1章 猿も木から落ちる。

文字数 3,981文字

「はい、それではもうひとつボールを足して、今度は5つでいきます。」
 ハルは一輪車に乗りながら、5つのボールを回してジャグルし始めた。初めの4つはウォーミングアップ、5つはまだまだ序の口、簡単である。観客は5、6人で、まばらな拍手が聞こえる。次に、ハルは5つのボールをジャグルしながら、一輪車を後ろに漕ぎ始めた。まばらな拍手が気持ち大きくなったように聞こえた。回していたボールをひとつひとつ地面に落とし、手を横に広げ、拍手喝采を待つ。まあ、何となく感激してもらったかなと実感して、一輪車を降り、大事な観客を見ながら、「では、これからが本番。もう1個ボールを足します」と言って、6個のボールを肩から掛けている大きなポケットのようなポシェットに入れ、再び一輪車に乗り、バランスをとったところでひとつずつボールを取り出しジャグルする。6個からは少し緊張してくるが、6個で失敗したことはない。最高9個までジャグルできた。今日はどこまでいくか。最高記録が出るかもしれない。6個のボールは無事に宙を回り始め、ハルは再び一輪車を漕ぎ始めた。今日は天気が良く、陽が眩しい。サングラスをしてくればよかったと後悔した途端、なんてことだ、ボールを落としてしまった。最高記録どころではない、最低記録を出してしまった。「あれぇ、猿も木から落ちるでした。」何とか咄嗟にその場を繕うと、冗談と思われたのか、軽い笑いと共に拍手を浴びた。
 この日は慎重にジャグルして7個までにしておいた。1時間ほど演技をして休憩をとった。立ち止まって観てくれた観客にお礼を言って、一旦開いていたバイオリンケースを閉じ、コンビニへランチを買いに行った。ベンチでおにぎりを食べながら、いくら眩しいとはいえ6個で失敗してしまったことを不思議に思いながら、とても悔しく感じていた。1時間後、同じ場所に戻り、同じ演技をして、この時は失敗しなかったがボールは7個までにしておいた。自信を失ってしまったのだろうか、という考えが過ったが、無視してできるだけ何も考えず、次の仕事場へ向かった。

「おばあちゃん、元気?」
「ハルちゃん、今日はどうだった?」
 ため息をひとつついてしまった。そして、山口さんに今日の失敗を話した。
「あれぇ、それは残念だったね。でも、そういうこともあるからね、人生には。人は、上手くいき過ぎると驕った気持ちを持ち始めてしまうからね、そういう軽い失敗はあるといいのよ。」
 おばあちゃん、いいこと言ってくれるな、と感謝の気持ちがお腹から生まれ、体にあった緊張がほぐれ始めた。
「ありがとう。今日の買い物は?」
「ええとねぇ、ここに書いといたから。」
 ハルは、お年寄りの山口さんの買い物を手伝っている。水曜日と土曜日に行って、山口さんが用意したリストを見ながら買い物をしてあげ、しばらく一緒におしゃべりをしてあげる。そして、お小遣い程度のお駄賃を貰う。この日もいつものように買い物を済ませ、山口さんのうちに戻り、買ったものを冷蔵庫に入れたり、トイレットペーパーを棚に置いたりした。その間、山口さんは、「ありがとうね」を何回も繰り返しながら、ハルのためにお茶を用意してくれた。
「お母さんの具合どう?」
「手術の経過はいいらしいよ。でも、後、もうちょっと入院してないといけないかな。」
「そう。それはよかった。ハルちゃんは優しいから、お母さんも助かるわね。」
「うちのお母さん、そんな風に思ってないと思うよ。ハハハ。」
「あたしなんか、息子とは疎遠だから、孫がいたって、いないも同然。ハルちゃんの方がよっぽど孫みたい。」
 そういう言葉がとても気持ちをよくさせてくれて、嬉しい。山口さんとの団欒が終わり、ハルが台所で湯呑みを洗ってあげ、帰ろうとすると、山口さんは、「ハルちゃん、これ、お母さんのお見舞い」と言って、さっきリストにあってハルが買って来たスーパーの大福を袋に入れて渡そうとした。
「いいよ。おばあちゃんが食べてよ。」
「お母さんにって思って買って来てもらったんだから。」
「お母さん、胃潰瘍の手術して、まだこういうの食べれないもん。」
「じゃあ、ハルちゃんがお父さんと食べればいい。持って帰ってちょうだい。」
 山口さんの気持ちを買って、ハルはありがたく受け取り、バイオリンケースの中に入れた。

