第4話 結果的比較論としての出産論

文字数 891文字

その後僕らは3人の子宝に恵まれ、合計4回の妊娠・出産を経験し、その度違う産院を利用した。
長男は愛知県の大病院、次男は愛知県のちいさな産婦人科開業医、長女は愛知県の助産院、次女は長野県の市民病院。
次男以降も妻の意向だけで産院選びをしたが、産む本人である彼女の意識は少なからず変わっていただろうし、単に初産は大変なだけかもしれない。
ただ、やはり長男出産直後の「一応切りますね」の一言で、事前の説明もなく執刀された会陰切開は最悪だった。
妻が産後いちばん辛そうだったのがその縫合跡のひきつれだったし、僕らも聞くべきだったのかもしれないが、切った意味は結局説明される事はなかった。
ほんとに必要な切開だったのだろうか?
切開は医療行為だ。
保険点数。
そんな、病院側の都合が頭を過るのも無理はないんじゃないか?
確かに日本は医療大国である。
しかし、税金で賄うその手厚さは、こんな大きな総合病院をより巨大化させるだけなんじゃないか?
長い待ち時間、適当な診察、「一応」処方される薬、不十分な説明。
まるでベルトコンベアの荷物みたいに粗雑に扱われる患者。
次男以降は特に不満のない出産が出来たが、いちばん良かったのは長女の時の助産院だ。
家族みんなで泊まり込めたし、月とリンクさせた出産日時の予測など、先生のいろんな話がいちいち腑に落ちた。
こういうところが総合病院の産婦人科に駆逐されてはいけない。
既に産婆さんはほとんど居ないし、自宅出産などは先鋭的な分野に逆転してしまっている。
助産院での出産時も医療行為が出来る様、手配がされていたし、こんな出産の現状は「万が一」を諦め切れなくさせられた「過保護社会」の、極めて端的な表出なのではないだろうか?
出産は、便利に手軽に出来る事ではない。
それが、「安心」にすげ替えられた流れ作業に堕していて、その原因が、「安心感」というイメージへの集中にある事を目の当たりにすると、どうやら他のものごとにまで、過保護さの弊害は波及してるんじゃないか?と考えてしまう。
バイアスかもしれないが、そんな風に眺めると、世の中すべてが「○○」ではなく「○○感」に支配されてる様に、僕には見えた。
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