おはようございます。」
 何とか時間には間に合い、いつもと変わらない風に装い、仕事を始めた。しかし、ルミさんはハルがいつもと少し違うとどこかで察していた。開店前まで少し時間が余ったので、ルミさんはハルに紅茶を入れてやり、ハルに正社員にならないかと聞いてみた。
「えっ、正社員ですか?」
「うん。いつまで大道芸するの? うちでケーキ職人の勉強してみない?」
 いつまでジャグルするんだろう、私。そんなことが頭に浮かんだのに、ハルは裏腹にルミさんに、
「私、沖縄へ引っ越すかもしれません」
なんてことを口走ってしまった。
「沖縄⁈ どうして沖縄? いつ?」
「まだ決まってません。行かないかもしれないけど、そういう話が持ち上がっていて、、、。」
「誰かと行くの?」
「いやあ、まだ何とも、、、。」
 その日は落ち着かなかった。どうして沖縄へ行くかもしれないなんて言ってしまったのだろう。行く気があるのかな、あんなやつと。ルミさんは、ハルよりももっとはっきり不安を感じていた。一体誰と行くつもりだろう。ルミさん夫婦だけでは手が足りなくなり、近所の山口さんにそう話したところ、いい子がいると言われて知ったのがハルだった。すぐに働いてもらいたかったのと、第一印象がとても気に入ったのが理由で、履歴書なんてもらわずにすぐに雇った。つまり、ハルの学歴などは全然知らない。真面目だが少し変わったところのあるハルは、もしかしたら発達障害でもあるのでは、とルミさんは考えている。高卒か高校中退だろう。もしかしたら中学を卒業しただけかもしれない。学歴がどうであれ、明るく真面目なハルが好きだ。何とか助けてあげたいと思っている。中卒のハルにここでケーキ職人として教え込むという考えは、ルミさんの心を大きく熱く、そして上に上がるような強くて軽い気持ちにさせていた。ハルが誰かに騙されていたら大変だ。ここに留まらせないと。ルミさんの頭は回転し始めていた。
 シェ・ルミーの仕事が終わると、時々ルミさんにお茶を入れてもらっておしゃべりをするのだが、この日は自分からそそくさと店を出て行ってしまった。ラッキーの散歩までまだ少し時間がある。何となく、店の近くの遊具のある小さな公園へ行ってみた。ブランコに見覚えのある子が座っている。この間お母さんとケーキを買いに来た子だ。その子もハルに気がつき、手を振った。ハルはその子のところにゆっくり歩いて行った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 つまらなそうにブランコに座っているように見えたので、ハルはこう声をかけた。
「うん。バイオリンのレッスンまでまだ時間があるから、ここで待ってるだけ。」
「へえ、バイオリン習ってるの。」
「おねえさんもバイオリン弾くんでしょ? ケース持ってたものね。」
「ああ、あれは、お金をもらうのにちょうどいいやって、質屋で見つけて買っただけ。」
「なあんだ。」
「私、ハルっているの。あなたは?」
「あけみ。」
「ちょっと古風だね。」
「うん。私が生まれる前に死んじゃったおばあちゃんの名前なの。お母さんはずっとアメリカで育ってて、アメリカではおばあちゃんやおじいちゃんの名前を、死んでなくても子供につけたりするのを知って、素敵だなって思ったんだって。で、あたしにお母さんのお母さんの名前をつけたんだって。」
「うわあ、なんか別世界の話。お母さんはアメリカで育ったの? あけみちゃんはバイオリンを習ってるし、お嬢様なんだね。」
「あたしより、もっとお嬢様たくさんいるよ。」
「少なくとも、私は違うね。」
「ねえ、おねえさん、あっ、ハルさん、これからあのお兄さんとジャグルするの?」
「んんん、わからない。」
「あたし、あの人嫌い。」
 あけみの言葉はハルの心を叩き、その振動は脳に達した。私も、好かん。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み