3章 波に乗る

文字数 2,555文字

 週末、カズは前の週末にハルとジャグルしたスポットへ来ていた。しかし、ハルはなかなか来ない。ウォーミングアップのつもりでひとりでジャグルを始めた。ハルは、どうしても今日は行く気がしなかった。初めてハルは頭の混乱を経験していた。今週末は休みにしよう。バイオリンケースも一輪車も持たず、家を出た。山口さんの息子さんからは連絡がない。気がかりだがどうすることもできない。昨日は佐々木さんから、「もう出産が近いから、今週末に実家に帰ることにしたの。ラッキーも連れて行って、多分そのまま実家で飼ってもらうようになるかなあ。ハルさん、お散歩ありがとうね。ずいぶん助かりました」と言われた。そろそろとは思っていたが、急に言われたように感じた。ハルは、昨日はいつもより多めにバニラアイスを蓋に入れて、ラッキーに食べさせた。別れは寂しさを感じた。おばあちゃんはいない、ラッキーもいない、ジャグルも休む、残りはシェ・ルミーだけだ。正社員になったほうがいいのだろうか。でも、どうしても「正社員」という言葉が気にかかる。ハルは母が入院している病院へ向かった。大したことはないといえ、ハルにとっては大事な収入が激減してしまった。ジャグルを再開しようか、カズと続けていく方がいいのか、沖縄? ふと見上げると青い空の下、宝くじの旗が目に入った。
「すみません。宝くじください。」
「どれがいいの?」
「当たるのがいい。」
「ははは、あんた、面白いこと言うね。スクラッチはすぐわかるから、これがいいよ。」
 小さな箱のようなブースに座っているおばさんがこう勧めた。スクラッチを3枚買い、おばさんに言われた通り、銀色のところを慎重に選んで10円玉で削った。
「どうだった?」
「だめ。次やってみる。」
 次もだめだった。空を見上げ、息をして、にっこり笑い、銀色のところを削っていくと、どうも当たりが出たようだ。
「おばさん、これ見て。」
「わっ、すごい。10万円が当たったよ。おめでとう。」
 ハルはおばさんから賞金の10万円を受け取り、病院へ行った。

「お母さん、大分回復してきてるね。」
「うん。そろそろ退院だよ。向こうの大きいテレビのある部屋へ行こうか。」
 ハルは母の腕を取って、テレビのある部屋へ行った。ベッドの横に小さなテレビはあるが、ここのテレビは大きくて映りがいい。
「なんか、すごくきれいな画面だね。うちのと全然違う。」
「誰もいないから好きなのに変えていいよ。」
 ハルはチャンネルを変えていった。あるチャンネルで、サーフィンをやっていた。青い空の下、青い大きな波を若い子がサーフィンしている。場所はオーストラリア、ポートマッコリーと出ている。髪の毛が海の水で濡れピタッと頭に張り付いている若者が、ウエットスーツを着て、サーフボードにまたがっている。そして大きくなりそうな波のうねりが出ると、サーファーは向きを変え、ボードに立ち波に乗る。そしてボードに乗りながらスピンする。次のシーンでは、大きな波に飲まれたかと思うと、サーファーは波のトンネルの中を走るように横切りながら進む。かっこいい。ハルはスクリーンに見惚れていた。
「お母さん、私、さっき宝くじで10万円当たったんだ。」
「えっ⁈」
「お母さん、私、ここへ行ってサーフィン習いたい。」
「ハル、、、。」
 母は手術した胃がキリリと痛むのを感じた。しかし、ハルを産んで育て上げた母はハルのことをよくわかっている。痛む胃の下の腹の奥が「これがハルだ」と言った瞬間、胃のキリリとした痛みは消えた。

 月曜日、ハルはシェ・ルミーに出勤してすぐに、ルミさんに正社員の話はとてもありがたいがオーストラリアへ行ってサーフィンを習うことにしたと伝えた。ルミさんは、ハルがあまりにも突拍子もないことを言うので理解に困った。
「母の病院でサーフィンをテレビで観たんです。その時ピンと、ここだ!私が行くべきところはここだって思ったんです。それに、私、宝くじで10万円も当たったんです。」
「えっ、10万円⁈で、沖縄はやめて、オーストラリアにしたの? でも10万円じゃ足りないんじゃない?」
「貯金もあります。貧乏生活でもいいの、サーフィンさえ習えれば。」
 この子を助けてあげたいとルミさんの心が鳴る。
「ワーキングホリデーって知ってる? カナダとか、ニュージーランドとか、オーストラリアとかで、1年間特別のビザをもらって行けるの。そのビザで仕事してもいいし、学校に行ってもいいし。アルバイトしながらサーフィン習えるかもしれないわよ。」
「えっ、本当ですか⁈ それがいい。調べてみます。ルミさん、ありがとう。」
「私ね、大学卒業して2年ぐらい会社勤めしてたんだけれど、そこをやめて、ワーホリでニュージーランドへ行ったの。準備を手伝ってあげるから、出発までここで働いてくれる?」
「嬉しいです。働きます。」
「それから、オーストラリアから帰ったら、またここへ戻ってきてくれる?」
「、、、。喜んで。」
 どうしてルミさんはこんなに私に優しいんだろう。ハルは不思議に感じていた。しかし、ルミさんの助言と助けは大きな力になる。これでオーストラリアでサーフィンを習える。ハルの心はウキウキしていた。

 シェ・ルミーの仕事が終わると、もうどこへも行くところがなかった。ラッキーはいない。おばあちゃんもいない。手持ち無沙汰な気持ちで、また小さな公園へ行ってみた。もしかしたらと思ったが、あけみが今日もブランコに乗っている。
「あけみちゃん。」
「あっ、おねえさん。あっと、ハルさん。」
「おねえさんでもいいよ。今日もバイオリンのレッスン?」
「そう。コンテストに出るから、レッスン増えちゃって。」
「コンテスト⁈ あけみちゃん、上手なんだ。」
「そんなに上手じゃないけれど、先生と親が出ろって言うから。」
「でも、誰もが出れるわけじゃないだろうし、やっぱりあけみちゃんは上手だってことだよ。」
「おねえさんはジャグルが上手だものね。一輪車も。」
「ジャグルねえ、もうしないかも。私ね、オーストラリアへサーフィン習いに行こうかと思って。」
「かっこいい。おねえさんなら、絶対上手に波に乗るよ。」

 ハルはその後、本当にワーキングホリデーのビザを取り、オーストラリア、ポートマッコリーへ旅立った。
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