第2話 初歩のラジオ

文字数 1,623文字

 樹林を縫うように川が流れている。あれは小学五年のころだろうか。父との釣行で、子連れのキタキツネを見たことがある。あれが父と歩いた最後の記憶だ。
 父は酔うと、通信隊に属した太平洋戦争の話を始めた。
 いつも繰り返されるのは、中国からインドシナ半島に行軍し、サイパン島で奇跡的に命が助かったという話だった。
 中でもよく聞かされたのは、タイの草原を軍用トラックで走っていた時の話だった。父は無線機を担ぎ、荷台の後部で揺られていた。ふと後方を見る。生い茂る草の先端が不気味に揺れ、みるみる迫ってくる。足元に這い上がろうとしたのはどす黒い大蛇だったという話は、何回聞かされても武雄の胸をどきどきさせた。
 武雄は、無線機という言葉に興味を持った。言葉の響きに武雄が興味を持つ科学の匂いを感じたからだ。
「父さん、無線機ってどんな働きをするの?」
「戦地で前線の情報を本部に電波で知らせるんだ。もちろんすべて暗号だ。だが、敵に見破られれば、仲間は皆死んでしまう……」
 父はモールス信号のことを話し始めたが、急に顔色が曇り、それ以上は話さなかった。
 武雄は、モールス信号を打つ電鍵を自分で作ってみたくなった。父に話すと反対されそうな気がしたので、母にお願いし、町の電気屋に部品を買いに行った。
 太い釘にエナメル線を巻き、モールス信号発信器らしきものが出来上がった。胸をわくわくさせながら、SOSのモールス信号を打っている時だった。父が鉄錆びの染みたタオルで汗を拭きながら帰ってきた。
 武雄は不安と期待が入り混じった笑顔を作り、父を見上げた。けれども父は、足元の工具や部品をじっと見下ろしただけで、去っていった。父の目は、何か別なものを見ていたような気がした。
 武雄は、電波でモールス信号を送る無線通信機の原理がラジオと同じだということが分かり、自分でラジオを組み立ててみようと思いついた。
 町の本屋で、雑誌の棚に並んでいた、「初歩のラジオ」という本を見つけた。表紙を飾る真空管ラジオのカラフルな写真に、胸がどきどきした。ページをめくると、「ラジオを組み立ててみよう」という特集が載っていた。裏表紙の価格を見る。三百五十円だ。貯めていた小遣いを全部はたいても足りない。
 走って家に帰ると、茶の間で父が新聞に顔を埋めていた。武雄は父に、「お帰りなさい!」と元気に言いながら、真っ直ぐ台所に向った。
「母さん、百円、貸してもらえんかな。ラジオの組み立て方が載ってる本があったんだよ」
 武雄は、声を小さくして言った。その時だった。
「ラジオの組み立ては、中学に入ってからにしなさい」
 母の返事の先回りをするかのように、父の低い声が響いてきた。
 母は武雄の目を見ながら、父に何かを言おうとしていた。
 武雄は、食い入るようにその目を見ていた。父の、せわしなく新聞をめくる音が、それ以上の会話を拒んでいた。
 武雄が、がくりとうなだれ、踵を返そうとした時だった。母の手がそっと肩にのび、「内緒だよ」と囁くと、四つに折った百円札を武雄の手に握らせた。
 翌日、武雄は本屋に回り、初歩のラジオを買ってきた。
「母さん、ありがとう!」
 母は本を手にとり、表紙のラジオキットを不思議そうに眺めていた。「大事にしなさいよ」と、小さな笑みを浮かべ、武雄に手渡した。
 けれども母は、決して武雄を甘やかしているのではなかった。勉強では父よりも厳しかった。 いつも友達との競争心を煽る母が嫌いだったが、それさえなければ武雄のよき理解者だった。野球の練習でいつも腹を減らしている武雄に、父や弟には内緒で、よくコッペパンを買ってくれた。
 それから武雄のラジオとの格闘が始まった。電器店の裏には、廃棄ラジオが山と積まれていた。店の主人が危ないから止めなさいというのも聞かず、抵抗器やコンデンサーなどを取り出した。高価な真空管も、足を棒にして探し回った。電源トランスだけは使えるものがなく、母に新品を買ってもらった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み