第32話 鬼の石橋さんの話【石橋・監督】

文字数 1,865文字

秩父農工野球部、夏の合宿最終日。
ついに鬼と呼ばれる石橋さんが到着した。
石橋さんは監督と古い仲で、20数年間、合宿の最終日にボランティアでノックをしに来ていた。
真っ黒な車のジープから降りてきた石橋さんは、パッと見は普通のおじさんなのだけれど、先輩たちが一気に緊張したのが小島にも分かった。

早速、石橋さんのノックが始まった。
噂通りミスをすると石橋さんは容赦なく尻バットを浴びせた。
その時代の尻バットは珍しいことではなかったけれど、人に対してフルスイングする人間を小島は初めて見たし、野球をやってきて初めて恐怖を感じた。
中学生の頃、頭のいかれたヤンキーのハギのせいでバットを持った奴らに襲撃されたことがあったけれど、石橋さんと比べたら、そんなの可愛いものだと思った。

ノックがいよいよ小島の番になったとき、石橋さんは小島にこう言った。
「バックネットの1メートル手前に落とすから捕れよ」と。
そして石橋さんは、カキーンとキャッチャーフライを打ち上げた。
その打球を見て小島は度肝を抜かれた。
ボールが、バックネットより遥か上まで飛んで行った。
小島が今まで見たことのない高さだった。
そしてはじめて見るとんでもない打球を小島は…捕れるわけがなかった。
けれどボールは、石橋さんが予告通りバックネットの1メートル手前にきっちり落ちていた。

小島が石橋さんの尻バットを喰らった時、だるま落しのように尻だけ飛んで行ってしまうんじゃないか?と思ったほどだ。
尻はちゃんと体に残っていたけれど、合宿前の怖いもの見たさは、きれいに飛んでいった。

合宿のラストに待っていたのは、キャッチャーノック100球だった。
小島は、尻バットを受けたくない一心で今までない集中力を見せ、ほぼ完璧にノックを終える。
けれど、それがいけなかった…

石橋さんのキャッチャーノックをほぼ完璧にこなしたキャッチャーは過去におらず、しかも成し遂げたのが1年生ということもあって、小島は完全に石橋さんにロックオンされてしまったのだ。
過去20数年間、年に一度だった鬼の襲来は、だんだん週一回になり、小島らが中心のチームになる頃には、自腹で農工野球部のユニホームを購入して毎日来るようになってしまった。
そしてグランドから石橋さんの真っ黒なジープが入ってくるのが見えるのだけれど、野球部にとって黒のジープは生涯忘れることができない恐怖の象徴となった。

石橋さんの名誉のために言っておくと、石橋さんは、ただのパワハラおやじではない。
選手として芽は出なかったものの、独自の野球理論を構築してコーチ業を学び、ノック専門のコーチとしてプロの球団から頼まれた経歴を持っている。
そのため生半可なノックではなく、それぞれの選手の能力に合わせてギリギリで捕れる打球を正確に打つ。
職人技のノックは部員の誰もが認めているので、石橋さんの球が捕れないときは、そいつが手を抜いたかさぼっているというのが選手全員の共通認識になっていた。
それゆえ石橋さんが来ると一切手を抜けない死ぬほどキツイ練習となる。
けれど、もし手を抜いたりさぼるとフルスイングの尻バットが飛んでくる。
つまり気を抜いても抜かなくても部員には地獄が待っているシステムになっていたのだ。

それでも石橋さんは十分ではないと考え、自分の野球理論を叩き込むために小島と交換日記をはじめる。
毎日の日記で野球とは?キャッチャーとは?等々を小島に問うた。
そして小島が漢字を間違えると赤ペンで修正し、間違った漢字を1ページ書き写しさせた。
交換日記のノートは、すべて石橋さんが保管していたので、小島は何冊書かされたのかわからない。
確かなことは地獄のような日々だったということだ。
けれど他の誰より野球が詳しくなったのは、そのせい…いや、そのおかげだと小島は後に語っている。
そして小島は40歳を超えた今でも石橋さんのことを「人の皮を被った鬼だ」と言いふらしている。

部員から恐れられ、鬼と言われていた石橋さんだったけれど、本人はそのことをまったく気にしていなかった。
別に空気が読めない男という訳ではない。
そして石橋さんは役場で勤めているのだけれど、仕事が終わってどんなに疲れていてもグランドへ通い続けた。
なぜそこまでするのか?
それは、秩父農工野球部に可能性を感じていたからだ。
何より、小島にプロに行ける可能性を感じていた。
けれど鬼の石橋は、小島本人にそんなことを口にするような男ではなかった。
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