4章 ハル

文字数 3,776文字

 山口さんは、病院を退院してから自宅ではなく息子の家で生活することになった。高齢だし、リハビリもしないといけないし、また発作が起こるといけないと息子夫婦から口説かれた。渋々同居することにし、ふたりが言うように家は売ることにしてしまった。自由を奪われたような気がして、しばらくは気持ちが晴れなかった。
「おばあちゃん、美術部で出展する絵のモデルになってくれない?」
「ええ、おばあちゃんなんてモデルになれないよ。こんな皺くちゃの顔で。」
「その皺を描きたいの。」
「やだねえ、はははは。」
 山口さんの顔がもっと皺くちゃになり、孫娘のありさは「その顔、その顔、その顔が描きたいんだ」と心の中で叫んだ。
 息子は相変わらずつっけんどんで、何を考えているのやらと思わされるが、嫁は、思っていたより優しく、料理も上手い。こんな子だったっけかね、うちの嫁は。嫁があまりこちらに気をかけない分、自分もそんなに気をかける必要もなさそうだ。大学生と高校生の孫娘には、いつの間にこんなに大きくなったのか、と驚かされる。ふたりの孫娘も気が優しく、好きなことをすぐに口にする。絵のモデルになって欲しい、皺くちゃの顔を描きたいから、なんて面白いことを言うんだろうね、と山口さんは愉快に感じていた。ハルちゃんみたいな子達だ。明るくて、あっけらかんとして、気取ってなくて。こんないい孫がいるんだ、私には。脳梗塞にならなかったら気がつかなかったかもしれない。同居は気が重かったが、こうして実際一緒に暮らしてみると、悪くないかもしれない。息子夫婦がそうしろと言うなら、家を売ってここに永住するのもいいかもしれない。山口さんはそう考え始めていた。そして、自分が突然いなくなってしまって、ハルちゃんは心配してるのではないかと、その点は気がかりだった。どうしているかね、あの子は。ルミさんのところでしっかり働いているだろうね、きっと。時々、山口さんはそんな風に想像していた。

 佐々木さんは無事に女の子を出産した。ラッキーは病院から帰ってきたママを見て喜んだ。一緒に来た小さい生き物にはとても興味を持った。ベビーベッドに寝ている小さな生き物のそばを離れたくない。変わった、かわいい匂いがする。小さな音を立てている。守ってあげたい、と本能が言う。しかし、お腹が空いてきて、台所からいい匂いが漂ってくると、どうしてもそこを離れ台所へ行ってしまう。台所でお料理をしているお母さんは頭を撫でてくれるが、なかなか美味しいものをくれない。やっとラッキーの気持ちがわかったのか、お母さんは戸棚の上にあるチキンジャーキーをくれるが、バニラアイスを食べたいのには気がついてくれない。お母さんは散歩に連れて行ってくれるが、コンビニには立ち寄らない。ハルちゃんがいつも買うバニラソフトはあれ以来お目にかかってない。食べたいなあ。おいしかったなあ。生まれたばかりの赤ちゃんが小さい声で泣き出した。ラッキーは、急いでベビーベッドのところへ戻った。ママがその子を抱き上げ、優しく話しかけている。そばの椅子に座り、おっぱいをあげ始めた。ラッキーは椅子の横へ伏せをして見守った。甘い匂いがしてくる。ああ、ハルちゃんのバニラソフトを思い出す。ハルちゃん、今はラッキーがいないからひとりで全部食べてるのかなあ。ラッキーはハルとバニラソフトを懐かしく思い出していた。

 カズは、どうしてハルがいなくなったのか、不思議に思いながらずっと考えている。頭からハルが離れない。会った日にアプローチしたのがいけなかったか。早まったか。以前も一緒に寝た後、すぐに別れてしまったことが何回かある。別れたというよりも、向こうから去られてしまった。理由も言わずに。いや、一度いなくなる前にひと言言われたことがある、「あんた、下手。」畜生、何が下手だ。ひとりで沖縄へ行ってみるか。沖縄へ行ってどうする。ひとりでジャグルする気か。「大学受験を失敗したっていい。だが、そんな事する他に、何かもっとまともな仕事をする気はないのか。」親父に何回も言われた。畜生。出来のいい兄貴は商社に勤めている。だからなんだ。カズはハルのことを考えながら、自分の成り行きを思い返していた。大学受験を2回失敗し、浪人生活を3年続ける気にはなれなかった。成績のいい兄貴は、どこか不器用で、一輪車なんかには乗れなかった。俺はすぐに乗れた。ジャグルも試したらすぐにできるようになった。これが俺の得意技だと思ったんだ。カズは、頭の中で自分と会話をし、大きなため息をついた。これからどうすりゃいいんだ。どこかまともなところで正社員として働くか。どこでだ? カズは、小さい頃に迷子になった時を思い出していた。どっちの方向に行ったらいいのかわからなかった。怖かった。あれはどこかの大きな公園だった。噴水があって、木がたくさん生えていて、人もたくさんいた。自分以外の人はみな楽しそうにしている。笑っている。遊んでいる。自分だけ、ひとりぼっちで、どこに行っていいかわからなかった。涙が自然と出てきた。声を出して泣き始めてしまった。そばにいた男の人と女の人が心配そうに、どうしたのか聞いてきた。「迷子になったのかい? お名前は?」「誰と来たの?」「お父さんとお兄ちゃんか。大丈夫だよ、すぐ見つかるよ。」「しばらく一緒にここで待ってみよう。」ふたりの言葉は優しく聞こえたが、涙と嗚咽は止まらなかった。とても長い時間泣きながら、この人たちと待っていたような気がする。親父は本当に見つけてくれた、兄貴の手を繋ぎながら見つけてくれた。もうハルに会うことはないだろう。