 家には真っ直ぐに帰らず、母が入院している病院へ寄った。ちょうど夕食の時間で、廊下は付き添いの人や、パジャマ姿の患者さんが多くいた。ハルが部屋に入ると、母は一番奥のベッドで起き上がっていた。
「お母さん。」
「あっ、ハルちゃん。」
「ちょうど夕ご飯だね。持って来てあげる。」
「藤村さぁん。」
「はい。」
「ああ、娘さんが来てるの? よかったね、藤村さん。」
 トレーを持った看護人がハルに手渡した。トレーには蓋のついた黒いお椀がひとつだけ載っかっていた。テーブルの上にそれを載せ、母の前に持っていってあげ、蓋を開けるとドロっとした重湯が入っていた。これだけでも食べれるようになったからよかった。回復は順調である。「食べれる?」とハルが聞くと、母は弱々しい手でスプーンを持ちながら重湯を口に運んでいた。「何とか食べれるよ。早く良くならないとね。お父さん、待ってるから」と結構力のある声で答えた。ハルは安心した。病院を出て、帰る途中、気を利かせて父に電話をかけ、コンビニでお弁当を買って帰ろうかと聞いた。父はもうチャーハンを作ったからそのまま帰って来いと言ったので、ハルはどこにも寄らず帰宅した。
「お父さん、このチャーハン美味しいよ。卵も入ってて。」
「コンビニで弁当ばかり買って食べてたらよくない。ちゃんと作って栄養を摂らないと。」
 なるほどと思いながら、デザートにふたりで山口さんがくれた大福を食べた。

 ハルは今度の誕生日を迎えると27歳になる。大学を卒業して、定職に就かず、いくつかの仕事をしながら親のところに住んでいる。主な仕事と聞かれたら、多分彼女はシェ・ルミーのバイトと答えるだろう。週末は公園でジャグルをするので、週末と定休日の火曜日以外はケーキ屋シェ・ルミーでアルバイトをしている。ケーキ職人のご主人と妻のルミさんが朝早くケーキを作り、出来上がったところでケースに入れる仕事をするので、ハルは9時に出勤する。遅れることなく、笑顔でよく働くので、ルミさんはとてもハルを重宝している。正社員なんかいないがハルを正社員にしてもいいと思っている。何なら、ケーキ作りを教え込んでもいいと思っている。公園で大道芸みたいなことなんてやめて、うちでしっかり働いた方がいいのにとルミさんは内心思っている。ハルはスライスしたケーキにセロハンをきれいに巻き、トレーに並べケースに入れる。開店時間前にはガラス拭きをし、店先の掃除をする。パン屋のようにごった返す時間はないが、午後3時は客が多くなる。
 6個のジャグルを失敗した次の月曜日の午後、ある母娘の親子がケーキを買いに来た。ふたりは以前も買いに来たことがあるのだが、ハルは一度もこの親子に気をとめたことがなかった。しかし、この日その女の子が母の陰に隠れるように後ろに立ち、母に「あの人、公園でボール回してたよね」と小声で言っているのを聞いた。この子はハルが失敗したのを目撃したのだろうか。ハルは冷や汗をかき始めているような気がした。注文されたケーキを箱に入れ、その子に手渡しながら、「あたしのジャグル観てくれたの?」と、冷や汗を抑えるために聞いた。女の子はこっくり頷き、「かっこよかったです」と言ってくれた。今度は体が熱ってきた。「もしかしたら、あたしの失敗見た?」「猿も木から落ちるでしょ?」「ハハハ。」あれは本当にギャグだったのだろうか。お店から出て、女の子はガラス越しから手を振ってくれた。

 シェ・ルミーの仕事が終わると、次にケーキ屋の近くに住んでいる佐々木さんの家に向かう。ドアベルを鳴らすと、ますますお腹が大きくなった佐々木さんが出てきた。
「こんにちは。もうすぐですね。」
「うん。もう予定日から1カ月切ったわ。」
「荷物を置かせてもらいます。」
「どうぞ、どうぞ。ラッキー、ハルちゃんだよ。」
 犬のラッキーがかしゃかしゃ廊下を爪で鳴らしながらやって来て、ハルにジャンプして顔を舐めようとした。「ラッキー、飛びつかないの! ラッキーはハルちゃんが大好きなのよ。じゃあ、今日もお願いします。」
 ハルは、シェ・ルミーの後、ほぼ毎日佐々木さんちのラッキーの散歩の仕事をする。散歩は1時間かけ、週末にハルが大道芸をする公園まで行く。その途中、コンビニで100円アイスのバニラソフトを買い、公園で蓋に少しアイスを入れてやりラッキーと食べる。これは佐々木さんには内緒にしている。最初はひとりで食べていたが、ラッキーがじっとこちらを見て、白糸の滝のように涎を垂らすので、見るに見かねて蓋にお裾分けをあげるようになった。今ではラッキーはもらうのが当たり前と考えているようだった。
 公園のベンチに座り、バニラソフトを食べながら、ハルの頭はこの間の土曜日に戻っていた。眩しかった太陽、取り損ねたボール、猿も木から落ちる、笑いと拍手。ハルは小さい頃からバランスを取るのが得意なのだ。一輪車なんかすぐに乗れた。ボールをジャグルするのもすぐにできるようになった。多分、ハルが思うには、考えないことがコツだろう。直感で動くのだ。考え過ぎると何もできなくなる。深く考えると、物事が見えなくなってくる。直感が自分を前に進ませてくれる。ハルはこう考えていると思っているのだが、もちろん深く考えた結果ではなく、何となくそんな気がするとうっすら本人の頭にあるだけのことである。しかし、この間の失敗は頭から離れない。猿は何回木から落ちるんだろう。
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