第1話 港町の記憶

文字数 1,373文字

 父の危篤を知ったのは、定年を前に最後の仕事となる、マレーシアの発電所建設現場だった。
 翌日、マニラの自宅で帰国の準備に取りかかっていた時、弟から二度目の連絡が入った。眠りにつくような最期だったという。
 武雄は、死に目に会えなかった悲しみを堪え、葬式参列のため北海道の実家に向かった。
 父とは七年前の母の葬式以来会っていなかった。というよりも、高校卒業以来、親子の会話の記憶はない。なぜここまでこじれたのか、正直、武雄にもよくわからなかった。
 ニノイ・アキノ国際空港から羽田に飛び、羽田からの直行便で約二時間、寒さと温もりが入り混じる北国の風景を眺めながら女満別空港に降り立った。
 内陸の商業都市・K市行きのバスが待機しており、十人前後の客が乗り込むと、定時にバスは発車した。

 バスは静かな町並みを抜けて行く。小さな鉄工所が見えた。
 武雄が生まれたのは反対方向のA市で、オホーツク海の潮風に洗われる漁港だった。酷寒の二月は、吐く息も瞬時に凍りつく。
 父は港のはずれにある鉄工所に勤めており、家族は職場に近いアパートを借り上げた社宅に住んでいた。
 あれは小学校三年のころ、大寒のある日曜日だった。
「母さん、工場に行ってきてもいいかい」
 朝早くから首に手ぬぐいを巻き出て行った父が気になって、武雄は母に声をかけた。
「今日はプロペラ磨きの仕事が入っている。大事な仕事だからじゃましねぇようにな」
 武雄はプロペラ磨きという言葉を何回か聞いていたが、実際に見たことはなく興味を持っていた。
 この仕事が入ると母は、夕食にビールを一本つけた。母もコップに半分ほど飲み、父は母に注いでもらったビールに顔を綻ばせていた。
 鉄工所は船の修理から始まったらしいが、それだけでは成り立たず、建築金物や水道工事など、およそ鉄がからむ仕事は何でも請け負っていたようだ。港が流氷で覆われると、稼動を休む漁船の修理やスクリュープロペラ修理の仕事が忙しくなる。 
 工場のシャッターは寒さを凌ぐためか三分の一しか開けられていない。父が秘密の仕事をしているような気がして、胸が高鳴った。
 シャッターをくぐると、黒光りのする様々な工作機械が並び、油と鉄粉のにおいが、機械の体臭のように漂っていた。
 工場の隅で、船のスクリューと格闘している父の背中が見えた。作業台の上にはヤスリや金ブラシ、それに何種類ものサンドペーパーが裸電球に照らされている。
 プロペラを覆う白い塊は相当固いものらしく、柄を握る分厚い手に体重を駆けながら、慎重に刃先で削り落としている。
 背中から湯気が立ち、総動員された筋肉の動きが、作業着を通して見えるようだ。
 父は振り返ることなく、「足元に気ぃつけろ」と低く言った。
 磨き終わった大きなプロペラが、木台の上に置かれていた。顔が明瞭に映るほど輝き、父と母の宝物のように見えた。
 父が表情を緩め、薪の火に手をかざしながら口を開いた。
「砲金のプロペラも海のきつい塩にはかなわねぇ。これは塩で錆びた表面に、ふじつぼという貝が付着したものだ。これだけの鏡面研磨はこの町じゃ父さんにしかできねぇんだ」
 研磨されたプロペラは船の推進力を増し、漁場を往復する燃料も節約できるという。武雄にも、何となく理解できた。
 このとき武雄は、いつかは自分も父のようになりたいと、確かに思った。
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