 ルミさんは、いつもハルのことを思っていた。いよいよハルがシェ・ルミーをやめてオーストラリアに旅立つ時、LINEで繋がっていてくれ、写真を送ってくれとルミさんは強くハルに言った。言われた通り、ハルは着いた時、サーフィンを習い始めた時、写真付きでLINEをルミさんに送ってきた。嬉しそうな笑顔で、ウェットスーツに身を包み、プロのサーファーのように髪を濡らして、サーフボードを抱えていた。仲間が撮ってくれたのだろう、あやふやだがボードに乗って波に乗ってるビデオも送ってきた。日本食のレストランで働きながら、サーフボードのお店でも働いているらしい。この子は強い子だわ。どんな波にも負けない子なんだろう。発達障害なのではと勝手に想像したが、一体この子は本当は何なんだろう。ケーキ職人ではないかもしれない。LINEの数は少しづつ減っていった。1年が経とうとする頃、ワーキングホリデーをもう一年延長すると言ってきた。もうここへは帰ってこないのでは、とルミさんは直感的に感じた。

 母は、遠い外国へ飛び出していったひとり娘を心配していた。夫は、心配してもしょうがない、ハルはそういう子なんだ、そういう風にふたりで育てたつもりはないがハルが持って生まれた性分だろうと言った。母も実は無意識の中でそう感じている。「でも、いつまでこんな風に落ち着かない子でいるんだか、将来を思うと、気が病むのよ」と夫に言う。彼女は気がついていないのだが、いつまでも小学生と変わらないこの娘が愛おしくてしょうがないのだ。いつまでも手元にいてくれる、オーストラリアにいようといつまでも自分の子供でいてくれるのが嬉しいのだ。父はハルの将来なんて心配していなかった。ハルはハルでいい、いつまでもハルでいてくれればいいと思っていた。

 あけみも時々ハルのことを考えていた。おねえさん、どうしてるだろう。絶対サーフィン上手になっていて、もしかしたらプロのサーファーになってるかもしれない。おねえさんはかっこよかった。ハルに習って、中等部に上がると水泳部に入った。サーフィンは無理だけれど、水の中をおねえさんに負けないようにかっこよく泳げるようになりたいと思ったのだ。バイオリンは続けていた。泳いでいる時、自分が練習している曲が頭の中で鳴った。気持ちが良かった。バイオリンの音と一緒に手と足を動かすと前にどんどん進めるような気がする。おねえさんさんはどんな風にサーフィンしてるのかな。波の音、風の音、そんな音と一緒になってるんだろうな。グーグルでオーストラリア、ポートマッコリーを調べてみた。サーフィンのメッカらしい。コンペティションもあるらしい。いいなあ。おねえさんは、空を自由に飛ぶ鳥みたい、海の中を自由に泳ぐイルカみたい。あけみにとって、ハルは幻の英雄のようだった。ある日、ぶらりと立ち寄った本屋で、サーフィンの雑誌が目に入った。ポートマッコリーでのコンペティションのことが書いてある。ページをめくり、ハルがいないか載っている写真をくまなく見ていった。外国人ばかりで、日本人はいなかった。どの人も鋭い目をしていて、どこか自分の知らない遠くを見つめているように思えた。おねえさんも今はきっとこんなきれいな目をしているんだろう。ウェットスーツを着て、ボードを抱えて、遠くの波を見てるんだろう。いつか自分もオーストラリアのポートマッコリーへ行ってみたい。そこでおねえさんに会えたら、素敵だろうと考えた。
 さあ、部活だ。あけみはハルとポートマッコリーでの再会を想像しながら、今日も笛と共にプールへ飛び込んだ。

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