第2話 出生における過保護

文字数 918文字

まず、今の日本人は出生において既に過保護さを味あわされている。
出産は医療行為ではないと云う事実は、あまりに知られていない。
僕は四人の子供たちの出生にあたり、どの方法が正解だったのか、未だにわからない。
これから他の事例の時にも適用されるであろう、僕の正解を探るうえでのスタンス。
まず、正解など有り得ない、という前提のもと、より自分なりの正解みたいなものに近づく為には、旧きを温ねるのである。
人間という、長寿命な部類の脳だけがやたら発達した異形の生物を観察・分析するには、少し前に一般的であった事が重要である、と、考える。
彼らは肉体やモラルの劣化を犠牲に利便を追求し、それを享受する事を是とした単一方向性を持つ集団であると位置づけられるからである。
彼ら、と表現したが、もちろん僕もそのひとりだ。
そんな中、利便こそが多様性をもたらすと信じられ、たしかに利便性により新たな「しない」選択肢が産まれ続ける。
効率化された事により省かれた時間と労力。
しかし、それは有意義に使われているだろうか?
新たな利便は商品価値を得、僕らはそれを得る為の対価を稼ぐ必要性に迫られる。
忙しさを緩和する商品やサービスの利用の為の、より忙しい生活実感。 
そして、それがまた新たな利便追求への糧となる。
ならば、その為に「しなくなった事」の価値はどうなるのか?
一般的に、そうした思考回路を持つ事は野暮とされる傾向にあると思う。
そして、その個人が過剰にセンシティブであるとされるケースも少なくない。
そうしてまた、そんな状況がそうした人たちの思考を極端に先鋭化させ、対立を生み出す。
対立関係にあるマイノリティは駆逐される運命を免れない。
いささか脱線気味になってしまったが、もともと捻くれ者であった僕が、いわゆる主流とされる世のムードに対する懐疑を決定的にする過程に、4人様々な出産状況は大きな関わりを持っている。
そして、そこから始まる育児・教育・労働・消費行動、終末医療に至るまでの現代人の一生は、あまりに過保護さに縛られているのではないのだろうか?
そんな疑問を出発点に、どんな距離感が好ましいかの模索をしてみたいと思う。
負け犬の遠吠えとか、阿呆の戯言くらいに受け止めて欲しい。
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